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7話 苦い思い出話です


「学院内で私とルークさまがお話しているところを見かけたのでしょう。リナリアさまの怒りが、突然限界を迎えてしまいました」


 何の疑いもなくルークと挨拶を交わしていたところに、リナリア=ジェニファーがつかつかと歩み寄ってきて、急に頬を叩かれた。 『あなたのせいよ!』『あなたがルークさまを誘惑してるんでしょう!』――引っ叩かれたことすら上手く理解できずに呆然とするイリスに、リナリアはそんな暴言を浴びせてきた。


「とても怒られました」

「……。……言葉を選んだな?」

「……思い出すのも怖いお顔だったのです」


 ブルーノにあまり詳細な状況を聞かせたくなったのもある。だがそれよりも、イリスにはあの日のリナリアの怒りを思い出したくないという気持ちが強かった。激昂した彼女の顔は、それほど怖かったのだ。


 しかしイリスにとっての最大の問題は、リナリアの憤怒ではない。その後に続いた、ルークの言動の方がよほど大きな問題だった。


「きっとルークさまも驚かれたのだと思います。ですがそこで『家族ぐるみの付き合いがあるんだから仕方がない』と口にしてしまうとは……」


 イリスとルークがリナリアに不快感を抱かせてしまったのは、紛れもない事実だ。ならばそこは素直に謝罪して、しっかりと釈明すべきだったと思う。そうすればリナリアの怒りも収まっていたかもしれない。


 けれど一切の悪気がなかったルークは、リナリアの神経を逆撫でするような言い訳をしてしまった。約束を忘れた自分が悪いのではない、アーロッド侯爵家とクロムウェル伯爵家の家族ぐるみの付き合いを優先して何が悪い、約束よりも家族たちと過ごす時間の方が楽しい、と口走ってしまったのである。


「さらに『父さんだってイリスを可愛がっている』と不要な一言を付け加えてしまい……」

「……」


 ルークの失言はそれだけに留まらなかった。あろうことかルークは、『アーロッド侯爵がイリス嬢を特別扱いしている』と思われてもおかしくない言葉を重ねてしまった。これにはイリスはもちろんのこと、言われたリナリアも、何事かと遠巻きに様子を見ていた者たちも、目をまん丸にして驚いた。


 話を聞いたブルーノも両膝の上に肘を乗せ、組んだ手に額をつけてがっくりと項垂れている。頭の痛い話だろう。この発言がもし自分の身内や部下によるものだったら、と思うと、頭痛で頭が割れてもおかしくないぐらいの不適切発言だ。


「ルークさまとリナリアさまはその場で大喧嘩、後におふたりの婚約は破談になり、『イリス=クロムウェル伯爵令嬢はアーロッド侯爵親子とふしだらな関係にある』という噂だけが残りました」


 リナリアが父に泣きついたことで学院内での大喧嘩が発覚し、すぐにジェニファー侯爵からアーロッド侯爵に破談の申し入れがあった。元凶となったルークは自分に責任があるとは思ってもおらず、『イリスに暴力を振るうような女はごめんだ』とリナリアへの謝罪と釈明を拒否したため、ルークとリナリアの婚約は正式に破談となった。


 アーロッド侯爵は常識人のため、イリスとクロムウェル伯爵家にも謝罪を重ねてくれた。アーロッド侯爵夫人もおっとりした優しい女性ゆえ、イリスを疑ったり怒ったりすることはなく、むしろ「ルークのせいで申し訳ないことをしたわ」と頭を下げてくれた。


 そこから半年ほどの間、社交界は『イリス=クロムウェル伯爵令嬢はアーロッド侯爵親子とふしだらな関係にある』という噂で持ちきりになった。だがアーロッド侯爵の人柄の良さに加え、息子のルークが隣国に留学したことでルファーレの社交界入りを果たさなかったためか、いつしか噂の中からアーロッド家の名前が薄れていった。その結果、イリスの不名誉な噂だけがぽつんと置き去りになってしまったのだ。


