第六話:パンダ、情けを学ぶ
旅の朝は、意外なほど静かだった。
村の門を出たあと、暫くして振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
さっきまであんなににぎやかに見送られたのが嘘のようで、ちょっと拍子抜けする。
「……そうか、みんなもう畑に出る時間か」
俺は肩をすくめてつぶやいた。
朝の空気は澄んでいて、地面の草から立ち上る匂いが鼻をくすぐる。
肩のカワウソが「キュウ」と一鳴き。ちょこんと俺の背にしがみついている。
「お前も眠そうだな。……ま、俺もだが」
目をこすりたくなるのをこらえて、森の外れへと足を進めた。
ここから先は、俺にとっても未知の道。
王都まではおおよそ二日はかかる。その間、道は細く、宿もない。
まさに“旅”ってやつだ。
まあ、パンダは元々雑食だしな。雨風凌げればなんとかなるさ。
不思議と、不安はなかった。
誰かのために歩いている。
前世では感じたことのない、不思議な感覚。
俺を頼ってくれる誰かのために――この道を、自らの足でのしのしと進む。
「……ふぅ。ま、悪くない」
***
朝日が高くなる頃、森の中の道はやわらかい木漏れ日に包まれていた。
葉と葉のすき間から差し込む光が、地面できらきらと踊っているみたいだった。
途中、小さな花の群れを見つけて立ち止まる。
「お。こいつは……」
薄桃色の花弁が重なった、小さな花。
リオナが“妖精のほっぺ”と呼んでいたやつだ。
指では摘めないので、そっと鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「……いい匂いだな」
カワウソも「キュッ」と鳴いて顔を寄せる。
俺の鼻先とカワウソの鼻先がくすぐり合って、思わず吹き出しそうになった。
「はは、やめろ。くすぐったいだろ」
道端のこういう寄り道すら、旅の醍醐味なのかもしれない。
しばらく歩いた先に、小さな丘があった。
そのてっぺんから見下ろすと、森の向こうに流れる川がちらりと見える。
「……昼寝するには、ちょうどいい場所だな」
カワウソも「キュー」と頷く。
完全に俺の旅スタイルを理解しているらしい。
いや、むしろ昼寝のために旅してるとすら思ってる節がある。
俺は丘の上にでんと寝そべり、空を見上げた。
柔らかい雲が、ぽこぽこと浮かんでいる。
風がちょうどよく吹いて、毛並みを撫でていった。
「……こんな時間が、ずっと続いてもいいかもな」
そう思っていたら、カワウソが腹の上に乗ってきて丸まった。
「……重い」
「キュー……(=眠い)」
「俺のセリフだ」
そうぼやきながらも、目を閉じる。
少しだけ、体が地面になじんでいく感覚。
パンダという存在は、どうやら“地に根ざす”系らしい。
鳥のさえずり。風の匂い。腹の上の温もり。
何もかもがちょうどよくて、まぶたがするりと閉じていく――
***
「……うーん、よく寝た」
再び目を開ける頃には、日が傾きはじめていた。
カワウソは俺の頭の上で寝落ちしていた。いつの間にかポジションが変わっている。
「……こいつ、ちゃっかりしてるな」
のそのそと体を起こし、木陰を抜けて再び道を歩き出す。
夕方には、川沿いの開けた場所に出る予定だった。
旅のはじまりは、思った以上に心地よかった。
道の端に咲く草花。時折木の枝から落ちてくる木の実。
小さな音、小さな風景が、全部新鮮だった。
前世じゃ、通勤ラッシュに押し込まれて、周りの景色なんて気にする余裕すらなかった。
だけど今は、俺のペースで、俺の歩幅で進んでいける。
「旅も、悪くねぇな」
ぽつりと呟いたその言葉に、カワウソが「キュウ」と返す。
たぶん「でしょ?」って意味だ。俺たち、以心伝心。
……そう、思っていた。このときまでは。
この旅が、ただの癒しスローライフで終わらないことを――
俺はまだ、知らなかった。
***
川沿いの道を歩いていると、遠くに人影が見えた。
小柄な青年が、膝を抱えて座り込んでいる。
その足元には荷物袋が一つ。どうやら、途方に暮れているらしい。
「……おや?」
俺は足を止めた。カワウソも「キュ?」と首を傾げる。
近づくと、青年がはっと顔を上げた。痩せぎすで、服も少しほつれている。目の下にうっすらと隈。どこか人懐こそうな顔立ちをしているが、今は完全に警戒モード。
そして、俺を見た瞬間――目を見開いた。
「な、な……なんだこれ!?」
ああ、そうだった。俺はパンダだった。
しかも、黒白はっきりしていて、でかくて、喋る。
