4話 呼び出しを受けました
夜会の日から三日後の昼下がり。
クロムウェル邸の自室で本を読んでいたイリスの元に一通の手紙が届いた。
差出人はブルーノ=マスグレイヴ。三日前、イリスの偽りの恋人となった男性だ。
受け取ったメッセージの内容を確認したイリスは、思わず頬を引きつらせてしまう。夜会の翌日にイリスの方から手紙を書いていたので、てっきりその返事がきただけだと思ったのに。
(たったの三日で、呼び出されるなんて……!)
イリスの予想は外れていた。内容を要約すると『時間があるときに、ルファーレ王宮の議会棟にある宰相執務室を訪れてほしい』とのことだった。ご丁寧に『ブルーノの名を出せば宰相執務室まで案内するよう、議会棟の管理部に話を通しておく』とまで綴られている。――断る、という選択肢はなさそうだ。
とはいえ、ブルーノにはイリスの『愛人令嬢』の誤解は解けているのだ。説教をするための呼び出しではないのだろう。ならばここは、素直にブルーノの求めに応じることにする。
「それにしても……」
メイドが届けてくれた手紙をもう一度最初から読んだイリスは、直前までの不安も忘れて、ふふ、と小さな笑みを零した。
「閣下は意外と、可愛らしい字を書かれるのですね」
ブルーノの書く字は、意外にも丸みを帯びていて可愛らしい印象だ。便箋に引かれた罫線に対する文字のサイズも小さく、やや女性的だと感じられる。
筆跡からは堅物宰相閣下のイメージは湧かないですね、と失礼なことを考えつつ、微笑ましい気持ちで手紙を眺めるイリスだった。
◇◆◇
こちらの都合を優先してよいとのことだったので、早いうちにブルーノの元を訪ねることにした。次の手紙に希望の日時を書き添えるとすぐに許可の返事があったため、イリスは翌日、ルファーレ王宮の議会棟にある宰相執務室を訪問した。
「ご機嫌麗しゅうございます、マスグレイヴ宰相閣下」
「ああ、呼び出して悪いな、イリス嬢」
案内された部屋へ入ると、イリスの来訪に気づいたブルーノがデスクから顔を上げて数度頷いた。よどみなく膝を落としたつもりのイリスだったが、疑問の感情は上手に隠せていなかったらしい。視線が合ったブルーノがそっと苦笑いを零す。
「そう不思議そうな顔をするな」
呼び出された理由がわからないイリスの不安と疑問を感じ取ったのだろう。ペン立てに羽ペンを戻したブルーノが小さく肩を竦めた。
「忙しいときこそ、恋人の顔を見たいと思うものだろう」
「!」
軽さを装った口調ではあるが、はっきり『恋人』と口にされて、つい驚いてしまう。
しかしブルーノの発言は、正確には『恋人(という設定)なんだから、会いたいと思う(素振りがないと変)だろう』という意味だ。一瞬どきりとしたけれど、すぐにこれがここまで案内してくれた文官に『聞かせるための台詞』だと気づく。
ちらりと隣に視線を向けてみると、若い男性の文官がぽかんと口を開けて固まっている姿が目に入った。その様子を目の当たりにした途端、イリスの方まで急に恥ずかしくなって、顔が熱く火照ってくる。これがただの演技だと理解しているはずなのに。
「ご苦労だったな。下がっていいぞ」
「かっ……かしこまりました! 失礼いたします!」
ブルーノの指示を受けた男性がハッと我に返る。そのまま勢いよく頭を下げてくるりと背を向けると、一目散に宰相執務室を後にする。
見てはいけないものを見てしまったような反応をされると、今すぐ後を追いかけて訂正したい気持ちになってしまう。だがここで『違います』とは言えないし、言う必要もない。むしろブルーノは、今の彼のような反応がほしくてあえて『恋人の』演技をしたのだ。
「人目を避けて会うとまた誤解を受ける可能性があるからな。あえて仕事中の執務室に呼んだんだ」
案内役の男性が消えていった扉を見つめていると、ブルーノがそう説明してくれる。振り返って彼の表情を確認してみると、夜会の日に会ったときよりも濃い疲労の気色が窺えた。だが声や表情は思いのほか明るく、この状況を面白がって楽しんでいる空気も感じられる。
「いつ誰に覗かれても不都合はないと示すために、扉も開けておこう。寒かったらいつでも閉めるから、遠慮なく教えてくれ」
椅子から立ち上がりながらそう付け加えてくれるブルーノの優しさに安堵する。
