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8話 今夜も誤解されそうです


 歌劇『妖精王と花乙女』は公演が年に一度、しかもたったの二週間しか上演されないとあって、毎年発売と同時にチケットが即完売してしまうほどの人気ぶりだ。特に最終日の最終上演時間のチケットは競争率が高く、金に糸目を付けない上流貴族や羽振りの良い商人でも簡単には入手できないと聞く。


 そんな希少性の高い歌劇のチケットをイリスが手にできた理由は、ひとえに友人のおかげである。イリスの貴族学院時代からの友人ユリア=フロイドの父フロイド侯爵が、この歌劇場のオーナーなのである。


「ミシェル? ……ユリア?」


 もう一人の友人ミシェル=リーゼンバーグ伯爵令嬢と三人で『妖精王と花乙女』の舞台を見に来たイリスだったが、フロイド歌劇場の入り口ホール付近で困ったことが起こった。


(は、はぐれてしまいました……! まだ入場したばかりなのに……!)


 迷子になったのである。おそらく、イリス一人だけが。 


 入場確認の際に切り離したチケットの半券を大事にしまっておこうと、ポシェットを開けている場合ではなかった。ほんの数秒下を向いていただけで一緒にいたはずのミシェルとユリアとはぐれてしまうのなら、チケットをしまうのは席についた後にすれば良かった――なんて今さら後悔しても遅いのだけれど。


(やはりクロムウェル家の執事を連れてくるべきだったでしょうか……)


 今夜のフロイド歌劇場が年に一度の大混雑になることは、予想できていた。だから今夜三人に付き添う執事と護衛の騎士、往復の馬車の手配は、リーゼンバーグ家に一任することとなっていた。混雑の中でぞろぞろと付き人を付き従えなくてもいいようにと三人で話し合ってそう決めたのに、まさかイリス一人だけがはぐれてしまうなんて。


(どうしましょう……)


 今夜は他者の目を気にすることなく三人だけで楽しめるように、とバルコニーの個室席を用意してもらった。チケットの半券には席番号が記されている。大きい歌劇場ではあるがバルコニーの席数はそう多くないので、イリスの力でも探せば辿り着けるはずだ。


 だが迷子になったときは、極力その場から動かない方がいいようにも思う。一般的に、迷子になってはぐれた相手を探すときは、まずは見失った元の場所まで戻って存在を確かめるからだ。


 とはいえ今夜のフロイド歌劇場のホワイエは、ただ立っているだけですれ違う人と肩や背中がぶつかるほどの混雑ぶりである。ここで友人たち、あるいは同伴した執事や護衛騎士が迎えにくるのをただ待つよりも、イリスが自らバルコニー席へ向かった方が早く合流できるかもしれない、とも考える。


 さらなる迷子になってしまう可能性もある。だが向かうべき場所は決まっているのだ。ならば、と覚悟を決めて一歩を踏み出す。


 ――その瞬間、後ろから誰かに声をかけられた。


「イリス=クロムウェル嬢?」

「!」


 声の主は明らかにミシェルやユリアではなかった。だが相手はイリスの顔と名前を知った上で話しかけてきたのだ。ならば聞かないふりをして立ち去るわけにもいかない。


 相手の声が男性のものだったので、内心嫌な予感を覚えながらもゆっくりと振り返る。だがすぐに、軽率に反応して振り向いてしまったことを後悔した。


 身体が、緊張に強張る。


「ミハエルさま……エリックさま。ごきげんよう」

「久しぶりだな」

「学院卒業以来かな?」


 イリスの背後に立っていたのは、レティード公爵家の長男・ミハエル=レティードとハイルディン伯爵家の三男・エリック=ハイルディンだった。半年ぶりに会う彼らは王立中央貴族学院時代の同級生、イリスの元クラスメートだった。


 ただしイリスはこの二人とはさほど仲が良くない。親しくしたいとも思っていない。正直、会いたくはなかった。


 自分でも失礼なことを考えていると思う。だがこの二人はイリスに悪い噂が立った際に、ひどい言葉でイリスをからかい、面白がって積極的に噂を広めた人たちだ。イリスの悪い噂が未だに消えない原因は、この二人のせいと言っても過言ではないほど。


