第八話:パンダ、愛に気づく
王都の城門をくぐった瞬間、空気が変わった気がした。
「……広いな」
肩に乗るカワウソが「キュー」と小さく鳴く。王都の空は高く、白い雲がゆっくりと流れていた。
石畳の通りには色とりどりの店が並び、人々のざわめきが絶えない。香草の匂い、焼き菓子の香り、馬車の音、呼び込みの声。
そんな中で――
「……パンダ……?」「あれ、喋るって噂の……?」「かわいい……いや、でかい!」
俺の姿を見つけた人々が、道の端でざわざわと騒ぎはじめた。目を見開いた子どもが指をさし、商人たちは目を丸くし、若い娘が「モフりたい……」と呟いていた。
「……ま、騒がれるのは慣れてるけどな」
ゆっくり歩を進めていくと、やがて騎士団の制服を着た青年が駆け寄ってきた。
「パンダさまですね!副長が門の外までお出迎えをと……」
「そうか。エドガー、元気にしてるか?」
「はっ! いつも通り、暑苦しく元気です!」
しばらくして、通りを走ってきたのは、銀の鎧に身を包んだエドガーだった。相変わらずやたらとピカピカしている。
「パンダ兄貴ーーっ!!」
「よお。派手に登場するな」
「兄貴、やっぱり来てくれたッスね……!」
エドガーは鼻をすすりながら、感動を押し殺しきれていない様子でガシッと前足を握ってきた。
「姫さま、待ってます。今の姫さまは……きっと、兄貴に見てほしいって、俺、そう思って……!姫さまの話を聞いてやってください!それができるのは兄貴しかいないっス」
「……わかった。案内してくれ」
王都の西外れ、騎士団の詰所へと向かう道すがら、騎士たちが敬礼で迎えてくれる。
「パンダさまだ……!」「わあ……本当に大きい……」
声をかける兵士たちの中に緊張と好奇心が入り混じっているのが、かえって微笑ましい。
やがて詰所の奥、しんとした小部屋。
白いカーテン越しに光が差し込むその一角に、彼女はいた。
「……まあ。やっぱり、本当に来てくださったのね、ハクジンさま」
フィルメリアは笑っていた。
けれどその笑顔は、以前よりほんの少しだけ、遠くにあった。
「久しぶりだな、姫」
「ええ。ほんの数日だったのに、ずいぶん長く感じましたわ」
ふわりと微笑むその姿は変わらない。
けれど、どこかに“凛”とした気配が宿っている。
以前のように駆け寄ってきたり、頬をすり寄せたりはしない。
背筋をすっと伸ばし、手は膝の上にきちんと重ねられている。
敬語も戻っていた。いや、元に戻ったというより――“立ち返った”というべきか。
「ちょっとバタバタしてまして、慌ただしい再会となってしまったのが残念ですけれど。
でも、こうして来てくださっただけで……とても、嬉しいですわ」
俺は部屋の隅の大きな座布団に、でんと座る。
カワウソはすぐに降りて、部屋の中をちょこちょこと歩き回る。
「元気そうで、なによりだ」
「ハクジンさまも……。お怪我などは、ありませんか?」
「ああ。元気にやってる。昼寝もしてる」
「ふふ……そうでしたわね。ハクジンさまは、お昼寝とお茶が何より大事でしたわ」
そこだけは、変わらない笑顔だった。
けれど、それもすぐに揺らぎ、ふわりと視線が落ちる。
「……でも、今日はその、お昼寝には、あまり向かない話かもしれません」
「……だろうな」
俺は静かに頷いた。
部屋には誰もいない。エドガーも気を利かせて席を外してくれている。
「政略結婚の話……本当に、進んでるのか?」
姫は、少しの間、何も言わなかった。
窓の外を見つめ、光の中に指先を伸ばしながら、小さく息を吸い込んだ。
「はい。わたくしから、お受けしました」
「……そうか」
「驚きましたか?」
「……少し、な」
「怒ってますか?」
「……いや」
”ハクジンさま”とはじめて呼ばれたときのような、あのやわらかな距離感は、もうなかった。
だが、目の前の姫は、確かに“強さ”を手にしていた。
「でも……どうしても、行かなければならないんですの」
「行かねばならないって……お前が、そう決めたのか?」
姫は、こくりと頷いた。
「はい。政略結婚とは言っても、相手の国は魔導研究がとても進んでいて……
わたくし、その技術を学びたいんです。
魔獣の被害を減らすために、新しい防御技術を得たい。
国を、民を、守る力を、わたくし自身が持ちたいと思ったんです……」
「……」
「わたくしは、ただのお飾りの姫ではいたくありません。
誰かに守られるだけでなく、誰かの力になれる存在になりたいのです」
言葉はまっすぐだった。
声は少し震えていたが、その芯は、確かだった。
