18. それでも私は離縁を望む
───ああ、殴られる!
そう悟った私は衝撃を覚悟してギュッと目をつぶる。
だってお父様はいつもそうだった。
昔から自分に逆らう人には容赦がない。
でも、今日はグーではなく平手打ちなだけでもマシだと思わなくちゃ─────……
「────エドゥイナ!!」
「……っ」
バシンッ!
私の名前を叫ぶ声が聞こえて、更に叩かれたような音までしたのに全然痛くない。
(え……あ、れ? なん……で?)
どういうこと? とおそるおそるそっと薄く瞳を開いた。
そして飛び込んで来たその光景に私は目を剥いて思わず叫んだ。
「────ライオネル様っ!?」
「……っ」
ライオネル様が私とお父様の間に割り込むように入っていて頬を押さえて蹲っている。
(もしかして私を庇って代わりに殴られた────!?)
焦った私は慌ててその場にしゃがみ込んでライオネル様に寄り添う。
どうして、どうして、どうして?
「ライオネル様! 大丈夫ですか!?」
「っ、あ…………ぁぁ」
「ラ……」
頬を押さえて痛そうに顔を歪めながらも頷くライオネル様。
どうしてあなたが? と聞きたいのに上手く言葉が出て来てくれない。
────エドゥイナ!!
叩かれると覚悟を決めて目を瞑った瞬間、咄嗟に私の名を叫んだのはライオネル様の声だったのだと今更ながら気付く。
私の目には涙がじんわりと浮かんで来た。
「……エドゥイナ……妃。君に、怪我……は?」
「ありません……」
私は涙を堪えながら必死に首を横に振る。
「あなたが……庇ってくれました、から」
「……そう、か」
私のその答えにライオネル様は安心したように微笑んだ。
そして同時に私の身体がフワッと優しくてあたたかいものに包まれた。
(──────え?)
「───あなたに怪我がなくて本当に……よかった」
あたたかい温もりに包まれながら私の耳元でそんな声がする。
(え? え? え? )
自分が今、ライオネル様の腕の中にいるという事実に気付くまで少し時間を要した。
部屋の中では他の護衛たちと共に少し離れた所で控えていたはずのライオネル様。
監視役で“護衛”でもないはずの彼が咄嗟に飛び出して私を庇ってくれた……?
「ライオネ……」
「……」
身体を離して彼の名前を呼ぼうとしたらギュッと強く抱きしめられた。
ドクン、ドクン、ドクン……
この激しく鳴っている心臓の音はライオネル様? それとも私?
どっちの音か分からなくなるくらいのドキドキとキュッと締め付けられて切なくもなる。
(……どうしよう。こんなことされたら、私────……)
これまで見ないふり、気づかないふりをして蓋をしようとしていた気持ちがどんどん溢れて来る。
たまらなくなった私は、自分の腕をそっと伸ばしてライオネル様の背中に回す。
そんな私の行動に驚いたのかライオネル様の身体がビクッと跳ねた。
「エ、エドゥイナ……妃? なにを……」
「ライオネル様! ……わ、わたく、しは、」
この溢れる気持ちを口にしようとしたその時だった。
お父様の怒鳴り声が部屋の中に響く。
「エドゥイナァァ! お前は何をやっているんだ!!」
その声に私の身体もビクッと跳ねた。
振り返るとお父様は顔を真っ赤にしていてこめかみには青筋を立てて怒っている。
「お前は殿下の妃だろう! なんで別の男と抱き合っている!?」
「……っ」
「不貞か!? お前が不貞をしていたのか! だから殿下と離縁したいなどと血迷いごとを言い出したのか!」
私とライオネル様の関係を勘違いしたお父様が怒り狂い始めてる。
(違うのにーー!)
確かに私が殿下との離縁を求めていることは間違いない。
けれど、ライオネル様と私の関係は私の感じている気持ちがどうであれ大きな誤解だ。
ライオネル様にも迷惑をかけるし、まずい──
そう思った私は慌てて訂正しようとする。
「───お父様、 違います! わたくしたちはそういう関係ではありませ……」
「お言葉ですが公爵閣下! 俺は大事な女性が叩かれそうになっていたのに黙って見てなどいられません!」
私の声に被さるようにしてライオネル様の怒鳴り声が響く。
(……ん?)
「そもそも、まともに話を聞こうともせず実の娘に手を上げようとするなんてどういうつもりですか!」
お父様に向かって怒鳴りつけているライオネル様の腕がギュッと私を強く抱き込んだ。
(……んん?)
「それでもあなたは父親なのですか! あなたのような人に彼女の父親を名乗る資格はない!」
(……んんん?)
ライオネル様に思いっきり抱き込まれて私の脳内は現在大混乱を起こしている。
彼が私に手をあげようとしたお父様のことを責めているのは……分かった。
では、最初の発言は?
───俺は大事な女性が叩かれそうになっていたのに黙って見てなどいられません!
頭の中でリピートしてボンッと私の顔が赤くなる。
大事な……女性!?
誰が? 私が? そ、それは殿下の側妃だから……という意味?
