第二十五話 パンダ、千年の光を世界に広げる
封印の光はアダマスとハクジンを中心に、まるで水面に広がる波紋のように、谷全体に広がっていく。それは止まることなく、谷の外へ、山の向こうへ、遠くの地平線を越えて、どこまでもどこまでも伸びていった。
「これは……」
フィルメリアが息を呑む。
「見て……空が!」
ユリアが指差す先で、千年間深淵の谷を覆っていた暗雲が、まるで朝日に溶けるように消えていく。
「すげぇ……」
エドガーが呟く。
「キレイだ……」
俺はアダマスの巨大な鼻先に手を置いたまま、その変化を見つめていた。火種が、これまでにないほど暖かく、穏やかに燃えている。
『リンファ……この光は……』
「ああ。お前の心に平安が戻ったから、その平安が世界に伝わっているんだ」
アダマスの瞳に戸惑いが浮かぶ。
『我の……心が?』
「そうだ。千年かけてお前の怒りと絶望が、徐々にこの世界を闇に染めていた。その影響が世界中の魔獣に及んでいた。だが、今、お前の心に平安が戻り、今度は世界を光で包み込もうとしている。お前の心の光が彼らを癒やそうとしているんだ」
「キュー」
ココがアダマス鼻先にそっと自分の鼻を寄せた。
『お前は?』
「俺の仲間だ。ココっていう。幻獣だ」
『そうか。我のこと、怖くはないのか?』
「キュ?キュキュ」
「怖くないらしいぞ。優しい気配がするって」
『そうか』
突然、目の前に遠くの様子が映像として映った。これもエンパシースキルの力なのか。
遠く離れた森で、凶暴化していた魔獣が静かに眠りについている。街の近くで暴れていた巨大な狼が、困惑しながらも攻撃をやめている。各地で、人間と魔獣の争いが一時停止している——。
「みんな、聞いてくれ」
俺は仲間たちを振り返った。
「今、世界中で変化が起きている。魔獣たちが理性を取り戻している」
「本当ですか?」
ミロが共鳴石を握りしめる。
「僕にも、何か……暖かい波動が感じられます」
カイルが剣を鞘に収めながら言った。
「であれば、一刻も早く王都に報告に戻りましょう。変化がどの程度のものなのか、他にどんな影響があるのか、一刻も早く調査しなくては」
「そうですね。世界中で何が起こっているのか調べましょう」
フィルメリアが優しい眼差しで俺たちを見つめながら語りかける。
「そして、ここで何が起こったのか伝えましょう。
千年前の悲しい出来事と共に、それを繰り返さないために」
『本当に人間は変わったのか?』
アダマスが俺を見つめる。
『今度こそ、信じても大丈夫なのか?』
「ああ。俺たちみんなで一緒に新しい世界を作ろう。俺たちが夢見た世界を。なあ、アダマス」
俺はアダマスの巨大な頭を撫でた。
「千年前にできなかったことを、今度こそ実現するんだ」
「それと、今の俺は”ハクジン”だ。”ハクジン”と呼んでくれ」
『そうか。あの頃の”リンファ”ではないのだったな』
「だが、変わらずお前の友だ」
『そうか。変わらずに”友”と呼んでくれるか。ならば、我もそなたを”友”と呼ぼう。ハクジン』
「ああ」
「兄貴、話が落ち着いたなら、傷の手当てを…」
エドガーが治療班を連れて駆け寄ってくる。
「そういえば、血だらけだったな。だが、見た目ほど深くないぞ」
「何を言っているのですか。すぐに止血を!」
フィルメリアが少し怒った口調でテキパキと指示を出す。
『すまなかった。ハクジン、痛むか?』
「なんてことはねえ。大丈夫だ」
心配そうに傷を覗き込むアダマスを安心させるため、傷口をポンと叩いてみせた。
「イテテテ」
「もう、無理なさらないでください」
フィルメリアに怒られた。
ふとフィルメリアの顔を見ると、涙がポロポロと溢れていた。
「姫?どこか痛むんですか?まさか、ケガでも?」
「違います!」
「では、なぜ泣いているのです?」
「泣いていません!」
「え?でも…」
『ハクジンよ。その娘は其方が心配で、無事だとわかって安心したら涙が出てきただけではないのか?紳士たるもの、そういう時は、余計なことは聞かず、そっと涙を拭ってやるものだぞ』
「スゲエな!ドラゴンなのにそんな細やかな女心と対処法がわかるなんて!」
