第三話:パンダ、騎士団に昼寝を邪魔される
朝露に濡れた草原を踏みしめる、重厚な蹄の音。
それは、村人たちにとって久しく聞かなかった音だった。
「……なんじゃ、あの行列は……?」
畑を耕していた老人が、鍬を持ったまま立ち尽くす。
道の向こうから、銀の甲冑に身を包んだ騎士たちが整列しながら進んでくる。旗印は、王都直属の騎士団を示す百合の紋章――それは、ただの見回りではないことを意味していた。
「リオナ、村長を呼んでこい!」
誰かが叫ぶと、リオナは花かごを抱えたまま、慌てて村の奥へ駆けていった。
数分後、村の広場には、緊張した空気が漂っていた。
馬上から村を見渡すのは、一際目を引く青年。長い銀髪を一つに束ね、蒼い瞳は冷ややかに周囲を測っている。
「我々は王都直属、第三騎士団“氷刃隊”。私は隊長のカイル=レイフォードだ」
凛とした声が、村に響き渡る。
「この地に現れた魔獣の存在について調査・討伐の命を受け、参上した。村の者は全員、協力してもらう」
その“魔獣”という言葉に、村人たちはざわめいた。
つい最近、森でイノシシのような巨大な魔獣が出たのは事実だ。だが、誰もが真っ先に思い出したのは――あの、黒と白のもふもふした姿だった。
「こ、こ、この村には……魔獣ではないんじゃが、すこしばかり変わった存在がおってな……」
村長が慎重に言葉を選びながら、困ったように言う。
「ふむ?」
騎士たちが眉をひそめる。
「その……パンダさまと呼ばれておる。黒と白の……その、もふもふした生き物でな。だが悪いヤツではなくて――」
「……魔獣をかばう発言ととれるが?」
カイルの声音が、僅かに冷たくなる。
「貴様ら、王都の命に背くつもりか?」
その場の空気が凍りついた。
村人たちは口をつぐみ、不安げに顔を見合わせる。
リオナが小声で村長に囁いた。「パンダさま、どうするのかな……?」
だが、その問いに答えたのは、村長ではなかった。
――ズズンッ。
重い地鳴りのような足音が、背後から響く。
振り返れば、そこにいたのは一頭のパンダ。黒く艶やかな毛並みに、どこか気品すら漂う悠々とした佇まい。その肩には何故かカワウソが1匹。
カイルが目を細める。「これが、例の……?」
だが次の瞬間、そのパンダは、村人たちの前に歩み出て、低く、静かに言った。
「……俺に何か用か?」
沈黙。
風が、一陣、吹き抜ける。
騎士たちの目が、一斉に見開かれた。
そして、リオナだけが、嬉しそうに笑った。
「しゃ、喋った……?」
誰かが震える声でつぶやいた。
だが、その声も風にかき消されるほど、村の広場には張り詰めた沈黙が支配していた。
“氷刃隊”の一同もまた、言葉を失っていた。
彼らはこれまで、数多の魔獣と対峙してきた。牙を剥く狼型の魔獣、火を吹く竜の眷属、果ては森そのものが動く樹の巨人。だが――喋るパンダは、見たことも、聞いたこともなかった。
「……にわかには信じがたいな」
ようやくカイルが口を開いた。
その声には、先ほどまでの冷たさはなかった。代わりに滲んでいたのは――警戒と、理性。
「貴様、本当に理性を持っているのか。人語を解し、自らを律する意思を?」
パンダは、どこか面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「まあ……最低限な」
