第九話:パンダ、問われる夢
「……静かだな」
草を踏む音だけが、朝の森に吸い込まれていく。
俺は、カワウソを背中に乗せ、霧けぶる森の中をゆっくりと歩いていた。
王都を発ってから、四日目。
姫の旅立ちを見送ってからというもの、胸のどこかにぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
言葉にはならない。けれど、確かに残っていた。
何かを渡したような、何かを置いてきたような、そんな――感覚。
…喪失感、なのだろうか?
「キュー(=黙ってると、余計さみしく聞こえるぞ)」
「……悪いな。少し、考えごとをしてた」
前世では、こんなふうに自分の感情に目を向ける暇もなかった。
朝起きて、満員電車に揺られ、やりたくもない仕事をこなして、コンビニ飯を片手にスマホをいじる。
次の日も、その次の日も、なんとなく生きていた。
この世界に来てからも、目の前のことを必死にこなしていただけ。
ただのんびりと、みんなに頼られ、心穏やかに暮らしていた。
それで良かった。それでいいと思ってた。
でも、何だろう?この感じ。「焦り」や「乾き」にも似ている気がするが、どこか違う。
いつからだ? 俺は、いつからこんな風に感じていたんだ?
旅に出て色々あった。
無くしたものもあるし、見つけたものもある。
出会いも、別れも。
そういや、ミロの魔道具研究は進んだのだろうか?
姫はもう、隣国に着いたのだろうか?
ふたりとも、別れ際、いい顔してたな。
姫なんて、あんなにフワフワしてたのに、なんかカッコよくなってたよな。
「ああ、俺は眩しかったのか」
「キュウ?(=何か言った?)
「いや、何でもない」
俺は、姫の決意が、行動が、その凛とした佇まいが、眩しかったんだ。
同時に、まっすぐ前を見据えて進もうとする姫の生き様に、”憧れ”を抱いていたのかもしれん。
「未来を見据えて、まっすぐ進む」なんて――それは、若い奴の特権だと思っていた。
俺みたいなアラフィフは、ただ、“与えられた役割”を繰り返すだけでいいと、どこかで諦めてた。
でも――この世界に来て、いろんな奴に出会って、俺も何かしてみたいって思っちまってたのかなあ。
「キュー(=ここ、変な空気だな)」
「……ああ。たぶん、着いたらしい」
王都を旅立つ時、別れ際に、カイル騎士団長が教えてくれた話を思い出す。
「王都の東に、”夜明けの森”と呼ばれる場所があります。
――時折、選ばれた者だけがその奥で“幻獣の長”に出会うと言います。
今の貴殿なら、出会えるかもしれません。会いに行ってみてはいかがですか」
カイルらしい、そっけない助言だったが、その言葉が妙に耳に残っていた。
森の奥は静かだった。
風も音も、どこか現実離れしている。
霧がゆらゆらと揺れていて、遠くの木々の形もぼんやりとしか見えない。
「……まるで、夢の中にいるみたいだな」
「キュ」
そのときだった。
霧の奥、一本の大木の根元に、黒と白の揺らめきが見えた。
最初は目の錯覚かと思った。
けれど、次の瞬間、確かにそれは“パンダの形”をして、こちらに視線を向けていた。
「……おまえ、幻覚じゃないよな?」
「ようこそ、”夜明けの森”へ」
低く、静かな声が響いた。
しかし、その響きには不思議な芯の強さがあった。
現れたのは、俺よりひとまわり大きなパンダ――だが、その姿はどこか神秘的だった。
白銀に近い毛並み、額には淡い火紋。
目は深い琥珀色で、見られるだけで胸の内を覗かれているような気がする。
「あなたが、ハクジン。パンダ族の末裔にして、転生者。……間違いないですね」
「……ああ。末裔かどうかは分からんが、転生者ってのはその通りだ。あんたが、“幻獣の長”ってやつか?なんで俺のことを知ってる?」
「私は、エンリュウ。幻獣の審問者。時折、夢の淵に現れるもの」
「……詩人か?」
「いいえ、観察者です」
淡々と、けれど言葉には重みがある。
