5話 ちょっとした趣味です
イリスの字が読みやすく丁寧なのは、単純に人より書字の練習を重ねてきたからだ。もともと字を書くことは嫌いではなかったが、思春期を迎え自身の容姿が原因でトラブルが頻発するようになってからは、相手に不快な思いをさせた謝罪や誤解を与えた経緯を説明するために、文章を書くことが増えたのだ。
もちろん会って話す機会があれば、わざわざ手紙や説明の文書を書く必要はない。また、人によっては対面での謝罪を求める者もいる。
けれど多くの場合は文章として形に残す方がこちらの訴えが伝わりやすいし、同じ人物と二度目以降のトラブルになる確率も減る。また、直接会うとさらなる誤解を招いて状況が悪化する場合もあるので、イリスは自分の考えを文字にして文章で伝える方法を好んでいた。
そして説得力のある手紙を綴るためには、丁寧な字が必要不可欠だった。
「できるだけきれいな文字を書けるように、たくさん練習いたしました」
「だが君は何もしていないんだろう?」
「もちろんです。ですが謝意と誠意を伝えるためには、乱れた字より整った字の方が心証がよろしいでしょうから」
謝罪や説明の文章にもっとも大事なのは『正しい言葉遣い』と『真心』であって、字の美しさではない。だが文字が乱れていればその正しい言葉と真心が伝わりにくい。だからイリスは、とにかくきれいな字を書けるように練習した。丁寧な文字を綴れるように心がけてきた。
努力の甲斐があってか、手紙を書いてもなお許してもらえなかったり、同じ相手と同じトラブルになったりしたことはない。それがすべて文字を練習したおかげだとは思っていないが、やらないよりはやってよかった努力だと信じている。
そう説明するとブルーノが「そうか」と頷いて柔らかく微笑んでくれる。だからイリスも自然と笑顔を返した。
「それに、字の勉強はとても楽しいのですよ。今も詩集や小説を写本したり、父の代筆をすることもあります」
最初は謝罪や説明のために始めた字の練習や勉強だったが、小さな積み重ねはイリスに意外な効果をもたらした。己の書字と真摯に向き合ううちに、イリスは少しずつ『字を書くこと』が好きになり、次第に『文字の世界』に深い興味を持ち始めたのだ。
「いつの間にか趣味に転じて綴れる書体も増えましたし、飾り文字や隠し文字も書けるようになりました。ルファーレ王国の近隣諸国の言語でしたら、古代文字も含めて複数の書体で書くことができます」
「!?」
『必要だから』という理由が『趣味だから』という理由に変わった途端、イリスの知識と技術は劇的な進化を始めた。
ルファーレ王国の公用語であるルファーレ語の標準書体と筆記書体だけではなく、装飾文字や古代文字、崩し文字や隠し文字といった暗号文字まで、文献を確認しなくてもペンとインクと紙さえあればいつでも自由に書けるようになった。さらに周辺諸国の公用語や複数の国で使われる共通語も、いくつかの書体で綴れるようになった。
自分でも趣味の範疇を超えていると思うが、新しい知識が増えるのは楽しいから、と今では開き直って楽しんでいる。そういえば今朝また、父・ハロルドから代筆の依頼をされたことを思い出しかけたところで、ブルーノが驚愕の声を漏らした。
「待ってくれ……君、今サラッととんでもないことを口にしなかったか……?」
「……え?」
ブルーノが信じられない話を聞いたように瞠目するので、イリスは自分が何か言ってはいけないことを口にしたかと焦った。だがブルーノは、イリスを責めようと思ったわけではないらしく。
「周辺諸国の言語をひと通り読み書きできるってことか? しかも字体を書き分けて、かつきれいな字を書ける!?」
「あ、いえ……あくまで〝丁寧に〟書いているというだけで〝きれいに〟書けているかどうかは自信がなく……」
「きれいに決まってるだろう! もらった手紙の字なんて、教科書かと思うほど整っていたぞ!?」
ブルーノが熱のこもった口調で訴えるので少しだけ驚いてしまう。だがこれは、怒られているのではなく褒められているのだろう。
現在のルファーレ王国の教育機関で利用される教科書は、文字の形に彫った木や石を一文字ずつ並べて組み版を作り、そこにインクを塗って紙を押し付けることで同じ内容のものを大量に刷る『活版印刷』によって製造されたものが主流だ。組み版の文字は専門の職人が丁寧に彫ったものを使っているので、それと同じぐらいにきれいな字だ、というのは、イリスにとって最上の褒め言葉である。
「ありがとうございます」
遠回しだが身に余る褒め言葉に恐縮しつつ礼を言うと、身を乗り出しかけていたブルーノがハッと我に返って、元のソファに腰を落ち着けた。
