第一話:パンダ、神と間違われる
目を覚ましたら、俺は――パンダだった。
青空の下、木漏れ日揺れる森の中で、白と黒のモフモフな巨体が視界に映る。
「……なんだこりゃ」
ごろんと寝返りを打とうとして、思いきり転がった。重たい腹。短い足。ぶっとい腕。ふさふさの耳。
近くにあった小さな池を覗き込むと、そこにはまぎれもなく、パンダがいた。だがその目元にはどこか哀愁が漂っていて、眉間にはうっすらと皺まで寄っていた。
「……俺か?」
声は低くて渋いバリトンボイス。まるでナレーション担当のベテラン俳優のようだ。
しかも言葉が出てくることに、まるで違和感がない。
とりあえず事実確認だ。
一、俺はたぶん死んだ。
二、転生したっぽい。
三、なぜかパンダ。
四、しゃべれる。
五、ここはどこかの森の中。
ここまで整理して、ようやく俺は地面に座り込んだ。
「……冴えない人生だったなぁ」
妻子なし。昇進もせず、のらりくらりと50年。
親を若い頃に亡くし、兄弟もいない。
誰かに褒められた記憶も、頼られた記憶も、数えるほどもない。
「もっと誰かの役に立てる生き方をすれば良かった…」
「…ああ、俺は悔やんでいるのか」
ふっと自重気味に笑う。
「…もう1回やり直せってことか」
俺はモフモフの両手を見つめ、ため息を吐いた。
「それにしても…」
パンダ。
親父とお袋が生きてた頃、1度だけ上野に見に行ったな。
ほとんど人の頭しか見えなかったけど、やけに頼りがいありそうなあの背中は覚えてる。
ああ見えて、けっこう筋肉質なんだよな。
でも俺は、あの上野のパンダとはどこか違う。
まず、妙に渋い声。あと、背中が広い。
生き物として強いというより、会社の隅っこで煙草を吸ってる、仕事できる先輩社員みたいな空気感がある。
「やれやれ……ま、悪くないかもな」
そんなふうに思って、木陰で昼寝でもするかと目を閉じかけたときだった。
――「う、うぅ……ぐすっ……」
泣き声。
小さな子どもの声だ。森の奥から、ひっそりと、でも確かに聞こえる。
「……子ども?」
この世界に人間がいるのか? それにしても、こんな森の奥に? 俺のパンダレーダー(そんなものがあったのか)は自然と動き出していた。
音を辿る。草むらをかき分け、木々の間を抜けると、ひとりの少女がいた。
年の頃は……小学校に入りたてくらいだろうか。三つ編みの先がほつれ、泥だらけのワンピースを着て、膝を抱えて泣いていた。ぽつんと、今にも消え入りそうな様子で、森に置き去りにされている。
ゆっくりと近づいてみる。パンダとはいえ、急に出たら驚かせてしまう。
「……どうした。迷子か?」
低い声で、できるだけ優しく尋ねた。
少女は顔をあげた。大きな瞳が涙で濡れている。
「だ、だれ?」
パンダの俺を見るなり、数秒固まり――
「……か、神さま……?」
ぽつりと、そうつぶやいた。
そして、ぱたぱたと駆け寄ってくる。俺の足元でぺこりと頭を下げた。
「わたし、リオナっていいます。森で迷っちゃって……神さま、お願い、村まで連れてってください……」
神様、ねぇ。
怖がられるよりいいか。
俺はゆっくりとしゃがみ、背中を見せるように向けた。
「ほら、背中に乗りな。送っていってやるよ」
リオナはぱちくりと瞬きして、それから顔をぱあっと輝かせた。
「……いいの? わたし、乗ってもいいの?」
「ああ。……しっかり掴まってろよ」
そう言った自分の声が、やけに渋くて、ちょっとだけ照れた。
小さな手が、そっと俺の背に触れる。ふわふわの毛並みに、くすぐったそうに指が埋まっていく。
リオナは俺の背中によじ登り、ちょこんと腰を下ろした。まるで、かつて誰かにおんぶされた記憶を探るかのように。
「……あったかい」
その小さなつぶやきが、風に溶けていった。
俺はゆっくりと立ち上がり、少女を背に、森を歩き出した。
行き先は、少女の“帰る場所”――そして、たぶん俺の“始まりの場所”。
なんの因果かパンダになっちまったが……まあいい。
少なくとも今の俺には、頼ってくれる誰かがいる。
そう思ったら、自然と背筋が伸びた。
森の風が、背中を押すように吹いていた。
***
――森の中を、パンダが歩いている。
その背には、小さな少女。
広くてふわふわな背中にしがみついた少女ーリオナは、ぽつぽつと話し始めた。
「神さまって、毛がやわらかいんだねぇ」
「おいおい、やめてくれ。こそばゆい」
