第十一話:パンダ、名前を贈る
草を踏む音だけが、風の中に溶けていく。
エドガーと別れてから、俺たちは言葉少なに歩き続けていた。
陽が少し傾いてきた頃、ようやく草原の緩やかな丘が見えてきた。
「……静かだな」
ぽつりと漏らした言葉に、横を歩くカワウソが「キュ」と短く鳴く。
返事なのか、同意なのか、単なる鼻歌なのかは、よくわからない。
でもまあ、こいつのことだ。たぶん、全部だ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「最初はな、この世界にやってきて、パンダになって、リオナや村の奴らと暮らしていく中で、のんびり異世界スローライフ?ってやつを満喫するのも悪くないって思ってたんだ。そんでもって、時々誰かの背中を押すとか、支えるとか、時にはそんな感じに誰かの役に立ってたら、まあ、柄じゃないんだけど、それも”悪くねえ”って思ってた」
「キュウ?」
「柄にもなく、それが俺の”生きる道”、ていうか、この世界での”役回り”みたいな気がしてたんだ。いや、正直、悪い気はしなかった。そんな風に生きてくのも幸せだってな。
けど、今はもうちょっとだけ、自分を主役に考えてみようかと思ってる」
カワウソは俺の肩にひょいと飛び乗り、鼻先で頬をつついてくる。
「なんだ、茶化すな。……真面目な話だ」
「キュッ」
それでもお構いなしに、ちょんちょんと軽く頭突きを食らわせてくる。
まったく、こいつは。人の考え事の最中に、容赦がねぇ。
「……で、お前は、どうなんだ?」
肩の上のカワウソをちらりと見た。
あいかわらず、無言のまま。けれど、落ち着いた目でこっちを見ている。
ちゃんと、聞いてた顔だった。
「ふーん……わかってるのか、わかってないのか、なあ、カワウソ…」
そんなふうに思いながら、ふと足を止めた。
「そういや……お前って、名前なかったよな」
カワウソが首をかしげる。
「いや、いつまでも”カワウソ”はねえよなあ」
「キュ?」
「ほら、お前が俺の肩に乗って、隣を歩いて、たまに助けてくれて。
俺はもうおまえのことを立派な”相棒”だと思ってる。
なのによ、その相棒に対して”カワウソ”って…よく考えたら雑だろ」
「キュー……」
どことなく納得していないような声が返ってくる。
やっぱりこいつ、薄々思ってたんじゃないのか。
「というわけで、ちょっと休憩がてら、名前でも考えてみるか」
俺は近くの草の上に腰を下ろした。
風が草原を撫で、遠くで鳥が小さく鳴いていた。
「さて……困ったな」
カワウソが俺の前にちょこんと座り、興味津々といった顔でこちらを見上げてくる。
「前世でも名付けなんてしたことなかったもんな。確か、親戚の子どもが生まれた時は、四柱推命だとか、姓名判断だとか色々参考にしてたな」
「…」
「でも、そんな知識、俺にはないもんな。とりあえず、見た目の特徴から考えるか。毛並みは……ふわふわ、柔らかい。もふもふ界の王」
「キュ」
「いや、候補じゃない。説明だ」
「キュッ」
「肩に乗るのが定位置。水は好き。火も怖がらねぇ。
何考えてるかはわかんねぇけど、ずっと隣にいる。何かあるとちゃんと動く。結構気が利く」
「キューッ」
「……んー。やっぱり”旅の相棒”って意味も込めるか」
俺は空を見上げた。
夕日が雲の隙間を染めながら、ゆっくりと沈もうとしている。
「名前ってのは……きっと、想いを込めるもんだ」
「キュ?」
「お前と出会った場所、肩に乗ってくれた日、背中を押してくれた日――
どれも、忘れられねぇ。……だから、こうしよう」
俺はひと呼吸置いて、まっすぐカワウソを見た。
「“ココ”ってどうだ?」
カワウソがまばたきをひとつ、ふたつ。
それから小さく「キュ?」と鳴いた。
「この場所、“ここ”から始まった。
俺にとっても、お前にとっても、きっと“今”がその出発点なんだと思うんだ」
風がまた吹いた。
草が揺れ、空が少しだけ赤みを増す。
カワウソはしばらく動かなかったが、次の瞬間――
「キュウウウウウッ!!」
声を上げて、勢いよく俺に飛びついてきた。
「お、おい!? 急になんだ――うわ、毛が! 口に!」
俺の顔の上にどさっと乗っかり、ココ(旧カワウソ)は尻尾をぶんぶん振っていた。
鼻先でぐいぐい押してくる。鳴き声もいつもより高めだ。
「……気に入ったのか?」
「キュッキュッ!!」
「そうか……そうか」
苦笑しながら、俺はそっと前足を伸ばして、ココの小さな手に触れた。
指先がちょんと重なり、小さな“握手”が成立した。
「じゃあ、改めてよろしくな、ココ」
「キューーー!」
まるで、世界が一段明るくなったような、そんな鳴き声だった。
俺は、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。
名前を呼ぶってのは、思ったよりも、いいもんだな。