カイルの眉がぴくりと動いた。
村人たちは息を呑む。カワウソはパンダの肩で器用に座りながら、のほほんと鼻を掻いている。
「……もしや、そいつは魔獣ではなく、知性を持つ高位種――いや、“異種存在”なんじゃないっすか?」
騎士団の副官がひそひそとカイルに囁く。
「あり得なくはない。だが――証明できるか?」
カイルの視線が、再びパンダに突き刺さる。
「話すだけなら鸚鵡にもできる。貴様が理を弁える存在であるならば、それを示せ」
パンダはふう、と一つため息をついた。
「……まったく。朝から重い空気だな。こちとら、もうすこし日向でのんびり寝転がるつもりだったんだが……」
そう呟くと、ゆっくりと前に歩み出た。
カイルが軽く手を上げると、騎士たちが半歩身構える――が、その動きは制止された。
「落ち着け。挑発ではない」
カイルの判断は冷静だった。だが、彼の瞳は鋭く光っていた。
パンダは広場の真ん中まで進むと、背後を振り返った。
そこには、村の子供たちがこっそり顔を出している。リオナもその中にいた。
「おい、坊主。こいつらに教えてやれ。俺が“魔獣”じゃないってことをな」
声をかけられたのは、村の子供、レト。魔獣騒ぎのときに怪我をして、パンダに助けてもらった少年だった。
「う、うん! パンダさまは、ぜんぜん悪くないよ! このあいだだって、魔獣から助けてくれたし……それに、水源が濁った時も、水路が詰まった時も直してくれた!」
「魔獣……?」
カイルが目を細める。
「村の記録には、最近大型の魔獣が現れたとの報告がある。それを討伐したのが貴様か?」
パンダは肩をすくめた。
「討伐ってほどでもねぇ。ちょっと、威圧して追い払っただけだ。あんまり殺生は好きじゃない」
リオナが小声でつぶやいた。
「……かっこいい……」
「なにか言ったか?」
「な、なんでもない!」
顔を真っ赤にしてリオナが後ろを向く。
一方、カイルは腕を組んでいた。
「ならば、最後の問いだ」
蒼い瞳が、鋭くパンダを射抜く。
「この森に現れた“魔獣”の痕跡。王都に届けられた記録と一致するものが、この周辺で発見されている。それに該当する存在――本物の脅威は、まだ潜んでいる可能性がある」
パンダの目が、すっと細くなる。
「……それは、俺でも知らん奴だな」
「ならば、同行してもらう。森の調査に立ち会ってもらうことで、潔白を証明しろ」
「命令か?」
「要請だ」
カイルは静かに言った。
「我々とともに動いてもらえるのなら、村への疑いは一時的に解除する。これは、双方にとって最善の選択だろう」
広場に、再び風が吹いた。
パンダは少し考えるふりをしたあと、カワウソを肩から下ろし、ぽん、と地面に置いた。
「……ま、たまには働くのも悪くねぇ。だが、飯の時間は守らせてもらうぞ?」
「……交渉成立、ということでいいな」
カイルが頷くと、副官たちが少しだけ安堵した顔になる。
だがその瞬間――森の方角から、鳥たちの一斉な羽ばたきが聞こえた。
「何だ?」
騎士のひとりが顔を上げる。
次の瞬間――森の奥から、唸るような咆哮が響いた。
「ッ、あの方向……!」
リオナが叫ぶ。
「村の井戸の裏手だよ!」
カイルが即座に命じる。
「全隊、展開! 周囲の村人を退避させろ!」
パンダは、口元を引き締めると、軽やかに身を翻した。
