6話 若き宰相はお疲れのようです
「お疲れさまです、イリスさま。本日はこれで終わりになります」
羽ペンをペンレストの上へ置くと同時に、デスクの傍に立ったギルバートに声をかけられた。アッシュブラウンのやわらかそうなくせ髪の下で、木漏れ日のようなライトグリーンの瞳を輝かせて微笑むギルバートに、イリスもそっと笑顔を返した。
「かしこまりました。ありがとうございます、ウォルトンさま」
「いえいえ、お礼を言うのはこちらですよ」
ブルーノの手伝いをすることとなったイリスの今日の作業は、隣国の上流貴族からブルーノの元へ届いた手紙への返信、そしてルファーレ国内で収穫された小麦の品質と収穫量を記した帳簿の整理だった。
どちらも骨の折れる作業ではあるが、イリスとしては特に帳簿の整理が大変だったように思う。なぜならこの帳簿は、ブルーノが宰相に就任した一昨年から去年の間に、ブルーノとギルバートが急拵えで作成したものだからだ。
正式な帳簿は国民の職業と戸籍を管理をする部署、国内で生産された農作物や資源の管理をする部署、税金の管理をする部署のそれぞれに、別の書式で保管されているという。ゆえにブルーノがそれらの情報を引き出そうとすると、帳簿の閲覧のために離れた部署を行き来し、膨大な数字から情報を検索し、三部署のデータを照合して相違がないことを逐一確認する作業が必要となる。
しかしそれでは時間と手間がかかりすぎてしまう。秋の忙しい時期にそんな手間のかかることはしていられない。――そう考えたブルーノとギルバートは、各部署が保有する『細かい帳簿』ではなく、あくまでブルーノが必要とする情報のみをあらかじめ整理して選抜した『おおまかな帳簿』を作成することにした。
必要最小限の情報のみを記した『帳簿』を作成し始めて、今年で三年目。思った通り簡易帳簿は便利だったが、困っていることもあった。
それはただでさえ読みにくい筆跡の二人が走り書きのような状態で書き写したものなので、他人が読んでもまったくわからないこと。ブルーノが記したものに至っては、ギルバートでも解読が困難らしい。そこに今年の情報を足してくれと言われ、正直イリスもかなり困惑した。
『私の字でよければ、書き直しましょうか?』――帳簿を目にした際にうっかり口走ったその一言のせいで、イリスに大量の仕事が与えられることとなった。イリスはなんと、ルファーレ国内で生産されているすべての農作物の簡易帳簿を製作し直す羽目になったのである。
ちなみに、現在はまだコーンとライ麦と小麦の分を書き直し終えただけ。ルファーレ国内で生産されている登録農作物は計百三十六種類に及ぶらしい。途方もない作業に手をかけてしまったものだ。
(ですが、まったく嫌ではありません。むしろ楽しいです……!)