「う、うるさいぞ! 殿下の側近でしかない小僧が生意気に───」
「俺は確かに殿下の側近の一人にすぎませんが……公爵閣下、あなたは自分が何をしようとしたのか分かっているのですか!?」
お父様は所々に青筋を立てたままライオネル様に向かって怪訝そうな表情を浮かべた。
「エドゥイナ妃は、確かにあなたの娘かもしれませんが今はジャイルズ殿下……王太子殿下の妃の一人なんですよ!?」
「……っ」
ライオネル様のその言葉にお父様がハッと息を呑んだ。
私のことを妃だのなんだの言っていたくせに頭に血が昇って叩こうとしたあの瞬間はそんなことは吹き飛んでいたのだと思う。
「王太子殿下の妃に手を上げようとした───このことはしっかり報告させていただきます」
「ま、待て! これは……」
「言い訳は無用。この件は私以外にもしっかり目撃者がおりますので」
ライオネル様は部屋の中にいる護衛に視線を向けたあと、ジロッと冷たい目をお父様に向ける。
「躾などと世迷いごとを言うつもりかもしれませんが、全く力の加減をしていなかったことは私が身をもって証言出来ますしね」
「あ……」
ライオネル様はそう言いながら叩かれた方の頬をお父様にチラつかせた。
それを見たお父様の顔がどんどん青ざめていく。
「さて、公爵閣下。それであなたはエドゥイナ妃の話……聞く気はありますか? 勿論ありますよね?」
「~~~っ」
(ひっ!?)
お父様に向かってそう告げたライオネル様の顔と声は、これまで私が見てきた彼の中で最高に冷たくて背筋がゾクッとした。
────
「う! 冷たっ……」
「す、すみません」
話を終えてお父様と他の護衛たちが出て行った部屋。
ライオネル様の隣に腰を下ろし、彼の腫れた頬に水で冷やしたタオルをそっと当てた。
すると、冷たすぎたのかライオネル様がビクッと身体を震わせた。
「冷たすぎましたか?」
「いや……大丈夫」
「…………そう、ですか? では続けますわね」
「ああ……」
その後は会話が続かず、私たちは黙り込む。
私も無言でライオネル様の頬にタオルを当てるだけ。
何だか空気が気まずい。
(だって、何を話したらいいのか分かんない……)
聞きたいことは沢山ある。
でも、やっぱりここはお礼……からよね?
だって彼の頬が今こんなに腫れているのは私を庇ったせいなのだから。
「……ありがとうございます」
「?」
ライオネル様は眉をひそめて怪訝そうな表情を私に向ける。
「そして、父が本当に申し訳ございません」
私がそこまで口にするとライオネル様は静かに頷いた。
「……これはエドゥイナ妃のせいではないだろう? あれは沸点の低い公爵の問題だ」
「ですが……」
「どんな理由があれ、俺は手を上げるのは許し難いと思った。それだけだ」
「……ライオネル様」
ライオネル様の恐ろしいくらいの冷気にあてられたお父様は、びっくりする程小さくなっていた。
私のことを叩いたからといって、さすがに公爵家が潰れるわけではない。
けれど、権力大好きで何より対面を気にするお父様にライオネル様の脅しはかなり効いたみたいだった。
「かなり渋々ではありましたが、陛下たちには改めてお話してくれるみたいです」
「それは良かった……と言いたいところですが」
そこで言葉を切ったライオネル様がじっと私の顔を見つめる。
目が合うと私の胸がドキンッと大きく跳ねた。
「エドゥイナ妃。貴女はこのように公爵に手を上げられたのは今日が初めてではありませんよね?」
「……!」
その質問には別の意味でドキッとした。
私は答えられずにそっと目を逸らす。
すると、ライオネル様はふぅ……と息を吐いた。
「殿下との結婚前の貴女は、パーティーとなると頻繁にどこにでも顔を出していましたが」
「……」
「ある一定の期間、突然パッタリと姿を見せなくなることがありましたね?」
なんで知っているんだろう、と思った。
「その後、また何食わぬ顔で再び社交界に現れていましたが───しかし、それは一度や二度ではなかった」
「……」
だから、なんで知っているんだろう。
その時のことは誰にも言ったことがなかったし、誰からも気にされていないと思っていたのに。
目線を逸らしたまま、そんなことを考えていたらライオネル様は真剣な声で告げる。
「妃殿下? ───殿下と離縁して本当によろしいのですか?」
「え?」
「公爵のような権力至上主義のような人物にとって“ジャイルズ殿下の側妃”という身分は今回のように貴女を守ります」
「あー……そう、ですわねぇ……」
私はライオネル様から目を逸らしたまま頷く。
「公爵のような人間はたくさんいますよ? 俺は! …………貴女が傷つき誰かに傷つけられる姿を見たくはない」
「ライオネル様……」
「それでも貴女は───」
「離縁を望みます、わ!」
私は目線を戻してライオネル様の目を見つめてはっきり告げた。
「それがエドゥイナ妃───あなたの望む“幸せ”なのですか?」
「ええ!」
私が堂々と胸を張って答えるとライオネル様がハッと目を見張る。
(だって……)
気付いてしまったから。
今、私の中にある“想い”
こうして今、私の目の前で心配そうに目を揺らしているあなたへの想い。
この想いを告げたくても“側妃エドゥイナ”の立場では決して許されない─────
「……エドゥイナ妃!」
「は、い?」
「今から俺は本来なら“エドゥイナ妃”に告げることは許されない話をします」
「……はい?」
私が首を傾げた瞬間、ライオネル様が手を伸ばして私の手首を掴んだ。
え? と思ったと同時に彼の頬を冷やしていたタオルがパサッと床に落ちてしまう。
「あ、待って? タオルが───」
「タオルなんて今はどうでもいい!」
「え……? どうでもよくはな……い」
だって頬がパンッパンに腫れちゃうかもしれないでしょ。
そう思って落ちたタオル拾おうとした瞬間、手首を引っ張られて私の体はライオネル様の胸に思いっきり飛び込んだ。
「───っ!?」
何事ーーーー!? と思ったと同時にライオネル様は私の耳元で囁くように言った。
「俺は! …………貴女のことが好きです────エドゥイナ」