「人間の言葉がわからんとでも思ったか?」
「しゃ、しゃべったぁああああ!!??」
予想通り、叫ばれた。
青年は地面をずり下がるように後ずさり、カバンを盾にして震えている。
俺とカワウソは顔を見合わせた。カワウソは「またか」とでも言いたげに溜め息をついた。
「落ち着け。俺はただの通りすがりの、旅のパンダだ」
「……いや、“ただの”ではないだろう……」
それはそうかもしれん。が、噛みつく気はない。
ようやく落ち着きを取り戻した様子で、青年が座り直す。
「ご、ごめんなさい……驚きすぎて。パンダが喋るなんて……ていうか、歩いてるのもすごいのに……」
「慣れりゃどうということはない。……で、どうした?何か困ってるのか?」
「……あ、はい。あの、川を渡りたいんですけど、橋が流されてて……」
見れば、少し先に崩れた丸太橋の残骸。最近の雨で増水したのかもしれない。
「泳げはしないのか?」
「荷物があるし……深い場所は怖くて……」
「ふむ」
俺は川辺に近づき、水深を確認する。俺の体格ならなんとかなる。
それに、この青年の体重なら背中に乗せても問題ない。
「乗れ。向こう岸まで運んでやる」
「……え?」
「聞こえなかったか?」
「い、いや、聞こえたけど……その……いいんですか?」
「ああ。構わねえ」
一瞬、青年が言葉を失って、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! 本当に助かります!」
青年はおそるおそる、俺の背中によじ登った。
カワウソが少しずれてスペースを空けてくれる。すっかり副操縦士気取りだ。
「……ふかふか……」
「……そこ、乗り心地で感動するポイントではないぞ」
川を渡る間、青年はぎこちないながらも何度も礼を言っていた。
俺は足をとられないよう慎重に進む。水の冷たさが心地よい。
やがて向こう岸に着くと、青年は感極まったように両手を合わせた。
「ありがとうございました、パンダさま!」
「ハクジンでいい」
「はくじん……? お名前、あるんですね」
「一応な。村では“パンダさま”で通ってるが」
青年が笑う。ようやく少し緊張が解けてきたらしい。
「僕、エルっていいます。旅をしてて、でも最近うまくいかなくて……。今日は、もう寝床もなくて……」
「なら、野宿だな。俺もちょうどそうするつもりだった」
「えっ、一緒にいてもいいんですか?」
「構わん。腹が減ってないなら、静かにしてくれればいい」
「……はいっ」
***
日が暮れる頃、川沿いの開けた場所で小さな焚き火を起こす。
カワウソが器用に木の枝を集めてきてくれた。こいつ、やっぱり賢い。
エルが申し訳なさそうに言った。
「僕、食べ物、ほとんどないんです……」
「ちょうど荷物の奥に、干し肉と……リオナの団子が残ってるな」
袋から少しずつ取り出して、二人と一匹で分け合う。
火の上にかざすと、ほんのり香ばしい匂いが漂った。
「……あったかいものって、それだけでありがたいですね」
「冷めた飯も、誰かと食えばうまい」
しばらく沈黙。だが、それは不快じゃない。
火の揺らめきが、静かに心をほぐしていく。
「……こんな夜、久しぶりです」
「そうか」
「……なんだか、父さんと旅してた頃を思い出しました」
「ふむ……」
俺はあえて何も言わず、火を見つめる。
カワウソが眠たげに丸まって、焚き火の隣で寝息を立て始めた。
俺も目を閉じかけながら、思った。
(父さんか…。そういや、俺も子どものひとりやふたり、いてもおかしくない年だったな)
……そんな風に想いを馳せながら、思いがけず穏やかに眠りについた。
だが。
翌朝、目を覚ました俺が最初に感じたのは、冷たい風ではなく、あたりの”静けさ”だった。
「……あれ?」
荷物が――ない。
あの大きな袋も、リオナがくれた愛用のカップも、子ども達が作ってくれたお守りも。
「……エル?」
火の跡だけが残された静かな朝に、俺は立ち上がってあたりを見渡した。
だが、青年の姿も、荷物の気配も――どこにもなかった。
朝の森は静かだった。
鳥のさえずりすら遠く、空気はひんやりと張りつめていた。
火の跡がまだ温かいのに、そこには誰もいなかった。
「……荷物、全部……」
俺はゆっくりと目を閉じ、ひとつ深く息を吸い込んだ。
肩のカワウソが不安そうに「キュウ……」と鳴く。
俺の背中にちょこんと乗り、辺りをきょろきょろ見回している。
誰も、いない。
袋も、干し肉も、木彫りのカップも――そして、リオナのくれたあのパンも。
「……そうか」