イリス自身も初めて知ったのだが、自分は地道な作業を黙々と続けることがさほど苦手ではないらしい。むしろ少しずつ整っていく帳簿を見ていると、楽しさとやりがいを感じられる。ブルーノとギルバートが毎回のように褒めて喜んでくれるのも嬉しかった。
そんなイリスの作業場所は、宰相執務室に運び込まれた木製の小さなデスクである。デスクはブルーノの仕事の邪魔にならないよう壁際の隅に寄せてもらったが、わからないことがあれば同じ室内にいるブルーノにその都度質問することができる。最初は応接ソファとローテーブルで作業をすることになると思っていたので、イリス専用の環境を作ってもらえたのはありがたい限りだ。
ギルバートが秘書室の書棚へ帳簿を戻すために、宰相執務室を後にしていく。最初から開いているドアの向こうに消えていく姿をぼんやり見つめていると、立ち上がって近づいてきたブルーノに顔を覗き込まれた。
「終わったか?」
「あ、はい」
ブルーノの顔が傍に迫ってきたので、ハッと我に返って身を固くする。
ここ最近のイリスは、週に二~三度の頻度でこの宰相執務室を訪れている。ブルーノの顔もそろそろ見慣れていいはずだが、こうして距離が近づくとやはり少し緊張してしまう。
「ブルーノさまは?」
美貌の宰相閣下の顔は見慣れないが、彼の名前を呼ぶことにはかなり慣れてきたように思う。多少のぎこちなさは残るものの、どうにか名前を呼びつつ質問する。
イリスのデスクの角に腰を預けたブルーノが「そうだな」と呟いた。
「俺もひと休みするか」
「そうしましょう」
共に過ごす時間が増えたことで再確認したが、やはりブルーノの多忙は尋常ではなかった。イリスは朝から昼まで、あるいは昼から夕方までの数時間で仕事を手伝っているが、彼は常に宰相執務室にこもりきりになっているらしい。
ブルーノの元には文官や秘書官がひっきりなしに訪れ、一つの仕事を片付けた矢先に次の仕事が積まれていく。議会に出席するときや王族の誰かに呼びつけられたとき、来客があるときは不在になることもあるが、それ以外は一日のほとんどの時間を宰相執務室で過ごしている。まるでデスクと椅子に縛りつけられているかのようだ。
だから余裕があるときは、少しでも休息を取った方がいいと思う。特に今後は否が応でも仕事をせざる得ない時期になっていくというので、積極的に休憩時間を設けるべきだ。可能であれば部屋の外に出て身体を動かすべきだろう。
「ブルーノさま。本日は暖かいですし、少しだけお散歩に行きませんか?」
「お散歩?」
イリスの誘いにブルーノが首を傾げた。意外だったらしい。
ブルーノの視線が大きな窓の外へ向く。ルファーレ王宮には正門と宮殿の間に大きな庭園があり、雪が降り積もる真冬以外は、常に何らかの植物が咲き誇っている。秋が深まりつつある今の時期でも、庭園に出れば良い気分転換になるはずだ。
「なるほど、散歩か……そういえば何年も王宮に勤めているが、庭園にはほとんど入ったことがないな」
「えっ? それはもったいないですね」
ブルーノは王家主催のガーデンパーティーやお茶会などのイベント時以外、王宮庭園を散策したことがないらしい。ガーデンパーティーは春から夏、お茶会は春と秋にかけて盛んに行われているが、今の時期だって楽しめるものがあるはずだ。
「歩いて外の空気を吸うだけでも、よい気分転換になると思いますよ」
イリスの方からブルーノの顔を覗き込むと、ブルーノがぱちくりと目を見開く。彼の驚いたような表情を見つけたイリスは、すぐにハッとしてブルーノの多忙ぶりを思い出したが、謝罪の言葉を告げる前に小さな笑みを向けられた。
「そうだな、たまには行ってみるか」
美貌の宰相閣下は、散歩に行くと決めたときの表情まできれいである。
◇◆◇
「わぁ……美しい景色ですね……!」
「そうだな、思っていた以上に綺麗だ」
風よけのコートを羽織って秋の王宮庭園に出たイリスとブルーノは、ルビー色とレモン色とオレンジ色の景色にほう、と感嘆の息を漏らした。
