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届かぬ声、揺らぐ心

 夜の政庁には、昼の喧騒が嘘のように静まっていた。

 視察先で負った傷は小さかったとはいえ、セレスティアの腕にはまだ薄い痛みが残っている。医務官の処置を受け、包帯を巻かれ、誰に見られることもなく部屋へ戻った。

 だが痛むのは、傷よりも別の場所だった。


 部屋に置かれたランプが、橙色の灯りを揺らめかせる。

 セレスティアは窓辺に立ち、深く息を吐いた。

 マルセロ。

 あの男の名を思うだけで、彼女の胸の奥がひどく波立ってしまう。


 事故の報告を受けたときの彼の表情――それを思い出すだけで、腕の傷より胸の痛みが強くなってしまう。

 抑えられた怒気。誰に向けたものだったのか。それは分かっている。

 自分を傷つけた存在へ向けられた、あまりにも激しい感情。


 なぜ、どうして、あんな顔を見せるのだろう。


 答えを出したくないその問いが、何度も何度も頭の内側で反響した。

 権力者であり、異質で、危険――そう理解してきた男だ。

 距離を取るべき相手であるはずだった。


 なのに。


 拒絶しきれない。

 冷たく振る舞うことは出来ても、心は追いつかない。


 私は......この男に心を乱されてしまうのかしら? そんなこと、許されないはずなのに......。


 セレスティアは両手を胸の前で固く組み、震える息を押し殺した。

 窓の外では風が木々を揺らしているだけで、誰もこの部屋の静けさを破ろうとはしない。

 その静けさがかえって、彼女に自分の心のざわめきを突きつけた。


 マルセロの名が頭をよぎるたび、胸の奥に火を落とされたように熱が集まる。

 彼に会ってはいけない。

 そう思うほど、会いたい衝動が形を持ちはじめる。

 自分が何かに侵食されていくようで、セレスティアは目を閉じ、窓辺でひとり震えた。


 そのころ――


 諜報塔にあるマルセロの執務室にも、別の夜が沈んでいた。

 机の上には、調査網から上がった報告書が積み重ねられている。事故の背後に意図はあったのか。まだ断定には至らない。

 しかし、彼の思考の大半を占めているのは政治ではなかった。


 セレスティアを守りたい。


 それはもう理屈では説明できない感情だった。

 だが、彼女自身は明確に距離を置こうとする。

 近づけば拒まれる。

 離れれば危険に晒される。

 そのどちらを選んでも彼女を傷つける可能性がある。


 ......それならば、彼女自身に選んでもらうしかない。


 マルセロは深く息を吸った。

 彼はこれまで、誰かに“選んでもらう”という行為を期待したことがなかった。

 己の権力、地位、知略――それらを用いれば、ほとんどの物事は思い通りに動いた。


 だがセレスティアだけは、そのどれにも従わない。


 だからこそ、彼女が必要だと気づいてしまった。


 彼女の意思が。

 彼女の言葉が。

 彼女の選択が欲しいのだ、と。


 ふと視線を落とすと、机の隅に新品の便箋が置かれていることに気づいた。

 マルセロは迷うように指を伸ばし、そっと一枚を取り上げた。

 こんなにも紙一枚が重く感じるのは初めてだった。


「私は、おそらく......この感情を言葉にしなければならない。」


 そうマルセロは呟いた。


 彼は諜報員として多くの文書を作ってきた。

 命令書、交渉文書、声明、部下への指示。

 だが“個人”として誰かに向けて書く手紙は、これまでの人生でほとんどなかった。


 手に取ったペンを、指がかすかに震わせた。

 震えなど、彼の人生には無縁だったはずなのに。

 それなのに――セレスティアのこととなると、理性の衣を脱がされるようだった。


 便箋の上に、ゆっくりと黒い文字が刻まれていく。


 そこには、彼の願いの言葉が並び始めていた。

 彼女の隣に立ちたい。

 これからもその先にある危険や争いから守りたい。

 それを承知のうえで、なお歩み寄ることを許してくれるのか。


 マルセロは何度も書いては書き直し、少しだけ頭を抱えた。

 強い言葉を使えば押しつけになる。

 弱い言葉では届かない。

 その狭間で、初めて彼は“言葉は力で押し通すものではない”という事実に向き合っていた。


 深夜。

 手紙はまだ完成していなかった。


 しかし、彼の心にはっきりとした線が引かれた。

 彼はもう、自分の感情から逃げない。

 セレスティアに正面から向き合うための、一歩を踏み出す準備を始めていた。



 一方、その頃。

 セレスティアは窓辺にもたれ、静かな夜に揺さぶられていた。

 思い出すのは、彼の怒りでも、権力でもない。

 事故の知らせを受けた瞬間に見せた、あの痛むような表情――。


 互いの夜は、まるで別々の場所にいるはずなのに、一つの線で繋がっていた。

 けれど今はまだ、その線が言葉になるには、少しだけ時間が必要だった。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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