第二十四話 パンダ、深淵と対峙する
翌朝、一行は夜明けと共に出発した。
「深淵の谷まで、あと半日の行程です」
案内を担当する騎士が報告する。
だが、深淵の谷に近づくにつれ、周囲の異変はさらに激しくなっていった。
大地には深い亀裂が走り、川の水は血のように濁っている。空には不自然な暗雲が渦を巻き、時折紫色の雷が鳴り響いた。
「これは……」
ユリアが青ざめる。
「自然の法則が狂っています。アダマスの感情が、世界の根幹を揺るがしているんです」
「全員、緊急事態に備えよ」
カイルが厳しい表情で命令を下す。
「魔力の乱れが激しすぎる。いつ何が起こってもおかしくない」
俺は隊列の先頭に立った。火種が、これまでにないほど激しく脈動している。
アダマスとの距離が近づくにつれ、リンファとしての記憶の断片が次々と蘇ってくる。
美しい森で共に過ごした日々。人間と魔獣が調和して暮らしていた平和な時代。そして、別れの時の悲しみと絶望。
「ハクジンさま、大丈夫ですか?」
フィルメリアが心配そうに声をかける。
「ああ……ただ、記憶が戻ってきているんだ。リンファとしての記憶が」
「キュウ?」
「心配するな、ココ。大丈夫だ」
その時、前方に巨大な断崖絶壁が見えてきた。
「あれが……深淵の谷」
ガルムが呟く。
断崖の向こうは深い霧に覆われ、底が見えない。そしてその霧の中から、重苦しい魔力が立ち上っている。
「おぞましい魔力だ……」
魔導師の一人が震え声で言う。
「これほどの負の感情の塊、見たことがありません」
俺はエンパシースキルを発動させた。
瞬間、圧倒的な感情の波が押し寄せてきた。
怒り、憎しみ、悲しみ、絶望——千年分の負の感情が、まるで津波のように俺の心を襲う。
「うああああっ!」
あまりの激痛に、俺は膝をついて頭を抱えた。
「キュー!」
「パンダ先生!」
「兄貴!」
仲間たちが駆け寄ってくるが、俺は手で制した。
「大丈夫だ……これは、アダマスの千年の苦しみなんだ」
立ち上がりながら、俺は深淵の谷を見つめた。
「みんな、ここで待っていてくれ」
「何を言っているんですか!」
フィルメリアが声を上げる。
「一人で行くなんて、危険すぎます」
「だが、これは俺とアダマスの問題なんだ。リンファとアダマスの、千年越しの対話なんだ」
俺は仲間たちを見回した。
「もし俺に何かあったら、みんなで村に帰ってくれ。リオナたちに、俺は最後まで諦めなかったと伝えてくれ」
「そんなこと言うな!」
ガルムが剣を抜く。
「俺たちも一緒に行く。仲間を一人で危険な場所に向かわせるわけにはいかん」
「私も行きます」
ユリアが震え声ながらも決意を込めて言う。
「古代魔獣の専門家として、最後まで責任を果たします」
「僕もです!」
ミロが共鳴石を握りしめる。
「ハクジンさまにはサポートが必要です」
エドガーが前に出た。
「兄貴、俺たちは仲間だろ。最後まで一緒に戦わせてください」
カイルも頷く。
「我々もお供いたします。これは国の運命がかかった任務です」
フィルメリアが静かに言った。
「私たちは、あなたを一人にはしません。千年前、リンファは孤独に戦った。でも今度は違います」
俺は仲間たちの決意に満ちた顔を見て、胸が熱くなった。
そんな俺にココがそっと鼻を寄せる。
「……ありがとう。そうだな。その通りだ。みんなで一緒に行こう」
***
深淵の谷への降下は困難を極めた。
断崖沿いの細い道を慎重に下りていくと、霧がどんどん濃くなり、魔力の乱れも激しくなる。
「前が見えません」
ユリアが不安そうに呟く。
「大丈夫だ。俺が道案内する。不安なら俺の背中に掴まっていろ」