レンガ道の両側を彩る低木は燃えるような紅色に染まっている。高木は枝を伸ばして黄色の天蓋を作り、そよ風に揺れてさわさわと優しい音色を奏でている。自然が織りなす落葉風景を楽しむためか、通路の落ち葉はあえてすべて掃いていないのだろう。
美しい色彩の中を並んで進んでいくと、少しひらけた空間に秋の花々が寄せ植えられえた花壇があった。花壇の前にはベンチが設置してあるので、ここでひと休みしよう、と決める。
先へ進めばもっと花の多いエリアもあるし、ゆったりと寛げるガゼボもあるが、今日の目的はあくまで小休憩だ。ならば周囲を生垣に囲われ、ベンチに腰を下ろせば王宮の窓からも姿を見られないこの場所の方が、ブルーノの気も多少は休まるだろう。空気は少し冷たいが、低木と生垣があるので風は十分避けられる。降り注ぐ日差しもやわらかく暖かいので、長時間じゃなければそれほど寒さも感じないはずだ。
「バラは春や夏にしか咲かないと思っていた」
花壇の中に咲くバラを見て、ブルーノがぽつりと呟く。
「そうですね。暖かい季節の方が、咲く品種は多いと思います」
確かに、バラは春から夏の気温が高い時期に咲く品種が多く、色や形の種類も豊富だといえる。だからブルーノも『バラは春から夏』というイメージを抱いているのだと思うが、実は秋にもバラは咲く。
ロゼット咲きの可憐な姿も、ふわりとほのかな甘さを感じる香りも、こっくりとした秋特有の薄紅色や白桃色も、温暖な時期のものに負けないほど美しい。イリスとしては、華やかでありつつ落ち着いた印象の秋バラの方が好ましいと思うぐらいだ。
「バラの他にも、秋に楽しめるお花がたくさんあるのですよ」
「へえ……」
それに秋の彩りはバラだけではない。ダリアやコスモス、ダイヤモンドリリーなんかも今がちょうど見頃で、目の前の寄せ植え花壇の中にも秋色の花々が風に揺られている。
「でも見たことないお花もたくさんありますね。とても美しいです……」
目の前の花壇を見つめて感嘆するイリスだったが、沈黙が降りて数秒後、ふと隣に座ったブルーノがこちらをじっと見つめている気配に気がついた。そっと顔を横に向けると、案の定ブルーノと目が合う。
「? ブルーノさま……?」
「いや、俺はイリスが書きものをしている姿の方が美しいと思うぞ」
さらりと告げられた褒め言葉に驚き、思わず言葉を失ってしまう。目を見て直接褒められたことに照れてしまう。
イリスが仕事を一つ終えるたびに、ブルーノもギルバートも『綺麗な字だ』『上手い』『読みやすい』とイリスを褒めてくれる。だがあれはすべて、イリスが『書いたもの』に対する称賛だ。まさか字を書いているイリスの姿そのものを褒められるとは思ってもいなかったので、つい照れて俯いてしまう。
「あ、ありがとう……ございます」
一応お礼の言葉は伝えるが、イリスは人から『字を書く姿が美しい』と褒められた経験がない。生まれ持ったこの顔についてあれこれ言われることはあるが、姿勢を褒められたのは初めてだ。ブルーノが嘘や冗談を言わない人だということを理解しているので、それが本心だと気づくとさらに恥ずかしくなってしまう。嬉しい気持ちが強すぎて、顔を上げられない。
「正しい字を書くためには、正しい姿勢が大事なのです」
そのまま沈黙すると本格的に何も言えなくなってしまうと感じたイリスは、慌てて次の言葉を探し出した。
イリスの説明に興味を持ったらしいブルーノが、「ほう?」と反応を示す。
「猫背になったり身体が横に反れると文字も歪みます。身体と机の距離が近すぎても遠すぎてもいけません。ペンの持ち方や握る力の強さも書字に影響します」
「そ、そんなに気をつけることがあるのか……」
照れ隠しのためにやや早口で説明すると、ブルーノが苦笑いを零した。
「俺はそれを全部正しても綺麗な字を書ける気がしないけどな」
「え、ええと……あはは……」
自虐というよりは冷静な自己分析のようにも聞こえたが、それでも「そうですね」と返答するわけにはいかない。逡巡した結果「人には得手と不得手がありますので」とはぐらかすと、ブルーノが「そうだな」と微笑んだ。
