19. 嫌い、なはずだった (ライオネル視点)
公爵に叩かれた時の頬の痛みなんかもう遥か彼方で気にもならなかった。
だけど今は、バックンバックンと自分の心臓の音がうるさい。
知らなかった……不安というのはこんなに胸がうるさくなるものだったのか……
俺は反応が怖くてエドゥイナ……彼女の顔が見れない。
(───言った。言ってしまった……)
────俺は! …………貴女のことが好きです────エドゥイナ
これは、いくら離縁するつもりだと本人が言っていても、俺の仕える殿下の妃である彼女に口にしていい言葉ではない。
今、公爵が立ち去った後のこの部屋だって完全に二人っきりてわはない。扉も開いてるし外にも人が控えている。
つまり今の俺は堂々と王子の妃に不貞を誘っているとんでもない男だ。
(……きっと今は振られるんだろう)
───わたくしの嫌いなものを特別にあなたに教えてさしあげますわ
───浮気だけは許せない……だいっっっ嫌いなんですの
───わたくしは! たとえ、どんなに不本意であっても結婚が成立している身で“そういうこと”はしません!
エドゥイナはそうはっきり言っていた。
自ら無理やり“相思相愛”の殿下とセオドラ妃の元に割り込んだはずなのに、浮気だけは許せない?
本当に彼女にどんな心境の変化があったのだろうか。
俺はそっと目を瞑る。
エドゥイナ妃────いや、エドウィナ・クロンプトン公爵令嬢……
俺は彼女のことが嫌いだった。
『ジャイルズ殿下~』
いつも執拗いくらい殿下のことを追い回していて婚約者でもないのに他の令嬢たちには、さも自分が殿下と婚約するかのように吹聴していつも周囲に牽制を入れていた。
『───あなたのような小娘が殿下と釣り合いが取れると思って?』
実際、殿下がセオドラ妃と出会わなかったらエドゥイナは正妃に選ばれていただろう。
しかし結果として彼女は選ばれなかった。
だから、殿下がセオドラを妃として迎えた後、乗り込んで来たエドゥイナを見た時はなんて諦めの悪い人だと辟易した。
……ずっとずっと何年も見向きもされていないんだぞ?
どうせ、殿下の顔と身分が目的なだけなんだろう?
そもそも、なんでここまで冷たくあしらわれているのに自分が殿下の好みのタイプではないのだと分からない?
金と権力だけで脅して、欠片も愛されていない側妃になんかになっても心は虚しいだけ。
決して幸せになれるはずないだろうに。
(……俺は知っている)
パーティーで殿下に誘いをかけては袖にされ分かりやすく皆の前で怒り狂っているエドゥイナが、いつも影でこっそり涙ぐんでいたこと。
大抵どこのパーティーにも顔を出しているのに、ある時からパッタリと姿を見せなくなる時期が定期的にあること。
その“ある時期”というのが、大抵その前に行われたパーティー等の場で大きく殿下の不興を買ったあとであること。
(明らかに不自然だった……)
殿下との婚姻の手続きをしたあの日もそうだ。
念願の殿下との婚姻が叶ったはずなのに。
自分で“側妃”でも構わないと口にしていたはずなのに。
一つ一つの手続きを終える度に、だんだんエドゥイナの目から光が無くなっていくのを俺は見ていた。
(こんな結婚のどこに幸せがあるって言うんだ!)
そう思っていても俺の立場では何か言うことなど出来るはずもなく。
またあの日、エドゥイナの様子がどんどんおかしくなっていったことは殿下も感じていた。
『エドゥイナのあの様子……正妃であるセオドラに何かする気かもしれない───』
エドゥイナは側妃となったことでこれまで踏み込むことが出来なかった、王族の生活の場でもある王宮に自由に入り込めるようになった。
王宮のメイドを付けるのを頑なに拒否し、実家のメイドたちを連れて来ることも強行していた。
ここまでされるとエドゥイナがセオドラ妃に害を成す可能性は否定出来ず俺たちは警戒した。
(しかし……)
初夜をすっぽかされ、怒り心頭であるはずのエドゥイナから飛んで来た毛布は忘れられない。
あの日は特に寒かった。
廊下があんなに冷えるなんて知らなかったからこのまま軽装でいいやと判断したことを後悔してもいた。
だから、お礼を言ったら何故か口喧嘩となり───……
(あの辺からエドゥイナは大きく変わったように思う)
影でこっそり泣く姿を見ることはなくなり……あんなに憎んでいたはずのセオドラ妃とも仲を深め、手に入れたはずの殿下には離縁の話を持ち出す。
そのあっという間の変化に驚かされているうちに、自分の中のエドゥイナへの感情が嫌悪とは違う気持ちが芽生えていることに気付いてしまった。
そうして俺は思うようになった。
エドゥイナの望む“幸せ”ってなんだろう?