呟く声は、妙に落ち着いていた。
思った以上に、腹は立っていなかった。
俺は地面に腰を下ろし、焚き火のそばの石に視線を落とした。
そこに、小さな紙切れが一枚、風に吹かれないよう石で押さえられていた。
雑にちぎられた紙の端に、震える字で書かれていた。
「ありがとう。全部持っていくしかなかった。……ごめん」
そこまで書かれて、言葉は終わっていた。
後半はにじんでいて、急いで書いたのか、途中でやめたのかすらわからない。
「……そっか」
俺は静かに呟いた。
怒りの代わりに胸に浮かんだのは――ほんの、少しの哀しさだった。
***
「なあ」
「キュ?」
「俺はさ、あいつに何かを期待してたのかな」
「キュキュ」
「……そうだよな。期待ってのは、裏切られたときに胸が痛むんだ」
言ってから、自分でふっと笑った。
まるで、説教くさいおっさんみたいだ。
俺は近くの石に寄りかかって、天を仰いだ。
木々の隙間から、朝の光がさしこんでくる。
けど、その光は、今日に限ってやけにまぶしかった。
「俺、昔は“誰かのため”に何かしたことなんて、ほとんどなかったんだ」
ぽつりぽつりと、言葉が漏れる。
「地域のゴミ拾いにも参加しなかったし、駅の階段でベビーカー片手に困ってる母親を見ても素通りしてた」
「キュー……」
「でも、この世界に来てから、なんか変わっちまったよな。
リオナにごはんをもらって、背中に乗せて、みんなに『ありがとう』って言われて……」
「……気持ちよかったんだよ。誰かに、何かをしてやるってのが」
風が通り抜けた。俺の背の毛並みを、そっと揺らしていった。
「でもな――」
俺は焚き火の跡を、じっと見つめた。
「……こういうのも、あるんだよな」
「キュ……」
「情けが裏切られることもある。誰かを信じて、信じた分だけ損をすることもある。……でも、それでも、だ」
俺は静かに立ち上がった。
「俺がたまたまそこに居て、助けられる力があったから、助けた。それだけだ」
「キュ?」
「”情けは人のためならず”、って言うだろ。……あれ、ほんとは“自分のため”になるって意味なんだよな」
「……俺は、勘違いしていたのかもしれんな」
カワウソが、首を傾げる。
「俺は、確かに、村のみんなに「ありがとう」って言われて、気持ちよくなってた。でも、誰かに感謝されたくて、いろいろしてきた訳じゃない。
あの時、あの青年が川を渡れず困ってた。俺は、ただ力になりたかった。それだけなんだよな」
ぽつぽつと、言葉がこぼれるたびに、胸の中に溜まっていたものが少しずつほどけていく気がした。
「たしかに、あいつは俺の荷物を全部持っていった。リオナのカップも、食いもんも、お守りも、背負い袋も。ぜんぶ、俺にとっては大事なもんだった」
「でもな――ものは、所詮“もの”だ」
「キュー?」
「大事なのは、それをくれた“気持ち”だよ。あのカップには、リオナの『いってらっしゃい』が込められてた。それは、もう俺の中に、ちゃんとある」
そう言って、俺は腰のベルトから、何もついていない革紐を外して見せた。
「ここに、カップがついてた。もうないけど、空っぽのこの紐を見るたびに、リオナの顔が思い浮かぶ」
「……それで、十分だ」
しばらく風の音だけが吹き抜けていた。
カワウソが、俺の膝の上によじ登って、そっと頬をすり寄せてくる。
「……ありがとうな」
俺はぽんと、そいつの頭を撫でた。
こんな時、黙ってそばにいてくれる相棒がいるのは、なかなか悪くない。
「よし、行くか」
俺は空を見上げた。光は少しずつ強くなり、森の木々を金色に染めている。
もうひとつ深呼吸をしてから、カワウソを肩に乗せた。
そのとき、ふと目に入ったのは、川辺に転がる白い石だった。
丸くて、つやのある、小ぶりな石。
なんとなく目にとまって、俺はそれを拾って、腰紐にくくりつけた。
「……これで、いい。新しい旅のお守りだ」
「キュー?」
「カップはなくなったけど、代わりにこいつを持っていく。昼寝のときの枕にもなるしな」
「……キュッキュ!(=器用すぎるだろ)」
俺は笑って、カワウソの尻をぽんと叩いた。
「さあ、行こう。荷物はないが、その分身軽だ」
「キュー!」
その日、俺は少しだけ軽くなった背中で、少しだけ重くなった心を抱えて、再び歩き出した。
“なくしたもの”よりも、“持っているもの”を数えるように。
誰かの優しさを、手のひらじゃなくて、心の中で握りしめながら。
王都は、まだ遠い。
でも今なら、どんな風が吹いても、踏みしめていける気がした。
俺の旅は、まだ始まったばかりだ。