その笑顔に今度はイリスの方が感心する。
高い爵位を有する者であればあるほど、苦手や弱点を認めず、見栄を張って欠点を隠そうとする傾向が強い。だがブルーノは自身の不得手を嘆くのではなく、すっぱりと認めて、それを得意とする者に信頼して仕事を託す選択ができる人だ。相手の技能や知識量を正確に把握する目と頭脳、そしてその能力を適切に使う判断力と潔さは、ブルーノの美点と言えよう。
「そういえば、ずっと疑問だったんだが」
嬉しさと恥ずかしさで火照っていた頬の熱がようやく引いた頃、秋色の庭園を眺めていたブルーノが別の話題を切り出してきた。
「イリスはどうして、頻繁に『愛人』 の疑惑をかけられるんだ?」
「!」
「実際に不道徳な関係を結んでいるわけじゃないのなら、誤解なんてされないと思うんだが」
夜会の日から約三週間が経過した。期間限定の偽りの恋人になると決めた二人だが、日に日に増していく仕事の忙しさに気を取られ、半年間の約束をして以降『イリスの噂』についてほとんど話題にしていなかった。
噂の『元凶』について訊ねられたイリスが俯いてしまったことに気がついたのだろう。隣のブルーノが、小さく息を呑む音がした。
「すまない、話したくないならいいんだ。気を悪くしたのなら申し訳ない」
「あ、いえ! 違うのです……!」
ブルーノの困惑の声を聞き、慌てて手と首を振る。
突然の質問に驚いただけで、イリスは気分を害されたとは思っていない。むしろブルーノだってずっと気になっていだろうに、イリスが作業の環境に慣れるまでは無理に聞かないよう配慮してくれていたに違いない。彼の優しい一面をまた一つ見つけた気がして、ほっと安堵する。
だからブルーノに事情を打ち明けることにも大きな抵抗は感じない。彼なら、イリスの話をありのまま受け止めてくれる気がした。
「……発端は王立中央貴族学院に在学中の、とある出来事です」
ベンチの上で姿勢を正すと、風に揺られて落ちてくる木の葉を見つめながら、三年ほど前の記憶を手繰り寄せる。あれはまだイリスが学院生だった頃、十五歳のときの話だ。
「実は私、アーロッド侯爵家のご子息であるルーク=アーロッドさまという幼なじみがいるのですが」
王都の中心地に大きな屋敷を構えるアーロッド侯爵も、イリスの父と同じくルファーレ王宮に勤める上流貴族の一人だ。彼は政治の舞台でも発言力と権力を持った実力者だが、性格は温和で優しく、紳士的な男性である。自身には息子ばかりで娘がいないせいか、イリスのことも実の娘のように可愛がってくれている。
そしてその『息子たち』の中で一番年齢が近いのが、イリスの一つ年上の青年・ルーク=アーロッド侯爵次男だった。
「とても気さくで話しやすい方なのですが、少々その……配慮に欠けるところがありまして……」
ルークも父に似て優しく親しみやすい男性だが、困ったことに、彼は相手の顔色やその場の空気を読むのがあまり得意ではなかった。あるいはちゃんと察していても、自分の感情や願望を優先してしまう性質なのかもしれない。
その性格のせいで、ある日イリスに予想もしない『問題』が起きてしまった。
「彼にはジェニファー侯爵家のご息女であるリナリア=ジェニファーさまという婚約者がいました。ですがルークさまは、リナリアさまとの約束よりもクロムウェル家との交流を優先してしまうことが多かったのです」
アーロッド侯爵家の屋敷とクロムウェル伯爵家の邸宅の距離がさほど遠くなかったこともあり、二つの家には昔から家族ぐるみの付き合いがあった。
その両家があまりに親密だったせいだろうか。ルークが婚約者であるリナリアとの約束を忘れて、家族と一緒にクロムウェル家に遊びに来る、という状況が頻回にあったらしい。だがそれは後から聞いた話で、当時のイリスはルークが約束をすっぽかしていることをまったく把握していなかった。自分には関係のない婚約関係にある二人の約束など、イリスは知る由もなかったのだ。