第十話:パンダ、再会の道
草を踏む音が、風に紛れて消えていく。
俺は、まだ村には戻らずにいた。
村のにぎやかさより、今は少しだけ静かな空気が心地よかった。
背中のカワウソが「キュー」と鳴いて、肩で軽く揺れる。
特に急ぐ理由もない。どこに向かっているかも、正確には決めていない。
ただ、足が前に進んでいた。
「……帰るのが、怖いわけじゃねえ」
ぽつりと呟く。
でも、言葉にして初めて、自分の中の“もやもや”に気づく。
火種はまだ灯していない。
姫を見送ったあの日から、何かが変わった気がして、それをまだ整理しきれていないだけだ。
川沿いの小道に差しかかると、ふと、人の気配がした。
片膝をついて水を汲んでいる男――
革のジャケット、剣は腰に、肩にはマント。
けれど、その背中にはどこか、見覚えがあった。
「……パンダ兄貴?」
聞き覚えのある声が、風に乗って届いた。
「兄貴、こんなとこで何してるんスか?」
こちらを振り返ったのは、エドガーだった。
少し痩せたような、でも前よりずっと落ち着いた目をしていた。
以前のようなやんちゃさは残しつつ、どこか“迷いのない顔”をしている。
「……おまえこそ。姫を送った帰りか?」
「はい。国境の向こうで現地の護衛に引き渡して、そこで解散しました。
俺だけ、なんとなく……一人でフラフラしようと、休暇をもらって寄り道してたんス」
「珍しいな。何だかんだと任務に忠実なおまえが…」
「……ええ。俺は、あの人の“守り役”でしたからね。ずっと」
言葉の切れ目に、ゆっくりと水音が重なる。
「でも、もう違うって気づいたんス」
エドガーは立ち上がって、水筒をぶら下げながら俺の隣に並ぶ。
「見送ったんスよ。ちゃんと、自分の足で進んでいく姫さまの背中を」
「……そうか」
「まっすぐだったっス。昔はよく“世話が焼ける”って思ってたけど、
今は、あの人の方がよっぽど強くて、前に進んでる。
……置いてかれた、って思いました」
カワウソが「キュ」と小さく鳴いて、俺の肩の上でくるんと丸くなる。
いつもならそこで「それは情けねえな」とか茶化すところだが、今のエドガーには、そういう言葉が似合わなかった。
「そんで、どうするつもりだ」
「……俺、今度こそ、誰かを本当の意味で守れるようになりたくて。
そのために何ができるか、どうすればいいか、それを考えたくて――
一人で旅してたんス」
焚き火を囲むように、自然と腰を下ろす。
夕暮れが迫ってくる。
光が川面に揺れて、ふたりの影が伸びる。
「魔獣討伐部隊ってのを作ろうかと考えてます。
街道や村を襲う魔獣が増えてるって聞いて。
あの人――姫さまが進む道の先に、少しでも危険が少なくなるようにって思ったら、いてもたってもいられなくなったんス」
「……まっすぐだな、おまえは」
「いや、まっすぐだったら、もっと早く動けてたと思いますよ。
俺、ずっとあの人に甘えてたんス。姫さまを守ってるつもりで、守られてた。
でも、それじゃダメなんだって、やっとわかりました」
「……お前、変わったな」
「兄貴にそう言ってもらえたら、嬉しいっス」
「そういうもんか」
「ふふ、俺、兄貴の背中、ずっと、見てましたから」
その言葉に、返す言葉はなかった。
ただ、火を見つめて、少し笑う。
「ずっと”背中で語る漢”ってのに憧れてたっス。兄貴の背中を見て、俺もそうなりたいって。でも、自分のは単なる”猿真似”にすぎないって、姫の凛とした背中を見て、気づいちまったんス」
「そうか」
「だから、俺も誰かの真似じゃない、”自分の道”を歩いてみようって思ったんス」
「……ああ」
風が吹いて、香袋がわずかに揺れた。
その香りが、姫の言葉を思い出させる。
“わたくしは、ただのお飾りの姫ではいたくありません”
“誰かの力になれる存在になりたいのです”
――その背中を、俺も見送ったんだった。
「……俺も、何か始めてみるかな」
「え?」
「まだ何がしたいとか、どうなりたいとか、そんなのは分かんねえ。