ブルーノの提案は、イリスに纏わりつく不名誉な噂と誤解を払拭するための配慮だ。いつ見られても、誰に聞かれても、やましいことは何もしていない。するつもりもない。自分たちは健全な交際関係にある恋人同士だ。――イリスのために周囲にそう示してくれることが、素直に嬉しい。
「かしこまりました。お気遣い頂きありがとうございます」
「気にするな。俺自身のためでもある」
感謝の気持ちを伝えて頭を下げると、ブルーノがくすりと笑みを零した。その気心が知れた友人に向けるような仕草と台詞に、少しだけ緊張が緩む。それと同時に、イリスはここに呼び出された本当の理由をようやく理解した。
(確かに、宰相閣下はお忙しくて恋人らしいことをする時間がありません。ですがまったく会っていないとなると、信憑性に欠けてしまいます……)
ブルーノが恋人役となってイリスの悪いイメージを変える手助けをしてくれるように、イリスも彼の恋人役となって、今のブルーノに結婚相手は必要ない、と示さなければならない。そのためにはわざとらしくなく、あくまで自然な形で自分たちが交際関係にあることを主張していく必要がある。その最初の一歩が『会うこと』だ。
「! ギルバート」
「お待たせして申し訳ございません、ブルーノさま」
考えごとをするイリスの背後でブルーノが扉を開ける。それとほぼ同時にブルーノが急に誰かと会話をし始めたので、ハッと驚いて振り返ってみる。すると扉の前に、一人の男性が立っていた。
「ナイスタイミングです。声をかける前に扉を開けてくださるとは、ありがたいですね」
「別に、お前のために開けたわけじゃないけどな」
取っ手つきの木製プレートを手にした男性がブルーノ相手に軽口を叩く。どうやら手が塞がっていてノックができなかったので、声を出して室内にいるブルーノを呼ぼうとしていた、まさにその瞬間だったらしい。無愛想で堅物と呼ばれるブルーノと親しげに話す男性を見つめていると、イリスと目が合った男性がにこにこと笑顔を浮かべた。
「温かいお茶をお持ちいたしました。イリスさま、どうぞそちらにおかけください」
「あ、ありがとうございます」
イリスに近づきながら猫足のソファへ着座を促してきた男性が、運んできたプレートをローテーブルの上に置く。プレートの上にはティーポットとカップとソーサー、シュガーポットとクッキーのような焼き菓子が載せられていた。イリスのために準備してくれたものらしい。
指示された通りにソファへ腰を下ろすと、すぐにポットからカップへ中身を注いでくれる。すると温かい湯気とともに、香ばしい茶葉と甘酸っぱい柑橘の匂いがふわりと広がった。
「もてなしに熟達した執事やメイドではなく、ただの秘書官の淹れたものなので、味は保証しませんけれど」
「シトラスティーですね。身体が温まりそうです」
口ではそう言いつつも表情はどこか楽しそうな男性に笑顔を返すと、イリスの目の前にティーカップを置いた男性が、そのままイリスの方へ身体の正面を向けてきた。
「申し遅れました。ブルーノ=マスグレイヴ宰相閣下の秘書官をしております、ギルバート=ウォルトンです」
「はじめまして、ギルバート=ウォルトンさま。ハロルド=クロムウェル伯爵家のイリス=クロムウェルと申します」
相手を跪かせたままで挨拶をするのは少々気が引けたが、ギルバートと名乗った男性はあまり気にしていないらしい。イリスに目線を合わせてくれることに感謝し、その場で会釈をすることで親愛の挨拶とさせてもらう。
扉を開いた状態に固定して室内へ戻ってきたブルーノが、イリスの向かいのソファに腰を下ろす。そんなブルーノにも紅茶を淹れるギルバートだが、彼には特に何も言わず、イリスに自己紹介を続けてくれる。
「あちこち歩き回っているせいでここにもいたりいなかったりですけど、何かありましたら遠慮なく仰ってくださいね。ブルーノさまの無茶な命令には慣れてますので、大抵の要望は聞けると思いますよ」
「え、ええと……はい」
ブルーノ本人を目の前に堂々と愚痴を織り交ぜて挨拶をするギルバートに、イリスの方が困惑してしまう。しかしブルーノ相手にまったく物怖じしないギルバートの様子を見るに、宰相ブルーノと秘書官ギルバートの関係は、この距離感や空気感で上手く成り立っているようだ。