「うふふ、だってほんとだもん。わたし、前に馬に乗せてもらったことあるけど、それよりずっとあったかい」
褒められて悪い気はしなかったが、くすぐったいのと半々だった。
「神さまって、なんで森にいたの?」
「うーん……それはな。まあ、ちょっとした都合でな。お前さんと同じで、迷い込んだようなもんだ」
リオナは「ふうん」と鼻を鳴らして、小さく頷く。
「でも、神さまってなんでも知ってるんでしょ? お空の上にいるって、おばあちゃんが言ってたよ」
「へえ……そりゃまた高く評価されたもんだ」
知らぬ間に神様キャラが固定されてきたが、今さら「パンダです」と訂正するタイミングも逃していた。
歩きながら、ふと周囲に目をやると、木々の間から遠くに煙が立ち上っているのが見えた。どうやら人のいる場所は近いらしい。
「……あれが、お前の村か?」
「うん! あそこ! あれがクロヤナギ村! おじいちゃんが村長してるの!」
そう言うと、リオナは両手を広げて体を起こした。
「みんなー! ただいまー!」
「おいおい、まだ着いてないっての」
だが、その声は森に反響し、かすかに人影が木の間から見えた。
「あれは……見張りか?」
木の根元にいた男がこちらに気づき、目を見開いた。
「お、おい! なんだあれ! 魔獣か!?」
すぐさま数人の村人が駆け寄ってくる。鋤や熊手、棒きれなどを手に、武装……というには少々頼りないが、彼らなりに必死だった。
「パンダだ! 黒白の熊だぞ!」
「リオナちゃんが背中に!? まさかエサにされるんじゃ……!?」
「ばかあ!なんてこと言うの!この神さまは助けてくれたんだよ!」
「あ、どうも。パンダです」
リオナが胸を張って叫び、俺も挨拶をする。
すると、こちらに向けられていた警戒が、じょじょに驚きと混乱へと変わっていった。
「しゃべった……!?」
「いや、待て。あの声……どっから出てる?」
俺は一歩前に出た。しゃがんでリオナを降ろすと、ゆっくりと立ち上がり、低い声で言った。
「騒がせて悪いが、敵意はない。ただの通りすがりのパンダだ。彼女を助けて、ここまで送ってきただけだ」
渋い声でそう告げると、村人たちは顔を見合わせ、ぽかんと口を開けた。
しばらくして、ひとりの初老の男が進み出た。
「……わしは村長のクロヤナギだ。リオナの祖父じゃ。礼を言う、神……いや、パンダ殿」
その言い回しがツボに入ったのか、リオナがくすくすと笑う。
「ね、だから言ったでしょ。神さまだって!」
「ありがたいことに、助けてもらったみたいだな。どうか、村まで来てくれんか。礼のひとつもしたい」
「……そうだな。腹も減ったし、遠慮なく寄らせてもらおう」
言いながら、俺はふと自分の腹を撫でた。
そういえば、朝から何も食べていない。
「……神さま、お腹鳴った?」
「……黙っててくれ」
こうして、俺――パンダ(元・冴えないオジサン)は、森の中の小さな村へと招かれることになった。
***
村に着くと、さらに大勢の村人たちが集まってきた。
「でっけえ……」「ふさふさだ……」「おい、しゃべるってほんとかよ!?」
触らせてくれと子どもたちが群がり、女たちは「まあ立派な背中!」と黄色い声をあげる。
なんだこれは。アイドルか、俺は。
人生50年、誰かにここまで囲まれたことなどなかった。あれよあれよという間に、広場にござが敷かれ、大鍋に入ったシチューとパンが振る舞われた。
俺専用のデカい器に、村の子どもたちが「どうぞ」とよそってくれる。
「いただきます」
口に運ぶと、ほっこりとした野菜とハーブの香りが広がる。
「……うまいな」
自然と、口元が緩む。俺の顔の緩みなど誰も見たくないだろうが、リオナだけはじっとこちらを見て、にこにことしていた。
「ねえ神さま、村に住まない? 森は獣がたくさんいて危ないし、ここならおうちもあるよ!」
「家って……俺、サイズ的に入れるのか?」
「わたしのおばあちゃんの納屋、いま空いてるよ!」
「いや、それはたぶん、家じゃない」
笑い声が上がる。リオナが小さな手でパンのかけらをちぎり、俺の方に差し出した。
「これ、あげる!半分こ」
「……ありがとよ」
その時、胸の奥がふっとあたたかくなるのを感じた。
俺は今、パンダだ。
だけど、どこかで失くした“人の温もり”を、もう一度拾い集めている気がした。
――ああ、悪くない。
この村で、少しの間“神様”でも“パンダ”でもやってみるか。
そう思いながら、ふたたびパンを口に運んだ。
