1/4 文豪
[今日のタイトル]
他の誰もが彼を文豪と呼ばないとしても自分だけは彼を文豪と呼び続ける――自分はただ好悪や良し悪しに関係なくこの心持を抱かないわけにはいかないのです。
彼の名前を牧野信一といいます。
三が日のある日の夜中皆が寝静まったとき自分は問題用紙を開きました。
少々国語――特に現代文に関すれば絶対の自信があってその部分を後回しにしました。結局言い訳にしか過ぎないのだけれど彼の文体には我々現代人にとっては癖があって、過信や傲慢さがもたらす不利益をしみじみと噛みしめてタイマーをちらりと見ました。
彼の文章には読点が少なく文意を汲み取るのにどうしても時間がかかってしまうのです。その上行動をつらつらと書き連ねている部分にも心情がにじみ出ていてその行動が頭から抜け落ちてしまいます。この辺りで文豪的な巧い文章を書く彼を筋違いにも恨んでしまいます。が却って私の瑕疵が明らかになって惨めな気分になるのです。
残り時間の桁数が一つ少なくなったところでマークシートの空欄はそれに相応しいほどに減ってくれてはいませんでした。ここで私は試験を受けた経緯――文系科目で気分を鼓舞させる――を思い出して余計に惨めになり選択肢を読み込んでも思考が内向きになってしまいます。
そのまま桁数がもう一つ減り咄嗟に目を瞑りました。この無意味で非内省的な行為に私は内心で眉を顰め遂に観念しました。
自分は初めて試験の結果を親に伝えませんでした。
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牧野信一の文体を真似してみたが、書きあげてみたものを見ると全く似ていない。
ただいつもの文章をですます調にしただけなんじゃねーの。
実際彼を文豪と呼ぶかどうかは少し怪しい。wikiにも「決して大作家とは言えない」とはっきり書かれてしまっている。だが後世に与えた影響は大きいらしく、三島由紀夫にも評論を書かれている。
彼の著作に『ゼーロン』がある。デュエマで見た。
舞台は龍巻村といって、実在のモデルがあるらしい。そのモデルが美山町――現在は京都府南丹市であったら『snow』で見たと言えるが、龍巻村のモデルは神奈川県だし、『snow』の舞台は作中で龍神村と呼ばれている。
最後に比較用としてAIに『ゼーロン』のあらすじを牧野信一風に書いてもらおうと思う。
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ああ、読者諸君、聞いてくれたまえ! 私の夢の裡に棲まう、あの痩せさらばえた、しかし峻烈なる銀色の駿馬「ゼーロン」の物語を。
小田原の山中に籠り、錆びついた生活の澱を掻き回していた私の前に、突如として現れたのは、かつて遠きギリシャの神話か、あるいは中世の騎士物語の頁から抜け出してきたような、あの輝かしい幻影であった。
一、 峻烈なる幻影の出現 物語の主人公――すなわち、私に似て非なる「私」――は、現実の逼塞した空気から逃れるように、一頭の馬を夢想する。その名はゼーロン。それは単なる家畜ではない。天を衝き、星を蹴散らすような、誇り高き精神の結晶体なのだ。私はその背に跨り、卑俗な日常を嘲笑いながら、未知なる天空へと駆け上がる恍惚を貪るのである。
二、 夢と現実の交錯 しかし、どうだ。現実は残酷なほどに滑稽である。私がゼーロンの蹄の音を聴いているその横で、家族や隣人たちは、あまりに泥臭い、あまりに所帯じみた生活の喧騒を突きつけてくるではないか。私は銀色の鬣を撫でているつもりで、実は古びた椅子の背を掴んでいるに過ぎない。この「夢への飛翔」と「地べたを這う現実」の凄まじい落差!
三、 栄光と破滅のギャロップ ゼーロンは、私の孤独な魂の叫びそのものだ。それは私を、ギリシャの丘へ、神々の宴へと誘う。だが、その疾走が最高潮に達した瞬間、私はふと気づくのだ。この美しい駿馬は、私自身の飢えと、虚栄と、そして救いがたいセンチメンタリズムが造り出した「美しき虚妄」ではないのかと。
四、 終焉――そして朝の光 結局のところ、ゼーロンは消え去る。狂気にも似た高揚の果てに、私は再び、小田原の湿った土の上に放り出されるのだ。しかし、その胸には、一度でも銀の蹄で宇宙を蹴ったという、震えるような悲劇的凱歌が鳴り響いているのである。
「おお、ゼーロン! お前の眼の中に、私は私自身の純粋なる絶望と、それ以上に眩い憧憬を見たのだ!」
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どっちかって言うと、冒頭に書いた文章より、自分がクリスマスに書いた文章の方が似ている気がする。
それほど長い文章でもないので、読みたい方はどうぞ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000183/files/947_22532.html
試験問題に出てきた文章もあったのでこちらもどうぞ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000183/files/52891_42666.html
試験自体はもう終了しているので試験妨害にはならないと思われます。