エドガーが尊敬の眼差しをアダマスに向ける。
『ふむ。我はリンファと違って紳士だからな。昔からリンファはこう言ったことに疎いんで、我がいつもフォローしていたものよ』
「スゲエ!かっこいい!パンダ兄貴の兄貴分って感じっすか?アダマス大兄貴って呼ばせてください!!」
「おい!俺はアダマスからそんなフォローは受けてないぞ!」
『記憶がまだ完全に戻ってないだけではないのか?』
「何だと?適当なことを…」
「いい加減にしてください」
フィルメリアが冷ややかに告げる。
「お二人とも。それから、エドガーも。余計なことは言わなくて結構です。さっさと治療して、王都に帰還しますよ。急いでください」
『「「はい」」』
谷底から地上に戻る道中、周囲の様子は明らかに変化していた。
「あ……あれを見てください」
フィルメリアが指差す先には、一頭の傷ついた鹿がいた。だが、それは普通の鹿ではない。角が銀色に光る、明らかに魔獣だった。
しかし、その魔獣は俺たちを見ても逃げることも、攻撃することもしなかった。ただ、静かに俺たちを見つめている。
「大丈夫だ」
俺はゆっくりと近づいた。
鹿の魔獣は警戒しながらも、俺の手を受け入れた。傷に触れると、暖かい光が宿り、傷が徐々に癒えていく。
「すげぇ……パンダ先生のエンパシースキル、パワーアップしてる」
エドガーが驚く。
「アダマスとの心の共鳴で、力が飛躍的に向上したのでしょう」
ユリアが分析するかのように呟く。
「古代の文献にある『心の調律者』……まさにその通りです」
鹿の魔獣は傷が癒えると、俺に向かって深く頭を下げた。そして、森の奥へと穏やかに去っていく。
『不思議だ……』
空を飛ぶアダマスが呟く。
『あの者たちの心に、平安が宿っているのが感じられる』
「お前にも感じられるのか?」
『ああ。まるで……昔の森のようだ』
アダマスの声に、懐かしさが込められていた。
『人間と魔獣が共に暮らしていた、あの平和な時代のように』
***
王都までの帰路、立ち寄った村でも、同様の事例が報告された。
「森の魔獣たちが大人しくなった」
「 あの凶暴だった猪の魔獣も、今はのんびり木の実を食べてます!」
村長が慌てて尋ねてきた。
「一体何があったんですか……?」
「大丈夫だ。魔獣たちが本来の姿を取り戻しただけだ」
俺は村人たちを見回した。
「もう恐れる必要はない。これからは、人間と魔獣が共に暮らす時代が始まる」
「共に……暮らす?」
村人の一人が不安そうに言う。
「でも、魔獣は危険では……」
その時、森の奥から小さなウサギの魔獣が現れた。普通のウサギより一回り大きく、毛が薄く光っている。
ウサギの魔獣は恐る恐る村人たちに近づき、村のこどもの足元で立ち止まった。
「あ……かわいい」
子どもがしゃがんで手を差し出す。
「危ないわ。離れなさい!」
母親らしき女性が止めようとする。
と、ウサギの魔獣は子どもの手に鼻先を触れさせた。
「大丈夫だよ!危険じゃない!」
子どもは笑顔で魔獣を撫でた。
俺は笑った。
「魔獣も、俺たちと同じように心を持っている。怖がらせなければ、怖がることもない」
村人たちの表情が、徐々に和らいでいく。
だが、まだ半信半疑のようだ。
「魔獣に対する認識をすぐに変えるのは難しいかもしれん」
村人たちを見回し、俺は続けた。
「だが、魔獣も人も変わらない。心がある。それを覚えておいてほしい」
立ち寄る村々で、俺は同じような話をし続けた。
姫やエドガー、同行した騎士たちも、皆同じように語ってくれた。
「俺は王都に戻って、人間と魔獣の共存政策を提案するつもりだ」
「私も隣国で同じことをします」
フィルメリアが決意を込めて言う。
「先祖たちの過ちを繰り返さないために」
『我も……』
空から降りてきたアダマスが、穏やかな声で言った。
『人間たちを理解したいと思う』
村人たちは、巨大なドラゴンが話すのを初めて聞いて驚いていたが、その声の優しさに恐怖は感じていないようだった。
「ドラゴン……怖くないね」
村のこどもが小さな声で呟いた。
共存する未来への扉が、少しだけ開いた気がした。