俺のエンパシースキルが、アダマスの存在を感じ取っていた。深い絶望の中心に、確かに彼がいる。
「ハクジンさま。アダマスはこの先にいるのでしょうか?」
「ああ、アダマスは確かにいる。俺を待っている」
やがて、谷底に到達した。
そこは異世界と呼ぶにふさわしい光景だった。
地面は黒く焼け焦げ、空気は重苦しい。辺り一面に不気味な光を放つ結晶が散らばり、その中心に——
「あれが……アダマス」
巨大なドラゴンが、鎖に繋がれたまま眠っていた。
かつては美しかったであろうその姿は、千年の怒りと悲しみによって歪められている。鱗は黒く変色し、翼は傷だらけ。それでも、その威容は圧倒的だった。
「でかい……」
エドガーが息を呑む。
「これが深淵の王……」
その時、巨大な頭がゆっくりと持ち上がった。
深い紅色の瞳が、俺たちを見つめる。
『……人間どもめ。よくも聖域を汚しに来たな』
低く、重い声が響いた。その声には、千年の憎悪が込められていた。
『貴様らも、我らを裏切った者どもと同じか。ならば、塵に帰すまで』
アダマスが翼を広げようとした瞬間、俺が前に出た。
「待ってくれ、アダマス」
ドラゴンの動きが止まった。
『その声……まさか……』
「俺はハクジン。リンファの魂を引き継ぐ者だ」
アダマスの瞳が大きく見開かれた。
『リンファ……本当にお前なのか?』
「ああ、そうだ」
俺は胸に手を当てた。火種が温かく燃えている。
「お前を救いに来た」
『救う……?』
アダマスが苦笑する。
『千年前、お前は私を封印した。それなのに今度は救うと言うのか?』
「封印したのは、お前を守るためだった。人間に完全に滅ぼされる前に」
『守る……?』
アダマスの声に、かすかな動揺が混じった。
『我は、最愛の仲間たちを失った。美しい森も、平和な日々も、すべて人間どもに奪われた。そして最後には信じてたお前に封印された』
「わかっている。その怒りも、悲しみも、すべて理解している」
『理解だと? 綺麗事を抜かすな!』
突然、アダマスの瞳が憎悪に燃え上がった。
『千年間、この暗闇で一人きり……裏切ったお前自身に我の絶望が理解できるものか!』
巨大な爪が俺に向かって振り下ろされる。
「ココ、下がっていろ」
「パンダ先生、危ない!」
仲間たちが叫ぶが、俺は動かなかった。
ガッ——!
鋭い爪が俺の肩を捉える。だが、俺は攻撃を避けることも、反撃することもしなかった。
「うっ……」
血が流れるが、俺は立ったままだ。
「なぜ避けない!」
ガルムが剣を抜こうとするが、俺は手で制した。
「手を出すな。これは俺とアダマスの問題だ」
『何故……何故反撃しない?』
アダマスが困惑する。
『私を封印した張本人でありながら、何故戦わない?』
「俺が戦いたいのは、お前じゃない」
俺はアダマスを見上げた。
「俺が戦いたいのは、お前を苦しめている憎しみと絶望だ」
『戯言を……!』
アダマスが再び爪を振るう。今度は俺の胸を深く裂いた。
「ハクジンさま!」
フィルメリアが駆け寄ろうとするが、俺は首を振った。
「大丈夫だ……これくらい」
血を流しながらも、俺は一歩、アダマスに近づく。
『愚か者! 何故逃げない!』
「昔から、お前は俺より強かった」
俺はかすかに笑った。
「だが、お前は俺を殺さない。なぜだかわかるか?」
アダマスの動きが止まる。
「お前は心の奥底で、まだ俺のことを——リンファのことを友だと思ってくれているからだ」
『なんだと……』
アダマスの瞳に揺らぎが生まれる。
「千年前も、お前は最後まで俺を信じてくれた。人間たちが森を焼き、仲間たちを殺していく中でも、お前は『リンファだけは違う』と言ってくれた」
俺はさらに一歩近づく。