「それからは事あるごとに、イリス=クロムウェルは誰の愛人だ、誰とこっそり会っていた、別の誰とも秘密の関係にある、と身に覚えのない噂をされるようになってしまって……」


 アーロッド侯爵はイリスの噂を耳にするたびにきっぱりと否定してくれているが、ハロルドは『一度噂になった本人が躍起になって否定すれば、火に油を注ぐ結果になりますよ。イリスのことは気にしなくて大丈夫ですから』と諭しているという。


 イリスも父の判断に異論はない。クロムウェル家はいつもアーロッド家に世話になっているし、伯爵家よりも爵位階級が高い侯爵家の顔を立てなければならないことも理解している。もちろんアーロッド侯爵に落ち度がないこともよくわかっている。


 だがイリスとハロルドの訂正と説明だけでは、もうこの噂を消すことが不可能だということにも気づいている。否、イリスが社交界にデビューしてからのこの半年間は、以前より状況が悪化した気がしている。


 イリスの友人たちいわく、イリスの容姿には噂の信憑性を増す特徴が多いらしい。それゆえ不名誉な噂を耳にした人は皆、面白おかしくイリスを『誰かの愛人』にしたがるのだ。身に覚えのない噂に振り回されている方の身にもなってほしいと思うのに。


「大変だったな」


 顔を上げてブルーノの目を見ると、惨めで情けない気持ちになってしまうかと思った。だがイリスの嘆きを聞いたブルーノが労うような言葉をかけてくれたので、実際に彼と視線が合うと、むしろ悲しみは薄れていって気持ちが楽になる気がした。


 秋のそよ風が落ち葉をくるくると躍らせる。イリスの頬を撫でるように通り過ぎる涼しい温度と香りが、再び火照り始めた肌に心地良かった。


「ブルーノさまは、私のお話を信じてくださるのですね」

「ああ、もちろん」


 コートとワンピースの下でどきどきと高鳴る心音を聞きながら問いかける。


 聞かれたときは少し困った。話し出すときは不安な気持ちも抱いていた。


 だがイリスの問いかけをはっきりと肯定してくれる声は、無意識にほっとするほどに力強い。


「君が噂通りの人ではないことも、俺に嘘の説明をしていないことも、話せばすぐにわかった」


 ブルーノの確認にこくりと頷く。イリスに纏わりつく噂はすべて身に覚えのない偽物で、ブルーノに告げた説明はすべて本当だ。


「むしろ確証もない話を大勢の前に晒す行為や、イリスの説明に耳を貸さず一方的に糾弾する行動の方が、理解に苦しむ。俺はウォーリー伯爵令息やセルデン子爵令嬢のようなやり方は、嫌いだ」


 数週間前の夜会での出来事を思い出したのだろう。腕を組んで不服そうな表情を見せるブルーノの横顔に、思わず小さな笑みを零してしまう。


 王太子の生誕祝いという大事な夜会が台無しになるかもしれなかったことを考えれば、ブルーノとしても肝が冷えた出来事だったと思う。しかしイリスとしてはもう済んだ話だ。それにブルーノが代わりに怒ってくれたので、悲しみや落胆の気持ちもそれほど大きくは残っていない。


「ありがとうございます」

「ん?」

「ブルーノさまが、人を見た目や噂で判断しない方で助かりました」


 イリスが照れ隠しのように呟くと、今度はブルーノが笑みを零した。


「人を見た目や噂だけで判断するようでは、一国の宰相は務まらないぞ」

「……さようでございますね」


 ブルーノの言う通りだ。ルファーレ王国の頂点に君臨するのは言うまでもなく国王陛下だが、宰相という存在はその為政者と同じぐらいに高い知性と統率力を持たねばならない。否、表立って自身の訴えを示す機会が少なく、民衆から強い支持を得られるわけでもないことを考えれば、王族よりも乗り越えなくてはならない障害が多いとも言える。


 己の中に明確な指針を持ち、どんな事態や状況でも自分自身で判断して対処し、曲者ぞろいの貴族たちを相手取らなければいけない。自分の決定を信じる強い心、自分の力で道を切り拓いていく勇気も必要なのだ。