***
夜が深まり、村には静けさが戻っていた。
シチューを食べ終えたリオナは、隣でうとうとと舟を漕ぎ始めていた。
村長の家の縁側で、俺は丸くなっている。夜風がほんのりと冷たく、背中に乗せたリオナのぬくもりが心地いい。
「……このまま朝までこうしててもいいかもな」
ぼそりと呟いた声が、誰にも届かない夜に溶けた。
そのときだった。
――「グオオォォォオ……ッ!!」
地の底から響くような、唸り声。
背筋がぞわりと粟立つ。俺だけじゃない。縁側でぴくりと動いたリオナが、目を覚ました。
「……なに、今の……?」
「リオナ、後ろに下がってろ」
俺は彼女をそっと地面に下ろし、立ち上がった。
村の奥――森の入り口の方から、異様な気配がする。
「……来たな」
声をかける間もなく、村人たちが飛び起き、あちこちの戸が音を立てて開かれる。
「魔獣だ! 森の方角から来るぞ!」
村の若者たちが、慌てて槍を手に走り出す。だが、動揺は隠せない。誰も、本気で“来る”とは思っていなかったのだ。
「……逃げろ、リオナ。母屋の奥へ」
「でも、パンダさま……!」
俺はゆっくりと首を振る。
「大丈夫。俺に任せとけ」
その言葉にリオナは目を見開いたが、小さくうなずき、母屋の中へと駆けていった。
再び、森の中からうねるような咆哮。
そして、現れたのは……
「……でっかい、イノシシ……?」
だが、ただのイノシシではない。
身体は小型の馬ほどもあり、全身が黒い鎧のような毛に覆われている。目は赤く光り、鼻先からは毒のような湯気を立ち上らせていた。
「“黒牙の魔獣”だ……」村長が息をのんでつぶやく。
「十年前にも現れた……あれが、妻と息子夫婦を―」
俺は静かに一歩踏み出した。
「……まかしとけよ、村長」
「なに……?」
「娘さん……いや、孫娘か。シチューの礼もまだだ。恩は、もらった分は返す主義でね」
言いながら、俺は前足をゆっくりと上げた。どっしりと地面を踏みしめる。
ああ、なんだか懐かしい。この感じ。
かつて満員電車で子ども連れに席を譲ったときのことを思い出す。
別にヒーローになりたいわけじゃない。ただ、目の前で泣いてる誰かを放っておけないだけだ。
黒い魔獣が、突進してくる。
地響きが走る。村人たちが叫び声をあげて逃げる。こどもが1人転び、そこに魔獣が迫る。
俺は、こどもを背に、構えを取った。
――次の瞬間。
「――おう、遅いぞ」
ごつん。
俺の前足が、魔獣の顔面にクリーンヒットした。
衝撃音とともに、魔獣はごろんと横転し、そのまま畑に突っ込んでいった。
沈黙。
俺は、ぴしっと指先ならぬ爪を鳴らした。
「やれやれ……森を荒らすんじゃねぇよ。迷惑だろうが」
村人たちが、ぽかんと俺を見ている。
リオナが、家の影から顔を出していた。
「……かっこいい」
その声が聞こえて、俺は少しだけ照れくさくなる。
だが、魔獣はまだ終わっていなかった。
呻きながら立ち上がり、突進してくる。
俺は今度は横に跳び、背中を預けるように地面を転がり――腹で受け止めた。
「ふぐっ……お、おぉぉおぉ……!」
村人たちが叫ぶ。リオナが叫ぶ。
だが、次の瞬間。
――俺の身体の重みと丸みで、魔獣はまたしてもすっぽ抜けるように転がり、そのまま逃げ去っていった。
「……ああ」
村が、静かになった。
「やっぱりパンダって、丸くて強いな」
誰かがぽつりと呟いた。
気づけば、俺のまわりに人が集まっている。
子どもたちは無邪気に笑い、老人は涙をこぼし、若者たちは俺を囲んで拍手をしていた。
リオナが俺のもとに走ってくる。
「パンダさん! すごい! すごいよ!」
「……まぁな」
俺はごろんと転がりながら言った。
「これでも、伊達に50年、生きてきたわけじゃねぇからな」
リオナが、ふわりと俺の背に手を伸ばし、そのまましがみつく。
「やっぱり……あったかい」
そう言って、今度は背中によじ登る。
「神様でも勇者でもないけど……」
「うん、でも――わたしには、世界でいちばんかっこいいパンダだよ」
俺の腹の奥が、じんわりと温かくなる。
不思議だ。さっきまでの戦いの緊張が、ふっと溶けていく。
村の夜空は、星でいっぱいだった。
誰かに必要とされるって、こんなにも心地いいんだな。
――転生してよかったかもな。
そんなことを思いながら、俺はリオナを背に、星空の下を歩き始めた。
パンダの足取りは重く、しかし、どこか頼もしく響いていた。