そのまま腕を組み、丸めた指を自身の唇に当てながら何かをぶつぶつと呟き始める。
ルファーレ王国の頭脳と言うべき宰相・ブルーノ=マスグレイヴが、何か考え事をしている。ならば邪魔すべきではないと考えて気配を消しかけたイリスだったが、意外にもブルーノはすぐにイリスへ声をかけてきた。
「イリスに、提案があるのだが」
再び前屈みになったブルーノが真面目な表情で切り出してきたので、内心『また?』と思ってしまう。
四日前に人生を左右するような提案を示され、それに乗ったばかりだというのに、次は何を言い出すのだろうと身構える。
「週に二、三度で構わない。俺の仕事を手伝ってくれないか?」
「……え?」
ブルーノの二つ目の提案もイリスにとっては予想外のものだった。どうにか声は発するが、今回も理解が追いつかない。
「イリス、俺が返した手紙の字を見て、どう思った?」
「え……ええと……」
直前の提案から急に話題がずれた気がして、一瞬言葉に詰まる。だがブルーノの素早い思考にイリスがついていくのは、最初から無理な話だ。ならばまずは聞かれたことにしっかりと答えるべきだと考え、先日受け取った手紙に綴られた字を思い出す。
真っ白な便箋に並んだ字は罫線に対してサイズが小さく、字そのもののも丸みを帯びていて、可愛らしい印象だった。
「かわい……個性的な字だと思いました」
思ったことをそのまま口にしようとして、途中で慌てて訂正する。
『可愛い』というのは、女性や小さな子ども、小動物に対して使う言葉だ。一応褒め言葉ではあるが、目上の男性に使うべき言葉ではない。
「そうだろう。ギルバートの字は、少し女性的だよな」
「……え」
イリスの感想を聞いたブルーノが納得したように頷く。しかしその後ろについてきたのは、先ほど知り合ったばかりの彼の秘書官の名前だった。
(なるほど、代筆だったのですね)
忙しい人が手の空いている他の人に書面の代筆を依頼することは、さほど珍しいことではない。イリスも父に頼まれて手紙や書付を綴ることがある。
もちろん、父よりもブルーノの方がはるかに多忙であろうことは想像に容易い。一般的には代筆で書いた文章を本人に確認してもらい、最後の署名だけは本人に行ってもらうことが多いので、きっとブルーノも同じなのだろう――と思っていたが。
「俺の普段の字はこうだ」
ソファから立ち上がったブルーノが自身のデスクに近づき、広げられていた書類の中から一枚の紙を拾ってイリスに差し出してくる。それを両手で受け取ったイリスは、視線を落としてしばし沈黙したのち、そっと首を横へ傾けた。
統一感のないインクのにじみや、ぐにゃぐにゃに歪んだ線が多いことから、最初はペン先の状態やインクの色を確認するための〝試し書き〟なのだろうと思った。だが目を凝らしてよく観察すると、歪んだ線の中に数字らしき記号が見え、なくもない……ような気がしてくる。
「? ……? 字?」
「……」
思ったことをそのまま口にするとブルーノがしんと黙り込む。
数秒後、ブルーノの喉と鼻の真ん中あたりから空気が漏れ出る短い音が聞こえてきた。
その反応で直前に『俺の普段の字』と言われていたことを思い出したイリスは、ハッと我に返って手と首をぶんぶん振り回した。
「あっ! 違います、今のはその……! えっと……!」
「いいんだ、とんでもない悪筆なのは自覚している」
ブルーノの苦笑にあわあわと狼狽する。だが結局は言い訳の台詞が出てこない。なんと言っていいのかわからない。
どうやらこの紙は正式な書類とは別の、覚え書きや思考の過程、計算の途中などを走り書きしたものらしい。そのため紙のあちらこちらに統一感もなく字や数が書き散らかされているが、それにしても何が書いているのかまったくわからない。趣味で会得した暗号文字の解読よりも難解だと感じる。
「自分のためのメモ書きなら、自分が理解できればそれでいい。しかし公的な文書でこの文字は困る」
ついに言葉を失ってしまったイリスに苦笑したブルーノが、話の続きを語り始める。受け取った紙から視線を外して顔を上げると、ソファの背もたれに身体を預けたブルーノが、自分の悪癖に困ったようなため息をついた。
「現状、署名以外の文章はほぼギルバートに任せている。だが先に説明した通り、これからの時期は特に多忙になる。あまりあいつに負担もかけられない」
ブルーノは自身の書字を問題なく読めるが、他人にとっては『読みにくい』を通り越して、『読めない』字である。ブルーノ本人もそれを理解している。そのため他人の目に触れる文章や文字は、すべて己の秘書官であるギルバートに任せているという。