***
「キュー……」
まだ薄暗い森の奥、草の上に寝転んでいたココが、ふと首をもたげる。
静かな朝だった。
風が梢をくすぐり、遠くで鳥が一声鳴く。
けれど、ココは風の音ではなく、何か別の“匂い”を感じ取ったようだった。
「どうした? ……って、おい?」
気づけば、ココがすたすたと歩き出していた。
顔つきが普段と違う。いつもの気まぐれさとは違い、迷いなく何かを“辿っている”ようだった。
俺は慌てて荷物を肩にかけ、後を追う。
***
森の奥へ進むほど、空気が変わっていった。
香りが澄み、音が遠くなる。
足音さえ、苔に吸い込まれていくようだった。
その先に、小さなひらけた空間があった。
朝霧の中、苔むした石と古い根が絡み合った円形のくぼ地。
ココはその中央に立ち、鼻をくんくんと動かした。
それから一歩、また一歩と踏み出し、一本の古い木の根元に顔を寄せる。
「……なんだ、それは」
苔の間に埋もれるようにして、小さな石のかけらがあった。
表面には、かすれた線刻。魔導文字か、あるいはただの紋様か――
けれどそれを、ココはまるで“知っているもの”のように、大事そうに抱きしめた。
そのときだった。
森のあちこちから、ぬるりと気配が広がった。
影のように、小さな幻獣たちが現れた。
耳の長いリスのような者、体が透けて見えるような狐、うっすらと光る毛並みの鳥――
どれもが、どこかこの現実のものとは違っていた。
だが、不思議と怖さはない。
彼らはココに近づき、静かに寄り添い、囲むように並んだ。
その姿を見て、俺は悟った。
「……おまえも、そうなんだな」
ココは、自分が幻獣だったことを知らなかった。
けれど、今ここで、確かに“思い出している”。
仲間に迎えられるように、その真ん中へ歩いていく。
小さな尾が触れ合い、耳と耳が寄せられ、言葉を使わずとも通じ合っている空気。
俺は、木の陰からその様子を見ていた。
邪魔をしてはいけないような、そんな静かな儀式だった。
ふと、ココが地面に潜り込むようにして、小さなくぼみに体を収めた。
丸まって、仲間たちとぴたりと寄り添い、静かに目を閉じる。
「……帰ってきたんだな、お前」
小さくつぶやいて、俺は少しだけ背を向けた。
寂しいというより、なんだか“うまく収まった”ような気さえした。
その背中が、安心して眠っているのを見るのは、悪くない。
仲間たちと身を寄せ合い、まるで“巣”のように、そこに溶け込んでいく。
「……そっか。ここが、お前の“ふるさと”だったんだな」
俺はそっと一歩下がって、木の影に身を隠した。
なんとなく、今この場にいるのは“違う”気がしたのだ。
ココの笑い声は聞こえない。
でも、耳が感じる沈黙が、なんともあたたかくて、やわらかかった。
「……あいつ、あんなふうに笑うんだな」
どこか、胸の奥がきゅうっとする。
俺はただの通りすがりだった。
名前をつけて、勝手に“相棒”だなんて思ってたけど――
きっとココには、俺よりも長く、深く、思い出を重ねてきた仲間たちがいたんだ。
その事実に、今さらながら気づいた。
「……そりゃそうだよな」
口にすると、少しだけ楽になった。
出会って、一緒に旅をして、笑って、寝て、喧嘩して、名前を贈って――
それでも、時間じゃ敵わない“絆”ってのが、あるんだろう。
どのくらい時間が経っただろう。
陽が差し始めた頃、ふと気配を感じて振り返る。
そこに立っていたのは、ココだった。
ココは、ふいに辺りを見渡した。
仲間たちが何かを察して、そっと距離をとる。
そして、ココは――寝ていた輪の中心から、ひとりで歩き出した。
「……?」
俺が気づいたときには、すでにこっちに向かってきていた。
とことこ、と。
まっすぐ、迷いのない足取りで。
そして俺の足元まで来ると、きゅっと尻尾を振って、肩を指差すように前足を上げた。
何も言わず、俺はしゃがみこみ、肩を差し出す。
ココがひょいと跳ねて、ぴたりと定位置に収まる。
「……いいのか?」
肩の上からは、あの心地よい重みが伝わってくる。
「ここが、お前のふるさとだ。仲間もいる。記憶もある。……全部、大事なもんだろ」
ココは鼻をふんっと鳴らして、俺の耳に頬を寄せる。
まるで、「わかってるよ」とでも言いたげに。
ココは一瞬だけ、森の奥を振り返った。
そこには、仲間たちがいた。
こちらを見ている者もいれば、また眠りにつこうとする者もいた。
だけど、誰も“引き止めよう”とはしていなかった。
まるで、“旅立ちを知っていた”かのように。
「……そっか。じゃあ、また一緒に歩こうか。今度は、“お前が選んだ道”としてな」
「キュッ」
俺の頬に鼻先を押し付けて、尻尾でぽすぽすと肩を叩く。
まるで、「行こう」と言っているように。
「わかった。じゃあ、改めて行こう。“ふたりの道”を」
森を抜ける風が、ふたりの背中をそっと押した。