「……俺は、てっきり逃げてきたのかと」
「ええ。初めてお会いした時は、そうでしたわね」
フィルメリアは、はにかんだように笑った。
「でも……ハクジンさまに会って、リオナちゃんや、村の人々と過ごして……わたくし、知ったのです」
「……何を?」
「“誰かを愛する”ということは、ただ寄り添うことでも、守られることでもない。
誰かを守りたいと思うこと、そして、そのために最善を尽くすこと――
それこそが、わたくしの愛のかたちなんだと」
「……愛、か」
その言葉が重くのしかかるわけではない。
むしろ、胸の奥に、ぽつりと灯るような感覚だった。
恋とも、愛とも名付けられない。
けれど、たしかにそこに“想い”があった。
「わたくし、あなたの背中が大好きでしたわ。大きくて、あたたかくて、安心できて。ずっとここに居たいって思ってしまうほど、ここにいれば大丈夫だって思えた。」
「……」
「だから、今度はわたくしが――そんなふうに、誰かに背中を貸せる人になりたいと思いましたの。逃げてちゃダメなんだ、私も私のできることをしようって思いましたの」
沈黙が落ちた。
それは悲しみでもなく、寂しさでもなく。
ただ、静かな決意と、それを受け取った俺の、静かな敬意の沈黙だった。
「……姫は、立派な王女になったな」
俺がそう言うと、姫は目を細めて、小さく笑った。
「ふふ。まだまだ、道半ばですわ。
でも……もし、また迷ったときには、あなたのその背中を思い出しますわ。この思い出があるだけで、私には十分です」
そのとき初めて、姫がすっと手を伸ばした。
俺の前足に、そっと触れる。
「……ありがとう、ハクジンさま。
わたしに”背中を貸してくれた方”、そしてわたしの“背中を押してくれた方”」
姫はその手をゆっくりと引き、膝の上に戻すと、静かに微笑んだ。
その微笑みは、もはや誰かに守られる“姫君”のものではなかった。
民を守る“王女”の、それだった。
俺は、何も言わず、ただその姿を見つめていた。
何もせず、何も返せず。
ただ、少しだけ、胸の奥が、温かく、そして少しほろ苦かった。
「ふふ、しんみりしてしまいましたわね。ね、ハクジンさま、良かったらお庭でお茶をご一緒にいかがですか?ハクジンさまが好きそうな茶葉を準備しておいたんです」
「それは、ありがたい」
「では、早速まいりましょう」
俺の前脚を引っ張るように立ち上がった姫に、促されるようにして庭へ出る。
そこには、色とりどりの花が咲き、その先の小さなガゼボのテーブルにはティーセットが用意されていた。
「キレイな花だな、香りもいい」
「そうでしょう?私の好きな花なんですの」
ガゼボに続く小径をふたりでゆっくりと歩く。
「あの森も、村に咲いていたお花も、そこに暮らす人々も、私は大好きでしたわ」
「ああ」
「そういえば、リオナちゃんは元気かしら?」
「元気にしている。姫のこと心配してたぞ」
「そう、心配かけてしまっていたのね」
「あと、会いたがってた」
「嬉しいわ。私も、リオナちゃんや村のみなさんに、もう一度お会いしたいですわ」
「…いつ発つんだ?」
「ちょうど一週間後ですわね」
「そうか、早いな」
「ハクジンさま、よろしければ、それまで王宮にお泊まりくださいまし。家族にも紹介したくて……それに、出発までにたくさんお話できたら嬉しいですわ」
「ああ、そうだな。俺も姫をきちんと見送りたい。世話をかけるが、よろしく頼む」
「ええ!これでもう少し一緒にいられますわね!嬉しいですわ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「キュウ!(=僕もいるよ!)」
「ふふ、あなたも。よろしくお願いしますわね」
…そうして、陽が傾くまで、取り止めもない話は続いた。
***
旅立ちの日。
馬車の車輪が軋む音が、詰所の中庭に柔らかく響いていた。
朝の空は淡く霞んでいて、空の端には薄い雲が帯のように広がっている。
「おはようございます、ハクジンさま」
フィルメリアは旅装を纏っていた。
いつもの白いワンピースではなく、淡い藤色の上着に、軽装のドレス。
王族らしい気品を残しながらも、実用を意識した装いだった。
「……随分、似合ってるな」
「ふふっ、ありがとうございます。でも、ほんとうはちょっと、動きにくいんですのよ」
彼女は小さく笑って、スカートの裾を両手で持ち上げるようにして、くるりと一回転してみせた。
その仕草は、以前の姫のまま――無邪気で、少しおてんばで、周囲の空気をふんわりと緩める。