だが今秋から来春にかけての忙しい時期は、ギルバートを頼ってばかりもいられない。ブルーノが死ぬほど忙しくなるということは、秘書官のギルバートも相当の多忙を極めるということだ。
「専属の文官を一人寄越すよう政務管理担当に命じているんだが、人選に難航しているらしい。誰も俺と仕事をしたがらないんだろうな」
口には出さないが、適任者が選出できない理由はなんとなく理解できる。
ブルーノは顔立ちが端正に整っている美丈夫だが、表情の変化が少なく相手に冷たい印象を与えがちだ。視線も口調も淡々としていて隙がないので、堅物で怜悧な宰相閣下のイメージが先行し、同じ空間にいるだけで息が詰まりそうだと感じてしまうだろう。イリスも最初は怖いと思っていたし、今も彼の本心を完全に理解しているとは言い難いので、気持ちがわからないわけではない。
だが実際に話してみると、急に怒鳴られたりきつい言葉を投げかけられるわけではないとわかる。ギルバートのように慣れて打ち解けてしまえば、会話をするのも仕事をするのも苦ではないと思うのだけれど。
「だからイリスが嫌じゃなければ、ここで俺の仕事を手伝ってもらえないだろうか」
「えっ……」
「詳細は管理部と相談するが、もちろん報酬も出す」
ブルーノの状況を密かに嘆いていると、急に話題が元に戻ってきた。
そうだ。そういえば彼は、イリスに『仕事を手伝ってくれないか?』と新たな提案を持ちかけられていたのだった。
「私が、宰相閣下のお仕事を……?」
ブルーノの要望は理解した。確かに今の彼の状況を考えると『文字を書くこと』『文書を作成すること』に特化した専属の文官がいるだけで、仕事の効率は飛躍的に上昇するだろう。
なにせ収穫された農作物や水産物の流通、収められた税金の確認、越冬に必要な備蓄や設備の管理はすべて書面で調整され、ブルーノはそのほとんどに携わることとなる。さらに国王夫妻の旅行の準備、祝いごとに関連した贈り物の管理や式典の準備や進行に関わる指示、賓客に送る招待状までブルーノの確認が必要だ。
むろんこれらは相応の担当部署に振り分けられるので、ブルーノがすべて一人で担うわけではない。だが彼がまったく目を通さない案件は一つも存在しない。今後、山のように書類が積まれるであろうブルーノは、その処理を補佐する専任者を欲しているのだ。
彼はその役目を、イリスに担ってほしいという。
「もちろん無理にとは言わない。難しいなら断ってくれて構わないぞ」
「……」
ブルーノがイリスにも回避の道があると示してくれる。
だからイリスは、ブルーノが噂で聞くように冷たい人ではないと理解できる。
彼は相手の都合を考えず、自分の意見を無理に押し通すような人ではない。最初の提案を受けたときから感じていた。彼は本当は、とても優しい人なのだ。
(私が、宰相閣下のお役に立てる……?)
返答を待つブルーノの真剣な表情に、イリスの心が揺れる。
そんなブルーノのために、イリスはなにができるのか。自分は、どうしたいのか。
(私は……)
文字を書くのが好きで得意だと言っても、あくまで趣味の範疇だ。この知識と技能がクロムウェル伯爵家以外の――政治の世界でも通用するのかどうかは、まったく自信がない。自分のわずかな失態がブルーノの仕事の足を引っ張る可能性も、否定はできない。
けれどブルーノの役に立ちたいと思っているのも、イリスの素直な気持ちだ。だから。
「花曜日と空曜日は礼儀作法のお稽古が、月曜日はダンスのレッスンがあるので難しいかもしれませんが、それ以外の曜日であれば……」
膝の上で丸めていた手に、ぎゅっと力を込める。顔を上げて胸を張って、イリスをじっと見つめていたブルーノと正面から見つめ合う。
「宰相閣下の、お役に立ちたいと思います」
「そうか! ありがとうイリス……とても助かる!」
イリスの答えを聞いたブルーノが、ぱっと顔を上げて笑顔を作る。
堅物と噂の宰相閣下だが、優しく笑ったときの表情はとてもきれいだ。
「だが呼び方は間違ってるぞ」
ブルーノが心から喜ぶ姿にしばし見惚れていたイリスだが、ふとブルーノの声のトーンが落ちた。最初のときのような怖い、という印象こそだいぶ薄れてきたが、彼の本心がよくわからないという認識はあまり変わっていない。なぜそこで、面白くなさそうな顔をするのだろう。
だが今のイリスが、どういう返答をすればいいのかはわかる。
「よろしくお願いします、ブルーノさま」
彼の要望を読み取って素直に名を呼ぶと、楽しそうに頷かれる。
その表情を観察しながら、偽りの恋人としてブルーノに会うのは月に一度ほどのつもりだったのに、いつの間にか週に数回ブルーノと顔を合わせることになった……と気づくイリスだった。