「さて――出番ってやつか」
黒と白のもふもふが、地を蹴って駆ける。
その背中に、カワウソがぴょんと跳び乗った。
蒼い瞳の騎士と、言葉を喋るパンダ。
“共闘”というあり得ない光景が、今まさに始まろうとしていた――。
***
森の空気が、ぴりりと張り詰めていた。
風が止み、葉のざわめきが消える。まるで森そのものが、何かの到来を息をひそめて待っているかのようだった。
「こっち!」
リオナが先導しながら、井戸の裏手へと走る。騎士たちはそれに続き、武器を構えて周囲を警戒する。パンダはというと、相変わらずの悠々とした足取りで、だがその巨体からは確かな緊張感がにじんでいた。
「気配が濃いな……」
森の奥、朽ちた倒木の陰から、黒い影が這い出す。
それは狼のような四肢を持ちながらも、体は異様に大きく、背中には骨のような突起が並んでいた。毛並みは不規則に逆立ち、口元からは粘ついた涎が滴っている。
「“深紅の牙”だ……!」
騎士の一人が名を口にした瞬間、空気が震えた。
その名を持つ魔獣は、王都の記録にも残る高ランクの個体だった。かつて辺境の村を一夜で滅ぼしたという噂さえある。
「そこの娘、下がれ!」
カイルが叫び、すぐさま剣を抜く。
騎士たちも盾を構え、隊列を組む。
だがその前に、一頭の黒白が、無言で一歩前へ出た。
「……よせ、貴様ひとりでどうにかできる相手では――」
カイルの言葉が終わる前に、パンダはふっと鼻で笑った。
「一人じゃねえよ。こいつがいる」
そう言って、肩の上を指差す。カワウソが「キュー」と短く鳴いた。
「……ただの、カワウソか?」
「俺の仲間だ」
パンダは地を蹴った。巨体とは思えぬ速度で、森の中を駆ける。その動きはしなやかで、まるで風のようだった。
魔獣が咆哮を上げる。
次の瞬間、両者の巨体が激突――かに見えた。
「――あ?」
気づけば、魔獣の背後に、すでにパンダの姿があった。
「遅ぇな」
バチン、と肉球が軽く魔獣の脇腹を叩いた。その一撃に、魔獣が体勢を崩す。
「スゲエっす。何なんだ、あの速さ……!」
副官が息を呑む。
だが、それはまだ“様子見”だった。
魔獣は怒り狂い、爪を振りかざす。鋭利な爪が唸りを上げて空を裂いた。
それを、パンダは――頭で受け止めた。
「……なに?」
ぎしり、と爪と毛皮が擦れる音。
だが、その巨体はびくとも動かない。
「いい加減に、飯前に動かすんじゃねぇよ……」
ゆるく目を細めながら、肩の力を抜くように拳を振るう。
その一撃が、まるで大地を打つ雷鳴のように魔獣を吹き飛ばした。
木々がなぎ倒され、魔獣が地面を転がる。
「キュー!」
カワウソが喜ぶように鳴き声を上げた。
「まだだ。こいつ、根性あるな」
魔獣は起き上がり、さらに獰猛な気配を放つ。背中の突起が発光し、瘴気のような黒い霧が立ち昇った。
「……瘴気型か。やっかいだな」
カイルが叫ぶ。「距離を取れ! 毒性があるぞ!」
だが、パンダはその場を動かず、一歩、また一歩と前へ進む。
霧の中に、黒白の巨体が溶け込む。
「見失った……!」
騎士たちが声を上げたその瞬間――霧の奥から、風が吹いた。
まるで真空のように、瘴気が一瞬で巻き取られていく。
その中心にいたのは、片腕を振り上げたパンダ。
「――おらぁッ!」
渾身の裏拳が、霧ごと魔獣の顔面を直撃する。
ガッ――ン!!!