 この二人には関わりたくない。だが無視するわけにもいかない。特にミハエルはレティード公爵家の長男で、歴史ある家系を辿れば祖は王室に辿り着くという、由緒正しく高貴な存在だ。あまり無下にもできないだろう。


 とはいえ、相手が誰であっても挨拶以上の話に長々と付き合うつもりはない。今頃ミシェルとユリアがイリスを探しているかもしれないのだ。


「イリス嬢は、今夜は一人で歌劇を観に来たの?」


 エリックが穏やかな口調で問いかけてくる。話し方と物腰こそやわらかいが、女性との距離を急に詰めてくるのがこのエリックという青年だ。


 相変わらずの距離の近さに身構え、作り笑いを浮かべながらそろりと一歩後退する。だが手を横に振りつつも、彼の問いかけに答えるのも忘れてはいけない。答えなければ、いつまでもこの二人から逃げられないと知っているからだ。


「いいえ、本日はミシェ――」

「そんなわけないだろ、エリック。〝イリス=クロムウェル嬢〟だぞ?」


 エリックの質問に答えようとすると、やりとりを聞いていたミハエルがにやにやと笑みを浮かべながらイリスの返答を遮った。その意味ありげな言い回しに、目には見えない悪意が含まれているように感じてつい黙り込んでしまう。どうやら彼らは卒業から半年が経過した今でも、イリスを心無い言葉でからかいたいらしい。


 あまりの幼稚ぶりに呆れたせいか、次の言葉が紡げない。イリスが困惑のまま立ち尽くしていると、エリックがまた一歩傍に寄ってイリスの顔を覗き込んできた。


「観劇なら、僕たちと一緒にどう?」

「……え?」

「ああ、そうだな。話題のロマンス歌劇だっていうから鑑賞にきてやったが、どうせ男二人じゃ盛り上がらない」

「そうそう。せっかく会えたイリス嬢と『仲良く』観たいな」


 ミハエルとエリックから交互に誘い文句を重ねられる。矢継ぎ早に告げられる提案に、さらに困惑してしまう。


 だが彼らの事情を知ったところで、イリスの答えは変わらない。今夜は仲の良い友人であるミシェルとユリアと一緒に、ずっと心待ちにしていた歌劇を楽しむためにここへやってきたのだ。


「せっかくのお誘いですが、ご遠慮させてくださいませ。今夜は、友人たちと楽しむつもりです」


 イリスがきっぱりと宣言すると、ミハエルとエリックが少し驚いたように目を見開いた。昔から大人しく目立たない性格のイリスだったので、まさか誘いを断られるとは思ってもいなかったのだろう。


 だがイリスは自分が嫌だと思うことをそのまま受け入れるようなことはしない。これまでだって嫌なことは嫌だと態度に示してきた。当然、不快な誘いを受け入れたことなんて一度もなかった。


 ただ下手に反論した結果、不名誉な噂がさらに悪化することだけは恐れていた。それゆえ拒絶の言葉を明確に口にすることも少なく、大抵の場合はやんわりと断ってその場から離れたり、意地悪な人は最初から避けることが多かった。イリスはとにかく、目立たないようにと必死だったのだ。


 これからもそうやって過ごしていくのだと思っていた。けれど最近のイリスは、少しだけ考え方が変わりつつある。


(ブルーノさまのおかげで、少しずつ気持ちが前向きになってきました)


 今までは家族と親しい友人以外には信じてもらえなかった。目が合っただけなのにイリスの方から誘惑した、落とし物を拾っただけなのにイリスが色目を使ったと言われ、愛人令嬢の呪縛から逃れられずにいた。


 だがブルーノがイリスの話に耳を傾け、苦しみと悲しみを理解し、イリスの言葉を信じてくれた。噂を払拭するために恋人役になると言って、力を貸してくれた。それだけでも十分ありがたいと思うのに、彼はイリス自身の能力を見つけ出して役割と正当な報酬を与えてくれる。


 イリスに〝価値〟を与えてくれたのだ。


 ブルーノのおかげで前を向ける。彼の期待に応えたいと思い始めている。


(なのにここでまた変な噂になってしまうなんて、絶対に嫌です……!)