でも、ちょっと考えてみようとは思った」
カワウソが「キュー」と鳴いて、肩からすっと降り、焚き火の横に丸くなる。
「……おまえも一緒に考えてくれんのか?」
「キュー(=もちろん)」
そんな小さな返事が、やけにあたたかく感じた。
夜の帳が下りる頃には、空にひとつ、星が瞬いていた。
焚き火の炎が、薪の芯を焼きながらじわじわと広がっていく。
ぱちり、ぱちりと音がして、辺りの闇にリズムを刻んでいた。
エドガーが鞄の中から小さな皮袋を取り出すと、俺のほうをちらりと見た。
「兄貴って、酒いけます?」
「まあ、飲めなくはないが……」
「よかった。よかったら、少しだけ付き合ってもらえません? 今夜は……ちょっとだけ、飲みたい気分なんス」
そう言って差し出された皮袋を受け取る。
中身は、ほんのり甘い果実酒だった。
口に含むと、ふわりと喉に広がるやさしい香り。
「……悪くねぇな」
「でしょ。さっき、町の小さな店で分けてもらったんス。
“旅の途中で飲むなら、これくらいがちょうどいい”って言われました」
「いい判断だ」
ふたりで小さく笑って、少しの間、炎の音だけが響いた。
カワウソは焚き火のそばで丸くなっていたが、匂いに誘われたのか、皮袋にくんくんと鼻を近づけた瞬間、ごろんとひっくり返った
「……こいつ、ちょっと酔ったみてぇだな」
「兄貴、それ、姫さまが作ってた香袋ですよね?」
俺が無意識に握りしめていた胸元の香袋を目線で示し、エドガーが尋ねる。
「ああ、よくわかったな」
「姫さま、兄貴に渡したいって、出発前の忙しい合間に一生懸命作ってたから」
「そうか」
「ねえ、兄貴……少し聞いてもらってもいいスか?」
俺は頷いた。
炎を見つめながら、酒をもう一口だけ口に含む。
「姫さまを、国境まで送り届けた日のことっス」
エドガーの声が、少し低くなった。
「俺、その日まで、ずっと“姫さまを守るのが俺の役目だ”って、思ってたんスよ。
あの人は“世話が焼ける”って、”俺が面倒見なきゃ”って、どっかで下に見てたんス」
焚き火がぱち、と弾けた。
エドガーはそれを目で追いながら、続けた。
「でも、違った。姫さまは……俺なんかいなくっても、ひとりできちんと立ち上がれる人だった」
「……」
「現地の護衛に引き渡すとき、あの人、笑ってたんスよ。まるで、こっちが“送られる側”みたいに」
「『あなたには、あなたにしかできないことを探してほしい』って言われたっス」
「……」
「もう、何も言えなかった。
ずっと”守ってやらなきゃ”って思ってた小さな背中が、そのときは――とんでもなく、大きく見えたっス」
エドガーは、火に手をかざした。
そして、ほんの少し、苦笑いを浮かべる。
「俺、守ってるつもりだったんス。ずっと。
でも、あの人はもう、誰にも守られずに進んでいく覚悟を持ってた。
俺はそれを見て、初めて――置いてかれたって思ったっス」
酒をもう一口。
その言葉は、心の奥で、ひとつひとつ静かに溶けていくようだった。
「……俺、悔しかったんスよ。情けない話だけど。
姫さまに、ずっと“頼れる男”だと思われてたくて、そう見られたくてやってきたのに――
結局、俺のほうがずっと頼ってたんだって、思い知らされて」
「……」
「だから、今度こそ、自分の足で立ちたいんス。
ちゃんと“自分の足”で立って、誰かに向き合えるようになりたい」
俺は、それでも黙って聞いていた。
語り終えたエドガーは、しばらく焚き火を見ていたが、やがてポンと自分の頬を叩いた。
「すんません、ちょっとしんみりしました」
「……いい話だった」
「……照れますね」
「いや、マジで」
「やめてください。「兄貴に言われると、なんか……こそばゆいっス」
「そうか?」
「そうっスよ……兄貴って、なんか貫禄があって、渋くて、俺の理想とする”背中で語る漢”って感じなんですから」
焚き火が、ふっと揺れた。
その光が、あの日の姫の背中と、今隣にいる男の顔を交互に照らしていた。