 それらを兼ね備えた宰相・ブルーノ=マスグレイヴが、外見や外観だけで価値を決めるはずがない。彼の優れた判断力と観察眼の前では、嘘も見栄も通用しないだろう。


(ブルーノさまに嘘をついても、きっとすぐバレてしまいますね……)


 もちろん悪質な嘘をつくつもりはないが、些細な隠し事などすぐに見抜かれてしまうのだろう、と思う。これは気をつけなければ……と気を引き締め直すイリスの耳に、ふと意外な台詞が届いた。


「まあ、確かにイリスは可愛いからな。愛でたい気持ちがわからないわけでもないが……」


 腕を組んで自身の顎を撫でながら、ぶつぶつと独り言を零しているブルーノにイリスの空気が止まる。ぱちぱちと瞬きをして、彼の横顔を凝視してしまう。 


「……ブルーノさま?」

「ん?」


 イリスが声をかけると、ブルーノがこちらに振り向く。


 目が合う。

 少し遅れて、ブルーノの動きも止まる。


 変な笑顔のまま固まってしまった気がする。だが表情の戻し方がわからなくて、代わりに背中に妙な汗をかく。鏡がないので見えないが、顔も赤くなっている気がする。


「……。……すまない。今のは忘れてくれ」


 ブルーノも自分の発言と、それをイリスが聞いていたことに気づいたのだろう。ぱ、と指先で口を押さえてそっぽを向かれたが、爽やかに整えられた灰銀の髪の中で耳が赤く染まっているのが見えた。


 そのまま互いに別の方向へ視線を向けて黙り込んでいると、目の前の生垣がガサガサと音を立てて激しく揺れ始めた。よく見ると低木の一部に切れ込みが入れられており、それに気づくと同時に生垣の一部が横にずれて、奥から泥と葉っぱにまみれた一人の中年男性が現れた。


「!」


 庭に住む妖精かなにかかと思ったが、なんてことはない。現れた男性は、ルファーレ王宮の庭園を管理する庭師の一人だった。


 目が合った瞬間に会釈をされたのでイリスも普通に挨拶を返そうとしたが、声を発する直前で男性がびくっと激しく飛び上がった。

 

「さ、宰相閣下……!?」


 庭師の男性は、イリスの隣に座る人物が宰相・ブルーノ=マスグレイヴだとは、想像もしていなかったのだろう。仰天して目を見開き口をぱくぱくと動かす男性に、ブルーノが怪訝な顔をする。


「? なぜそこまで驚く……?」

(……いえ、驚くと思いますよ……)


 驚くに決まっている。同じ王宮の敷地内に勤めているとはいえ、ブルーノは雲の上の存在ともいうべき〝宰相閣下〟だ。普段は執務室から出ることがなく、先ほど自分でも『王宮庭園にはほとんど入ったことがない』と言っていた。


 そんなブルーノが突然庭園に現れれば、それは庭師も驚くはずである。男性にしてみれば、彼の方こそ希少性の高い妖精級の存在と感じているに違いない。


「いえ、その……! し、失礼いたしましたっ!」


 そしてその妖精宰相・ブルーノ=マスグレイヴは、普段の表情は限りなく無に近く、黙っているとどうしても冷たい印象を受けてしまう。低い声で話しかけられれば、怒っている、もしくは怒られそうだと感じてしまうのも無理はない。手にした作業道具をがしゃがしゃと鳴らしつつ一目散にレンガの小道を走り去っていく男性の姿を見ると、彼にもブルーノにも少しだけ同情してしまう。


 次にあの庭師の男性に会う機会があったら『ブルーノさまは怒っていないのですよ』と説明してみよう――と悠長に考えている場合ではなく。


「! み、見られてしまいました……っ!」


 少し遅れて、彼が驚いた理由が単に『ブルーノに会ったから』だけではないと思い至る。


 そう、彼は見てしまったのだ。愛人令嬢と呼ばれるイリス=クロムウェルと堅物宰相と呼ばれるブルーノ=マスグレイヴが、庭園内のベンチに並んで座る場面を。――〝密会〟のシーンを。


 もちろん、悪いことをしているわけではない。自分たちは仕事の合間に休憩がてら散歩に出てきただけ。決して人目を忍んで逢瀬をしているわけではないのだが、高い木々や生垣に囲まれた人目につきにくい場所に並んで座っていれば、目撃した人は『秘密の逢瀬をしている』と思うだろう。これではまた誤解されてしまう……!


