開かれた扉
しかし、開けたファイルは空だった。
一枚の紙切れもなかった。
マルセロは笑った。驚愕も恐怖もなかった。
「......そう来るのか。」
セレスティアの記録は、最初から存在しなかったのだ。
誰かが隠したのだろうか。
いや、違う。
ただセレスティアが最初から痕跡を残さないようにしただけだ。
情報員としての技巧、彼女の生き方そのものに、マルセロは深く、深く落ちていく。
マルセロは怒るどころか、セレスティアの沈黙の意味を理解した。
「逃げる術を持つ者だけが、沈黙を使う権利がある......あなたは、やっぱり俺より上だ。」
その夜、彼はファイルを閉じ、セレスティアへの敬意と執着をさらに深め、記録室を去った。
禁忌を犯してもなお、セレスティアは手に入らない。
だからこそ、より強烈に欲しくなってしまう。
セレスティアは静かな館の一室で、ただ窓際に立っていた。
マルセロに追われていると知りながら、逃げようとさえとしなかった。
――逃げるかどうか決めるのはわたくし。
自身の言葉で、彼を狂わせたのは承知の上だ。
深夜。
セレスティアは屋敷の敷地に客の気配がした。
彼女は驚かなかった。恐れもしなかった。
むしろ——
ようやく来たのね。
という淡い満足さえあった。
足音はほとんどなかった。それは諜報員としての一部だ。敵意はなく、目的だけを帯びている。
セレスティアは窓越しに月を眺めたまま、ドアの向こうの気配に耳を澄ませた。
しかし、彼は入ってこなかった。
扉の前で静止したまま、セレスティアの呼吸すら読んでいるように感じた。
ドア越しに、低い声が落ちてきた。
「......沈黙のまま、ここにいたのですか。」
怒りも、焦りもない、ただセレスティアを理解したいという渇望だけ。
彼は扉を開けなかった。
セレスティアが開けるまで、自分は一線を越えない。と言う意思表示であった。
扉越しに、小さな音がした。
何かが静かに置かれた。
そのまま足音もなく、気配が離れていく。
セレスティアが扉を開けた時、廊下には誰もいなかった。
代わりに、床にひとつだけ、黒い封筒があった。
セレスティアが送った封筒よりも少し厚みがあった。
それを拾い上げて、部屋の中に入り扉を締めて、封筒を開けた。中には銀細工の 身分そのものを示す“刻印入りプレート”があった。
それが彼の手によって、真っ二つに折られていた。
「あなたの沈黙の前では、任務も地位もすべて捨てる」
という、彼なりの“覚悟”の形。
その下に、わずか一行だけ書かれていた。
逃げるなら追う。留まるなら従う。選ぶのはあなただ。
書いたのはマルセロだった。
マルセロはセレスティアの居場所を突き止め、門前まで来たのに、 一線を越えなかった。
越えられなかったのではない。
ただセレスティアの許可が欲しかったのだ。
彼女の一挙手一投足が、彼を縛って、揺らして、狂わせているのだ。
そして今、マルセロはセレスティアに選択の場を設けた。
夜はまだ深く、灯りのほとんど消えた館に月光だけが細く差し込んでいた。
セレスティアの指先が、静かに扉へ伸びた。
ノブに触れた瞬間、廊下の向こうで、わずかに空気が揺れた。
彼はまだ近くにいた。
去っていなかった。
ただ、セレスティアの決断を待っていた。
音もなく、扉が開いた。
廊下の奥、暗がりの中に、影がひとつ立っていた。
呼吸すら押し殺すほどに、空気は張り詰めていた。
彼は一歩も踏み込まなかった。
それはセレスティアへの敬意であり、欲であり、恐れでもあった。
彼女が扉を開けた瞬間、影がゆっくりと近づいた。
月明かりに照らされて、彼の瞳だけが浮かび上がった。
静かで、鋭くて、
でも......どこか脆かった。
セレスティアは何も言わなかった。
沈黙が二人の間に入った。
その沈黙に、マルセロの喉が僅かに震えた。
そして、セレスティアから目を逸らさずに言った。
「......呼んだのか?」
声は低くて、掠れていて、まるで“祈り”のようだった。
セレスティアはまだ答えなかった。
沈黙のまま、ほんの少しだけ扉を広げた。
入っていいか、どうか。
それを決められるのは、彼女だけだ。
マルセロは一歩だけ近づいた。
だが、扉の境界線の前で止まった。
自分では越えない。
セレスティアが許さない限り。
「......覚悟は示した。あとは、あなたの判断に従う。」
暗闇の中、セレスティアの沈黙だけが彼を支配していた。
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