「俺は、そんなお前だからこそ守りたかった。いつかまた、一緒に笑いあいたかった。そのために、封印した。俺が生まれ変わって、世界が平和になっていたら、お前を迎えに行くつもりだったんだ」
『やめろ……やめろ……』
アダマスが頭を振る。
『リンファは……リンファは私を裏切った! 封印という名の牢獄に閉じ込めて!』
「違う」
俺は首を振った。
「俺は、お前を愛していたから封印したんだ。死なせたくなかった。たとえ憎まれても、お前に生きていてほしかった」
アダマスの巨体が震える。
『愛……だと?』
「そうだ。お前は俺の大切な友だった。今でもそうだ」
俺は両手を広げて、無防備にアダマスの前に立った。
「アダマス、遅くなってすまなかった。長いことひとりで待たせてすまなかった。やっと迎えに来れた…」
『な、何を…』
「もう一度信じてくれとは言わない。お前が千年もの間苦しんできたのは俺のせいだ。だから、もう一度俺を攻撃するなら、今度こそ本気でやってくれ。中途半端な攻撃は、お前らしくない」
『……ッ』
アダマスが咆哮を上げ、巨大な爪を振り上げる。
だが——その爪は、俺の頭上で止まった。
『何故だ……何故、お前を見ていると……』
アダマスの声が震えている。
『昔の……平和だった頃の記憶が……』
「思い出してくれたか」
俺は静かに言った。
「森で一緒に昼寝をした日々を。魔獣と人間が仲良く暮らしていた時代を」
『リンファ……』
ついに、アダマスの口からその名前が紡がれた。
「ああ。俺はここにいる。お前を迎えに来たんだ」
ゆっくりと、アダマスが俺を見た。
「千年前とは違う。アダマス……お前をもう一人にはさせない。その苦しみも悲しみも、俺も共に背負う。背負えるようになったんだ」
『リンファ……』
「待たせてごめんな、アダマス。一人にさせてすまなかった」
アダマスの声に、初めて温かみが戻った。
『お前も苦しんでいたのか……』
「お前ほどじゃないさ。それに、今は違う。人間の中にも、魔獣を理解しようとする者たちがいる。幻獣の仲間もいる。俺が一人ではできなかったことを、一緒にやろうと言ってくれる奴らがいる」
俺は振り返って、仲間たちを指差した。
「この人たちは、千年前、俺たちの村を襲った人間とは違う。お前を救うために、危険を覚悟でここまで共に来てくれたんだ」
フィルメリアが一歩前に出た。
「アダマス様、私たちは先祖の罪を償いたいのです。千年前の悲劇を繰り返さないために」
エドガーも頷く。
「俺たちは、人間と魔獣の共存を望んでいます」
ユリアが震え声で言った。
「古代の知識を学び、二度と同じ過ちを犯さないよう努めています」
アダマスの瞳に、戸惑いが浮かんだ。
『人間が……我らを救おうと?』
「そうだ。時代は変わったんだ、アダマス」
俺はそっとアダマスに近づいた。
「お前の怒りも、悲しみも、すべて当然のものだ。だが、その怒りに支配されて魔獣たちも苦しんでいる」
『……そうか。我の怒りが、罪なき者たちにまで』
「もう一度、一緒に新しい世界を作ろう。人間と魔獣が、本当に理解し合える世界を」
俺は手を差し出した。
「千年前、俺たちが夢見た世界を、今度こそ共に実現しよう」
アダマスが長い間、俺を見つめていた。
その瞳には、千年の孤独と、かすかに宿った希望の光があった。
『……リンファ。お前は、変わらないな』
「お前もだ、アダマス。本当のお前は、優しいドラゴンだった」
ゆっくりと、アダマスが頭を下げた。
そして俺の手に、そっと鼻先を触れさせた。
その瞬間、封印の鎖が光とともに砕け散った。
深淵の谷に、千年ぶりの平和な光が差し込んだ。
新しい時代の始まりだった。