すぐに立ち上がって会釈を残すとそのまま宰相執務室を出ていくギルバートに、ほう、と感心する。
(秘書官の方が話しやすそうで、よかったです)
これから約半年間、イリスはブルーノと交際関係にあると演技をするために、何度かこの宰相執務室を訪れることになるだろう。
もちろん恋人だからといって王宮勤めの相手の元を頻繁に訪れるのは、公私混同だと捉えられたり、遊びにきて仕事の邪魔をしていると指摘される可能性がある。よって多くても月に一度程度の訪問になると思うが、いずれにせよブルーノの秘書官とは関係が良好である方が望ましい。
「ギルバートは俺たちの〝事情〟を知っている。ギルバートしかいないときは、無理に取り繕って隠さなくていいぞ」
「かしこまりました」
しかもギルバートはイリスとブルーノが『期間限定の偽りの恋人』であることを把握しているらしい。余計なことを口にしてぼろが出る可能性や、二人の実際の関係を疑われる必要がないのはありがたい。
ほっと安堵しつつ、淹れてもらったシトラスティーを味わう。すると同じものに口をつけながらイリスの様子を観察していたブルーノが、カップをソーサーに戻しながら小さく息をついた。
「それと、俺のことは『宰相閣下』ではなく『ブルーノ』と呼ぶように」
「え……っ?」
せっかく和やかな気持ちになっていたのに、一気にすべてが吹き飛んでしまう。ティーカップが手からつるりと滑り落ちそうになり、慌てて両手でカップを包む。中身が減っていて良かった、と思うと同時に、イリスの口から否定の言葉が飛び出ていた。
「それはできません」
「なぜだ? 恋人なんだから、名前で呼ばないと変だろう」
「で、ですが……!」
飄々とした様子で要求されてしまうが、すぐには頷けない。
(恐れ多いにもほどがあります……!)
期間限定で恋人になるという約束はしたが、それはあくまで偽りの関係。実際のところは、本当の恋人同士になったわけではない。一国の政を担う『宰相』といち伯爵家の『令嬢』であるという関係は変わらない。馴れ馴れしい呼び方をするわけにはいかないのに。
「俺もイリスと呼ぼう。それで対等だな?」
「!?」
ブルーノは自身の提案を引っ込めるつもりはないらしい。まったく対等ではないし、そもそも対等になっていいわけがないが、きっぱりと否定する前にブルーノの興味は次の話題へ移っていた。
「ところでイリス。夜会の翌日に送ってくれたあの手紙は、執事やメイドに書かせたものか?」
「え?」
さっそく呼び捨てにされたことでブルーノの提案からは逃れられないのだ、と思い知るが、意外な質問をされたせいでイリスの関心も移動する。
思考を巡らせてすぐに思い出す。あの手紙、とは、ブルーノが仲裁に入ってくれたことでトラブルが大きくならずに済んだこと、大広間から連れ出してくれたおかげで悪目立ちせずに済んだこと、イリスの立場と状況を理解し優しく手を差し伸べて協力を願い出てくれたことに対して、謝罪と感謝を伝えるべくブルーノに送った『お礼の手紙』のことだ。
その手紙はクロムウェル家の使用人に書かせたものか? と聞かれたので、そっと首を横へ振る。
「いいえ、閣下。あの手紙は……」
「ブルーノ」
ブルーノの質問に答えようと口を開くが、遮られた。
イリスの言葉が途切れて空気が止まる。
「ブルーノだ、イリス」
「……。……ブルーノさま」
表情を変えないまま訂正され、反論を許さない無言の圧を感じる。
喉から押し出されるように彼の名前を呼ぶと、ふ、と口元を緩めて数度頷かれた。話を続けてもいい、という合図らしい。
「ええと……ブルーノさまにお送りしました書状は、宛名も手紙も私の直筆です」
ブルーノがどんなものに興味を持ってどんな感情を向けるのか、今のイリスはまだ完璧には予想できない。イリスがおそるおそる申告すると、目を丸くしたブルーノがわずかに身を乗り出した。
「そうなのか……? やけに字が上手いな」
感心して褒められるが、イリスとしては少し居心地が悪い。
「お恥ずかしながら、学院生時代から謝罪の手紙や説明の文書をしたためる機会が多かったもので……」
「……」
その理由を素直に告げると、事情を察したブルーノも押し黙った。