その一言一言が、霧の中に落ちて波紋を広げていくようだった。
「あなたのことは、森が教えてくれました。
この森は、迷える同胞に”道”を示す。私の役割は、ただそれを”見守る”こと。
ここに辿り着いたということは――あなたの中に、“迷い”があるということです」
「迷い?」
「あなたに、ひとつだけ尋ねましょう」
エンリュウは一歩だけ、霧の中を踏み出した。
「ハクジン。あなたは、これまでに“自分の夢”を、抱いたことがありますか?」
俺は――何も言えなかった。
言葉が出ない。
それは、図星を突かれたというよりも、
“その問い自体を、自分に向けたことがなかった”からだ。
「夢……か」
昔、子どもの頃にはあったのかもしれない。
でも、社会に出てからはただ働いて、生きて、疲れて――それだけだった。
「もういい歳だから。今は忙しいから――。そんな言葉を言い訳に、”何かになりたかった”気持ちは、ずっと昔に飲み込んでしまった」
でも――この世界では、違った。
リオナには未来があった。姫には使命があった。
ミロには、空を飛ぶ夢があった。
「……俺は、誰かの夢見る背中を押してはきたが、自分の夢は……考えたこと、なかったな」
口に出して、自分でも驚いた。
「あなたは今まで、人のために尽くし、たくさんの“ありがとう”を受け取ってきた。そして、そう言われることに喜びを感じていたし、安堵していた。違いますか?」
「……ああ、そうだな。自分で何かを成すことより、何かを成そうとするものを手助けする方がラクだった。いつの間にか、誰かに感謝されることで、ここにいてもいいと思い込むようになっていたのかもしれん」
エンリュウは言った。
「あなたは、“自分のために夢を見ること”を怖がっている」
その声は、冷たくはなかった。
けれど、逃げ道もなかった。
俺は、小さくうなずいた。
「……夢を見るには、歳を取りすぎてるって、どこかで思ってた」
「それもまた、幻想です」
エンリュウは静かに笑った。
それは、誰かの“弱さ”を知っている者の笑みだった。
「夢を見るために必要なのは”若さ”ではない。”勇気”ですよ」
俺はその言葉を、黙って胸の中に刻んだ。
「夢を持つには、若さより勇気が要る――か」
俺は、霧の静けさの中でその言葉を噛みしめていた。
まるで、少し冷めた茶のように、じんわりと喉の奥に沁みていく。
エンリュウは相変わらず無表情で、ただ俺を見ていた。
そのまなざしに責める気配はない。ただ、すべてを見通しているような静けさだけがあった。
俺は、ほんの少しだけ首を傾け、目を細めた。
「……正直なところ、ちょっと戸惑ってんだ」
「戸惑いを感じるなら、それは“踏み出す一歩”の前触れです」
「そうかね」
「ええ。夢に向かう者は皆、最初は迷うものです」
俺は、思い切って胸の奥にあったものを言葉にしてみることにした。
「俺さ、今までいろんなやつの背中を押してきたんだよ。
村の子どもたち、リオナ、姫、ミロ……みんな、未来をまっすぐ見てた。
俺はそれを後ろから支えるのが、合ってると思ってた」
「それは美しい役割です。ですが、“それだけ”で、満たされていましたか?」
「……さあな」
苦笑交じりにそう言いながら、ふと思い出す。
ミロに言ったこと。
「夢ってのは、まず自分が信じてやらなきゃ始まらない」――そう、たしかに俺は言った。
でも。
「自分が夢を見るってなると……なんだか、怖くなるな。
“今さらかよ”って声が、どこかで聞こえる気がするんだ。
何になりたいって言うほど若くもねぇし、器用でもねぇ。
それに……ずっと、自分のことは後回しにしてきたからな」
エンリュウは、ほんの少しだけ目を細めた。
「夢を語ることと、夢を後押しすること――そのどちらも、同じ重さを持っています。
違うのは、“その重さを自分に向けられるかどうか”です」
「……俺は、誰かの背中を押してやることはできた。けど、自分のことになると、どうも及び腰になる」