カワウソが、すぅっと寝息を立てている。
平和な時間。静かな夜。
でも、その奥で、何かが少しずつ、変わっていた。
俺も、こいつも――
そして、姫も。
変わっていくことが、怖くない夜だった。
夜明けの気配が、そっと足元から染み込んでくる。
焚き火は小さくなり、薪の芯だけがじんわりと光を放っていた。
さっきまで静かに寝息を立てていたカワウソが、ふにゃあと背伸びをしながら目を覚ます。
俺の肩にちょん、と飛び乗って、「キュウ」と小さく鳴いた。
「おはよう、相棒」
俺の声にカワウソが尻尾でぺしぺしと応え、エドガーの膝の上にぽすんと着地する。
エドガーは笑って、その頭をぽんぽんと撫でた。
「朝っスね」
「……ああ」
澄んだ空気に、かすかに草と土の匂いが混ざっていた。
夜の余韻はまだ残っていたが、世界はすでに“始まり”に向かって動き出している。
「兄貴」
「ん?」
「俺、今日から……ちゃんと始めてみようと思ってるんス」
エドガーは立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
冗談みたいに若かった顔が、今は少し引き締まって見える。
「この先の南の砦に向かいます。魔獣討伐に協力してくれる仲間がいるかもしれないって話を聞いて」
「……そうか」
「“できること”を探して、できるだけ、やってみようと思ってます。
そのうえで、誰かを守れるような人間になれたら……って」
エドガーの言葉には、以前のような“なりたい自分への憧れ”ではなく、
“これから歩く道の実感”がにじんでいた。
「兄貴みたいには、すぐにはなれないけど」
「おい、それは褒めてるのか?」
「もちろん褒めてますよ!」
「そうか……なら、礼ぐらい言っといてやるか」
「ふふっ、ありがとうございます」
ふたりで、少しだけ笑った。
ふと、エドガーが真顔になって言った。
「兄貴――兄貴はずっと、俺にとって“憧れ”でした」
俺は一瞬だけ目を伏せた。
火種の存在が、胸元でかすかに揺れたような気がした。
「そうか……」
言葉が出てこなかった。
でも、それでいいのかもしれない。
言葉にならない想いも、もう伝わったはずだ。
エドガーは荷物を背負い、カワウソの頭をぽんと撫でてから、静かに言った。
「じゃあ、またどこかで」
「おう。気をつけてな」
「兄貴も、ちゃんと自分のこと、考えてくださいよ? ……“誰かの背中”押してばっかりいないで」
その言葉に、思わず口元が緩んだ。
「……わかってる。そのうちな」
「そのうち、ってとこが兄貴らしいっス」
冗談みたいに軽く手を挙げて、エドガーは歩き出した。
朝の光の中、その背中は、もう振り返らなかった。
今度は、俺が“見送る”番だった。
「……立派になったな、ほんと。また、置いてかれちまった気分だ」
カワウソが肩に戻ってきて、「キュウ」と鼻を鳴らす。
俺の頬にぴと、と額を寄せて、じっと見上げてくる。
「何だよ。……言いたいことがあるなら、言えよ」
もちろん、返事はない。
でも、カワウソの目が言っている。
“あんたはどうするの?”と。
「……そうだな」
俺は少しだけ空を仰いだ。
朝焼けが、東の山並みをじんわりと染めていく。
「おれも、何か探してみるか」
「キュ?」
「すぐに見つかるとは思っちゃいねぇ。
でも、旅をしながら考えるってのも、悪くねぇ気がする」
カワウソが満足げに「キュウッ」と鳴いて、俺の肩にぴたりと寄り添った。
「おまえとふたりなら、そこそこ楽しくやれそうだしな」
風が吹いた。
香袋がわずかに揺れて、懐の火種がかすかに温度を持った気がする。
まだ灯してはいない。
でも――“灯してもいいかもしれない”って、思えた。
俺は一歩踏み出した。
草を踏む音が、朝の静けさを少しだけ震わせる。
「じゃあ行くか。……なんとなくだが、今日はうまい茶が飲めそうな気がする」
「キュー!」
朝の光の中、ふたりの影がゆっくりと伸びていった。
それは、まだ見ぬ“旅”の始まりだった。