けれど、足元に重なるその影だけが、今日という日の“特別さ”を静かに物語っていた。
中庭では、騎士団の団員たちが出立の準備に追われていた。
エドガーが号令をかけ、荷物を運び、馬を繋ぎ、鎧を整える音が規則的に響いている。
その背中が、いつもよりも少しだけ、寂しそうに見えたのは――気のせいだろうか。
「出立時刻は、もうすぐなんだな」
「ええ。……そろそろ、行かないといけませんわ」
フィルメリアの声は柔らかく、けれどその芯は、少しも揺れていなかった。
彼女は前に出て、俺の前にそっと膝をついた。
そして、懐から小さな包みを取り出す。
「これを……持っていてほしいのです」
包みの中から現れたのは、布で包まれた、白い小瓶と細い金糸の紐。
香り袋だった。瓶の中には、彼女が選んだポプリと魔除けの結晶が入っているという。
「私が作ったんですの。……不器用だから、あんまり上手にはできませんでしたけれど」
「……もらっていいのか?」
「ええ。ハクジンさまに、持っていてほしいの。……この香りは、王都に来られた日、庭園でお茶をしながら一緒に眺めていたあの花をポプリにしたものですのよ。風に乗せれば、少しだけ、わたくしのいた場所を思い出してもらえるかもしれないと思いまして」
俺は、その香袋をそっと受け取った。
指で触れれば、ほんの少し、フィルメリアの香りがした気がした。
「……ありがとな」
それだけしか、言えなかった。
フィルメリアはゆっくりと立ち上がり、手を胸の前に重ねた。
「わたくし、決して振り返りません。……自分で選んだ道ですもの」
「……ああ」
「でも、どうしても苦しくなったら、思い出してもいいですか?
わたしが泣きたくなったとき、あなたの背中を思い出しても……いいですか?」
「……もちろんだ」
俺は短く、でもはっきりと頷いた。
それだけで十分だった。彼女にとっても、そして俺にとっても。
ふと、カワウソが肩から滑り降りて、フィルメリアの前にちょこんと座った。
丸い目で見上げて、小さく「キュウ」と鳴く。
「ふふっ……ありがとう。あなたにも、ずいぶん癒されましたわ」
フィルメリアはしゃがみこみ、そっとカワウソの頭を撫でた。
カワウソは目を細めて気持ちよさそうにしている。
「カワウソさん、ハクジンさまのこと、どうか支えてあげてくださいましね」
「キュ!(=任された!)」
――と、言ったかどうかは定かでないが、頼もしげに胸を張っていた。
そして、時間が来た。
「姫様、お時間です」
エドガーの声が、空気を震わせた。
「……ええ。行きましょうか」
フィルメリアは振り返り、俺のほうをもう一度だけ見つめた。
「ハクジンさま」
「ん」
「わたし、あなたのことが……とても、大好きでしたわ」
俺は、返事をしなかった。
言葉が見つからなかったわけじゃない。
ただ、ここで何かを返すより、じっと見ていることのほうが、彼女の心に届くと思った。
フィルメリアは、それで満足そうに微笑み、馬車へと歩いていった。
騎士たちが列をなし、馬車の扉が静かに閉じられる。
エドガーが俺のほうへ歩いてきて、こっそりと囁いた。
「兄貴……やっぱり、かっこよすぎっス……!」
「静かにしろ」
「はいっ……!」
馬車が動き出す。
静かに、ゆっくりと、石畳の上を滑るように進む。
フィルメリアは、窓を開けなかった。
見送る人々の声にも手を振らなかった。
ただ、前を向いて、揺れる光のなかを進んでいった。
「……いい顔してたな」
「キュー(=うん)」
風が吹いた。
俺の毛並みを揺らし、香袋の中から、ほんのりと花の匂いが立ち上った。
俺はしばらく、空を見上げていた。
雲の切れ間に覗いた青が、やけに澄んで見えた。
「……愛ってのは、たぶん、こういうもんなんだろうな」
誰かを引き止めたい。けど、引き止めずに送り出す。
見返りを求めずに、ただその未来を信じて、背中を見守る。
胸に残るこの寂しさとほろ苦さを“愛”と呼ぶかどうかはわからない。
でも――それは、確かに温かい想いだった。
「……さて。俺たちも、行くか」
俺は立ち上がり、背伸びをする。
旅はまだ終わらない。
いや――むしろ、これからだ。
風が香る。少しだけ、懐かしい香りがした。
「また、会えるといいな。……フィルメリア」
俺はカワウソを肩に乗せ、もう一度だけ、馬車の去った道を振り返った。
そこには、もう誰もいなかった。
それでも、俺の背中には、あたたかな余韻が残っていた。
ほんの束の間、誰かがこの背にもたれかかっていた証みたいに。