「それもまた、ひとつの正直な答えです。
多くの者が、夢を見ることを“恥ずかしい”と思い、“無理だ”と蓋をして生きています」
「俺は、昔からそうだったよ。できない言い訳を考える方が得意だった」
言いながら、指先で胸元の布を触った。
姫からもらった香袋。今でも、ふとした拍子にかすかな香りが立ちのぼる。
「姫に言われたんだ。“辛くなったらあなたの背中を思い出す”って。
そのとき思ったよ。俺の背中が、誰かの支えになれてたんだって」
「……」
「でも、姫は旅立った。自分が成し遂げたい未来のために、自らの意志で。
俺は、そのとき、ただ見送ることしかできなかった。
なぜかって?――俺自身には、”叶えたい夢”も”成し遂げたい未来”もなかったからだ」
言って、はっとした。
今まで、そこまでは考えてこなかった。
“なかった”と気づくことで、初めて見える景色があることを、この森で教えられている。
「……あんたの問いに答えるなら、こうだな」
俺は少し背を伸ばし、霧の向こうを見た。
「“誰かの夢を支えることで、自分も救われてた”――それが、これまでの俺だった。
でも、これから先もそれだけでいいのかって考えたら、正直わかんねぇ」
「その“不安”こそが、夢を見る資格を得た証です」
エンリュウはゆっくりと手を伸ばした。
その手のひらには、淡く輝く小さな石――琥珀のような、オレンジ色の“火種”があった。
「これは、“夢の火種”です。幻獣の間で、願いの核を象徴するものとされています」
「……俺に、くれるのか?」
「この火は、誰かの行先を照らすためのものでもありますが――
本当は、持つ者の“内なる影”を照らすためにあるのです」
俺はそっと、その石を手のひらに受け取った。
掌の中で、あたたかさがじわりと広がっていく。
言葉にはできないけれど、それはどこか懐かしく、けれど新しい感覚だった。
「……あたたけぇな」
「夢とは、そういうものです。冷たさの中にある微かなぬくもり。
迷いの先に灯る、小さな光。
それを“畏怖する”のは自然なこと。だからこそ、大切にできるのです」
俺は火種を見つめながら、静かに呟いた。
「俺にも……まだ灯せる火があるんだな」
「今、この瞬間からです。遅いことなど、ひとつもありません」
「そっか……」
俺はゆっくりと立ち上がり、胸元に火種をしまった。
背中のカワウソが、ポンと軽く肩をたたく。
「キュー(=おかえり)」
「……ただいま、ってやつか」
口元が緩んだ。
霧の向こうに、ほんの少しだけ光が見えていた。
霧が少しずつ、ゆるやかに晴れていく。
葉擦れの音が戻り、風の匂いが変わった。
静寂の中にあった時間が、少しずつ現実の流れに溶け出していく。
俺は、胸の中でほのかにぬくもる火種を確かめた。
オレンジ色の光はもう見えない。けれど、確かにそこにある。
まるで、胸の奥にそっと息づく“始まりの火”だった。
「……ありがとうよ、エンリュウ」
「感謝の言葉は不要です。あなたがこの火を持っていくこと――それが、すべての始まりです」
「そうか」
「願わくば、あなたが“灯す人”でありますように。
夢を抱く者にとって、あなたの背中が――ふたたび、夜道を照らす道しるべとなることを」
俺は小さく頷き、踵を返した。
カワウソがポンと肩で跳ねて、いつもの位置におさまる。
森を出るとき、振り返るともうエンリュウの姿はなかった。
さっきまで確かにいたはずの場所に、今は風だけが吹いている。
「キュー……(=あれ、夢じゃなかったよな)」
「夢だったかどうかは……俺にも、ちょっとわかんねえな。でも――」
でも、あの火種は確かに温かかった。
あれは“現実”だったんだと思う。
「さ、行くか」
「キュウ?(=村へ帰るの?)」
「いや、ちょっと寄り道していこう」
「きゅ?」
「さあ、どこがいいだろな」
「とりあえず、目の前のこの道を、進んでみることにするか」