 だからこそ、ここで悪い噂を再燃させるようなことはしたくない。たとえ期間限定の偽りの恋人であっても、ブルーノと協力して築いている今の関係を台無しにされたくない。彼の優しさに救われたこの気持ちをへし折られたくない。イリスの中に芽生え始めたあたたかい感情を、摘まれたくない。


 そう思うからこそ、はっきりと拒否の言葉を口にしたのに。


「友人たち? ってことは、今夜の相手は一人じゃないのか」

「……。……え?」


 ミハエルがにやりと笑いながら告げてきた言葉をすんなりと理解できず、一瞬反応が遅れる。


 だが数秒経過してから、彼のあり得ない勘違いに気づく。


(な、なんという誤解を……!)


 ミハエルはイリスが口にした『今夜は、友人たちと楽しむつもりです』という台詞を、『今夜は複数の男性を相手にする』と読み取ったらしい。


 そんなはずはない。そんなこと、あり得るわけがないのに。


「違います! 今夜はミシェルとユリアと三人で参りました。本日は女性だけで観劇の予定です!」


 喉で笑うミハエルの視線を払いのけるように、首を振って否定する。


 自分でもむきになって反論しても意味がないこと、必死になればなるほど状況が悪化することは理解している。


 だからこそこれまでは目立たず大人しく過ごしてきた。心をぎゅっと掴まれるような苦しい気持ちになっても涙を堪え、自分だけではなく家族や世話になっている人々を馬鹿にされても悔しい感情を押し殺し、必死に聞かないふりをしてきた。


 けれど今夜のイリスには余裕がなかった。迷子になった不安や早くミシェルとユリアに合流したいと焦る気持ちもあってか、怒りと悔しさを我慢できなかった。それが上品で淑やかな貴族令嬢に似つかわしくないと理解していても、反論せずにはいられなかった。


 だがミハエルとエリックは、イリスのささやかな抵抗すら平然と踏みつけていく。男性であることの力の差、そして二対一という数の差を利用して、イリスの逃げ道を奪おうとする。


「えー? ミシェル=リーゼンバーグ嬢とユリア=フロイド嬢? どこにもいないけど?」

「イリスは、友人の名前を勝手に使うことにも抵抗がないんだな。イケナイ子だ」

「なっ……!?」


 エリックのにこにこと人懐こい笑みとミハエルのにやりと不敵な笑みが、イリスをじりじりと追い詰めてくる。その表情に背中が震えて足が竦む。


(どうしてそうなるのですか……っ!)


 ミハエルとエリックはなんとしてもイリスを『愛人令嬢』に仕立て上げたいらしい。ただはぐれて迷子になったという事実を訴えているだけなのに、二人の姿が見えないからといって、イリスが友人の名前を使って嘘をついていると言う。それを悪いことだと思っていない、と決めつけてくる。


 勝手なことを仰らないでください、とさらに反論しようとした。だが声を出すために息を吸おうとした直前で、ハッと我に返る。


 嫌な予感を感じてそろりと視線を横に向けると、フロイド歌劇場内にいる人々がこちらの様子をちらちらと窺っていることに気がついた。


(……! このままでは、人目を集めてしまいます……!)


 フロイド歌劇場は『妖精王と花乙女』の最終公演を観劇にきた人々で溢れかえっている。歌劇愛好家や名のある貴族だけではなく、高い競争率を勝ち抜いて幸運のチケットを手に入れた一般市民も多数ひしめいている。この人の多さの中で目立つことは避けたい。


 ミハエルとエリックへの説得なんて、きっと意味がないのだろう。何を言っても自分たちに都合のいいようにしか解釈しない人たちなのだ。ならばやはり友人たちやリーゼンバーグ家の迎えなど待たず、今すぐここを離れて自分の足で席へ向かうべきだ。このままここにいても、状況は悪化する一方だとわかりきっている。


 そう考えてくるりと踵を返すと、その場を去ろうと走り出す。


 しかしそんなイリスの行動は二人の手に簡単に妨げられた。


「おい、待てよイリス!」

「なんで逃げるの?」


 男性であるミハエルとエリックの二人に対して、女性のイリスは一人だけだ。武術に覚えがあるわけでも、特別に足が速いわけでもない。一人に腕を掴まれ一人に退路を塞がれると、逃げ道なんて簡単になくなってしまう。こうなるとイリスには言葉以外に抵抗の術がない。



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