重低音のような衝撃が森に轟いた。
魔獣は、音を立てて崩れ落ちた。
「…………」
沈黙のあと、森に再び鳥のさえずりが戻ってきた。
パンダは、肩のカワウソに軽く目をやりながら、ぽつりと呟く。
「……昼飯、遅れたな」
カワウソが「キュー……」と小さく鳴いた。
「そだな。スープ、冷めてないといいが」
騎士団の面々がようやく追いつき、現場の光景に息を呑んだ。
そこにいたのは、戦った魔獣と、それを倒した存在。
どちらが“強者”だったか、もはや誰の目にも明らかだった。
カイルが、静かに剣を鞘に収めた。
「……認めよう。貴殿は、”村の守護者”だ」
パンダは振り返り、肩をすくめた。
「呼び方は好きにしろ。ただし、うまいメシと昼寝は約束してもらうぞ」
リオナが笑顔で駆け寄る。「パンダさま!」
その笑顔に、パンダはほんの少しだけ、目を細めた。
村へと戻る道中、リオナはずっとパンダの隣を歩いていた。
手には草花の冠。どこで摘んだのか、鮮やかな野花がリズムよく揺れている。
「……ねぇ、パンダさま」
「ん?」
「その……すっごく強かった。あの魔獣、ぜんぜん敵じゃなかった!」
「おう。ま、軽く運動しただけだ」
「ふふっ、かっこよかったよ!」
パンダは照れたふうもなく、軽く鼻を鳴らしただけだったが――その尻尾が、少しだけ揺れていた。
広場に戻ると、村人たちが駆け寄ってくる。
「パンダさまが魔獣を倒したって、本当ですか?」
「リオナちゃんも無事だったのね!」
人々の目が、感謝と驚きに染まっていくのが、パンダにもわかった。
だがその中でも一番先に走ってきたのは――例の少年、レトだった。
「パンダさま! すっごかったです!」
「おう。ちゃんと昼メシ食ったか?」
「うん! でも、お礼言いたくて!」
レトが持ってきたのは、小さな包み。中には、冷めかけのパンと、ほんの少しのジャム。
「ぼくんち、あんまり余裕ないけど……これ、食べてほしくて!」
パンダさまはそれを受け取り、ひと口かじった。
「――うん、うまいな。ありがとな、坊主」
レトの目がぱあっと輝く。
その様子を見ていたカイルが、一歩、前に出た。
「……改めて、礼を言わせてくれ。貴殿の働きは見事だった」
「別に、あんた達のために動いたわけじゃねえけどな」
「それでも、感謝する。王都へ報告を上げる際、貴殿のことは“異種協力者”として記録させてもらう」
「なんだそりゃ」
パンダが鼻で笑うと、カワウソが「キュー」と小さく鳴いた。
カイルは少し口角を上げたあと、真顔に戻って言った。
「この村を拠点にすること、我々としても了承しよう。王都からの定期巡察もあるが、それ以外では干渉せぬ。……ここは、貴殿の“居場所”としてふさわしい」
その言葉に、リオナがぱっと笑顔になる。
「やった……!」
「おいおい、勝手に決めるなよ」
パンダはぼやくが、その声に棘はなかった。
「居場所、ねぇ……」
ふと、パンダの瞳が遠くを見つめる。
ここが異世界であることも、前世がどうだったかも――今は、もうどうでもいいような気がしていた。
「ま、悪くねぇな。昼寝もできるし、メシもうまい」
そう言って、彼は草の上にごろんと横になる。
村人たちは笑い、子どもたちはその周りに集まって、こっそりと背中に乗ってみたり、カワウソにちょっかいを出したりしていた。
「キュー……」
カワウソが、心なしか誇らしげに胸を張る。
リオナが、さっき作った草花の冠を、そっとパンダの頭に乗せた。
「パンダさま。これ、似合ってるよ」
「……やめろ。そういうのは柄じゃねえ」
「でも、ほら。なんだか、お姫さまみたい」
「俺は雄だ」
「ふふっ……知ってる」
夕暮れの陽が、村の屋根を染めていた。
小さな村に、穏やかな風が吹く。
かつて“魔獣”と呼ばれた黒白の巨体は、今や誰よりも頼もしい、“守護者”として――村の真ん中で、すやすやと眠りについていた。
その寝息に、子どもたちの笑い声が重なる。
異世界転生なんて大それた話も、
伝説も英雄譚も、この村では関係ない。
ただ、ひとつ。
“パンダさま”と呼ばれる、ちょっとダンディで、やたらとモテる――そんな不思議な生き物が、今日も村で昼寝してるってだけの話。