「イリスもどうして慌てるんだ?」

「だって、また噂になったら……!」


 呑気に問いかけてくるブルーノにがばっと振り返る。


 彼にも、ぼんやりしている場合ではない、早く訂正しに行きましょう……と訴えようとして、はたと気づく。


「あ……噂になってもよいのでしたね……」


 はっとした表情のまま固まっていると、ブルーノがふは、と吹き出した。


「はは、あはは……! なんだ、忘れてたのか?」

「……忘れておりました」


 大笑いしながら訊ねられたので、恥じ入りながら小さな声で答える。


 そうだ。無意識にトラブルを回避しようとするくせ、不名誉な噂を訂正しなければという考えが染みついているせいか、頭からすっかりと抜け落ちていた。


 今のイリスとブルーノは、恋人同士の真剣なお付き合いをしている――ということになっている。イリスとしても、ブルーノとしても、対外的には見られてもまったく困らない関係にある。イリスはもちろんブルーノも未婚なので『愛人』にはならないし、もし噂になって誰かに何かを聞かれたときは『違います、付き合っているのです』と答えればいいだけなのだ。


 ブルーノはむしろ、交際の噂はどんどん広がるべきだと言う。それどころか、ここ最近は相手から訊ねられるためにわざと見られやすい状況を作っている節すらある。


 今日の散歩はイリスから誘ったが、仕事の日に王宮のエントランスまでイリスを迎えにきてくれることや、仕事中は部屋の扉を開けっぱなしにしておくところなどが、そのいい例だ。いわく、自ら吹聴するよりも自然な姿を垣間見た方が信憑性が増す、という考えらしい。


(なんだか、新鮮な気持ちです……)


 今までのイリスは誰かと噂になることを恐れるあまり、過剰なほど人目ばかり気にしていた。極力目立たないよう行動範囲を狭め、社交の場では父や友人の傍を離れられなかった。普段も大人しく過ごす以外の選択肢がなく、噂の的にならないよう行動することにとにかく必死だった。


 だから異性と二人きりでいるところを見られても気にしなくていいというブルーノとのこの関係は、イリスの中に新しい感情をもたらした。


 この気持ちの名前は、イリスにはまだわからないけれど――


「さてと、イリスは帰る時間だな。俺もそろそろ戻るとしよう」

「あ、はい……」


 そうこうしているうちにかなりの時間が経過していたらしい。ほんの少し外を歩くだけのつもりだったのに、話が長くなりすぎてしまった。


 忙しいブルーノを長時間拘束してしまったことに申し訳なさを覚えたが、立ち上がったブルーノの表情は存外に晴れやかだった。


「イリスの言う通りだな。外の空気を吸うといい気分転換になる。午後も頑張れそうだよ」

「それはよかったです」


 ブルーノが嬉しそうにはにかみながら、イリスに手を差し出してくる。イリスが立ち上がるために手を貸してくれるのだろう。


 黒いグローブをはめた手に自身の指先を乗せると、その手をぎゅっと握られる。だがブルーノがイリスにくれたのは、立ち上がるための支えではなく、別の言葉だった。


「今度は、俺から誘ってもいいか?」

「……はい、ブルーノさま」


 小さな問いかけに、胸の奥がとくんと疼いた気がする。


 ――でもそれは、イリスのただの勘違いかもしれなかった。



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― 新着の感想 ―
宰相閣下も方向違えどかなり配慮に欠けるお方なのでは そもそも半年だけの恋人なんて愛人令嬢の噂が加速する気がします
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