果たして、そこに俺という存在はいるのだろうか。
まさか……自分がこんな弱気なことを考えるようになるなんて……
(恋心というのは恐ろしい……)
「……」
俺は彼女……エドゥイナが動かないのをいいことにギュッと腕に力を入れて更に囲い込む。
今、ここで逃げられるのだけは勘弁願いたい。
「エドゥイナ……貴女と殿下との離縁が成立した後───」
「……」
「どうか、俺と一緒になることも考えて欲しい」
「……」
そう告げた瞬間、ビクッとエドゥイナの身体が跳ねた。
ああ、良かった。
ずっとピクリとも動かずに硬直していたから息をしているのか少し心配していた。
(なんて返ってくるかな……)
顔を真っ赤にして怒りだすか、フンッと鼻で笑ってくるか……
どちらにしても彼女らしい強気な反応が返ってくることだろう。
それが振られる内容だと分かっていても想像するだけで楽しみで口元が緩んだ。
「……エドゥイナ」
エドゥイナは怒るかもしれないが、今だけは“妃”という称号はつけたくないんだ。
そう思って愛しいと感じる彼女の名を呼ぶ。
しかし、彼女からの返事が無い。
「…………エドゥイナ」
もう一度呼びかけながら、俺は覚悟を決めておそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。
そしてその瞬間、これまでに経験したことのないほどの大きな衝撃を受けた。
「──────かっ!」
思わず口から飛び出しそうになった言葉を必死に飲み込む。
(か……可愛い……)
俺の腕の中にいるエドゥイナは想像していた反応と違っていて、目元を潤ませ顔を真っ赤にしていた。
そんな彼女のあまりの可愛さに直視出来ずに思わずパッと顔を背けてしまう。
(こ、これは反則だ……!)
最近は特に可愛いくて可愛くて仕方がないと感じている自覚はあったが、今のはダメだ。
なんでこんな可愛い反応を見せてくるんだ!!
「ラ、ライオネル……様」
「っっ!!」
エドゥイナのどこか不安そうな声を聞いてハッとする。
(ダメだ、どんなに可愛いくて直視するのが恥ずかしくても───ここで顔を背けるのはダメだ……)
この気持ちを誤解されたくない。
俺は勇気を出してもう一度エドゥイナの顔を見る。
俺たちの目がパチッと合った。
「あなた、が、わ、わたくしのこと…………をす、好き……?」
エドゥイナが震える声で聞き返してくる。
その可愛い反応に俺の胸がキュンッとなった。
ドキドキする胸を押さえてどうにか口を開く。
「好きですよ。好きなんです」
────助けてくれ。
目の前のエドゥイナに可愛さにやられて語彙力が消失したのか“好き”以外の言葉が出てこないんだが。
もっと気の利いたことを口にしたいのに。
「……!」
だが、他に飾らないその言葉が逆に良かったのか、エドゥイナの反応が思っていたほど悪くない。
可愛い顔のまま息を呑んだと思ったら潤んだ目で俺のことを見てくる。
「あなた……は、わたくしのこと……嫌い、でしょう?」
「そ! そう思っていた時期があることは───否定しません」
誤魔化す……ということが苦手な俺は馬鹿正直にそう答えてしまう。
でも、今の俺が君に抱く感情は嫌悪じゃない。
“愛しい”なんだ─────……
「ですが……」
「……ふ、ふふ」
「?」
俺の言葉を遮ってエドゥイナが小さく笑った。
なぜ笑われたのかが分からない。
分からないがその笑顔も…………可愛いくて堪らない。
我慢出来なくなった俺はそっとエドゥイナの髪をすくい手に取るとそこにキスを落とした。
「───!?」
それまで笑っていたエドゥイナが驚いたのか更に真っ赤になる。
「なっ……なっ……!」
(───仕方がないだろう!)
だって今の俺が君に触れられるのはここまでが精一杯なんだ!
俺は堂々と開き直る。
「エドゥイナ。貴女は男性に頼って生きることだけが幸せではないと言いました」
「え、ええ……」
「でも、俺は貴女に頼られたい」
「!」
エドゥイナが目を瞬かせ大きく見開く。
そんなに驚くことだろうか?
「これから先、貴女が困難に差し掛かった時───エドゥイナ、いつだって貴女に手を差し伸べて助けるのは俺でありたいんです」
「……」
「俺は貴女が困った時、真っ先に思い浮かべてもらえる男になりたい」
(だから俺を選んで欲しい───)
そんな想いを込めて俺はエドゥイナに向かって手を差し出す。
(一度振られたくらいで諦めるつもりは無いが……)
無事に離縁が成立してからが本当の勝負だ。
「……」
「エドゥイナ?」
それから、しばらくの間、目を真ん丸にして固まって俺を凝視していたエドゥイナがそっと口を開いた────