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3話 すごい提案をされました


 なぜジェラルドが大広間から離れたこの場へやってくるのだろうか。彼は今この時間も、賓客からの祝いの言葉や挨拶を受けているはず。イリスも先ほど父・ハロルドとともにお祝いを述べたが、ジェラルドに挨拶をしようと待つ人々は、まだまだ長蛇の列をなしていたはずなのに。


 イリスの疑問をよそに、ジェラルドがハニーブロンドの前髪の奥で翡翠色の目をそっと細める。


「やらし~。人目を盗んで密会なんて」

「なぜそうなるのですか。違いますよ、俺は……」

「いいよいいよ、別に邪魔したいわけじゃないからね」


 ジェラルドの揶揄を耳にしたブルーノが、焦ったようにその場に立ち上がった。だがジェラルドは片手だけでブルーノの反論を制してしまう。


「それにしても、クロムウェル伯爵令嬢か……ふぅん」

「!」


 ジェラルドが興味深げに頷きながら、イリスとブルーノの顔を交互に見比べる。王太子に物珍しそうな視線を向けられると、イリスの全身からサッと血の気が引いた。


(ま、まさかジェラルド殿下にまで……!?)


 隣同士ならともかく、テーブルを挟んで向かい合う二人を見ても、普通なら『人目を盗んで密会をしている』とは思わないだろう。


 だがイリスに付きまとう悪い噂は、ごくありふれた状況すら『密会』に変えてしまう。もしジェラルドが件の噂を知っているのなら、彼の目にも『愛人令嬢』が『宰相閣下』を誘惑しているように見えたのかもしれない。


「じゃ、どうぞごゆっくり」

「殿下、まだ挨拶は終わっていないでしょう。まさか、またサボるおつもりですか?」

「やだな、ブルーノ。サボるだなんて人聞きが悪い。ちょーーっとだけ休憩をもらって、愛しい妻と可愛い我が子の顔でも見に行こうと思っただけじゃないか」

「……」


 にこにこと笑顔を浮かべるジェラルドに、ブルーノが胡乱げな視線を向ける。


 ジェラルドの正妃であるアリシア=ルファーレ王太子妃殿下と二歳になる息子のエミール=ルファーレ王子殿下は、アリシアが急に体調を崩してしまったことを理由に、二人揃って本日の夜会の参加を控えることとなった。その事情自体は、先ほど挨拶をしたときに聞いてイリスも知っていた。


 おそらくジェラルドは愛しい妻と息子の様子を自らの目で確認すべく、夜会を抜け出してきたのだろう。


 だが問題はその抜け出し方。二人の会話から察するに――そして誰もいないはずのこの部屋に人目を避けるよう忍び込んできたあたり、ジェラルドが誰にも行き先を告げず勝手に大広間を抜け出してきたことは想像に容易い。ジェラルドの手の内を知り尽くしたブルーノが何か言いたそうな表情をしているのも、納得である。


「でもまあ、こうして『面白いもの』が見れたからね。気分がいいから、今は大人しく戻ってあげるよ」

「……」


 くすくすと笑みを零すジェラルドが何を考えているのか、親しい交流のないイリスには正確なところがわからない。だがブルーノはジェラルドの表情や口調から、彼の思考と感情をある程度読めているようだ。


 黙り込んだブルーノを一瞥して微笑んだジェラルドが、くるりと踵を返して応接室を去っていく。


「あとでちゃーんと説明してもらうからね? ブルーノ」


 そう言い残したジェラルドの声と、扉が静かに閉じていく音がゆっくりと重なる。コツコツと響く足音が大広間の方へ遠ざかって行ったので、ジェラルドが宣言通りの場所へ戻っていったことがわかった。


 しかし王太子の逃亡を阻止できたはずなのに、ブルーノの表情は浮かない。イリスの気分はもっと最悪だった。


(どうして、こうなってしまうのですか……!)


 人はこんなにも容易く〝誤解を受ける状況〟に陥るものなのだろうか。よりによって王太子ジェラルドから誤解されてしまうなんて、もはや呪われているのかもしれない、とさえ思ってしまう。


「……面倒なことになったな」

「も、申し訳ございません……!」

「ああ、いや……君を責めているわけじゃないんだ」


 ブルーノの嘆きを耳にしたイリスは、泣きたい気持ちを堪えながら勢いよく腰を折って、その場にがばっと頭を下げた。だがブルーノにイリスを責める気はないらしく、「頭を上げてほしい」と謝罪を遠慮された。


 とはいえブルーノの纏う空気は重い。立ち上がった状態のまま、座りもしない。

 表情も険しい。そのまま腕を組んで指先で唇を覆うと、何かを考え込むように黙り込んでしまう。


「……」

「あ、あの……宰相閣下……?」


 ブルーノにかけるべき言葉を必死に探すイリスだが、彼の役職名の後に続く台詞は何も考えつかない。胃がじくじくと軋む感覚を味わいながら、ひたすらおろおろする。


 そのまま一分ほどの時間が経過した頃、ブルーノがふと目だけを動かして、イリスをじっと見つめてきた。無表情のままの彼と目が合ったことで、再び背中に緊張が走る。


「……イリス嬢に、提案があるんだが」


 ぽつりと呟いたブルーノの一言に、ごくりと息を呑む。無意識のうちに「提案……?」と呟くと、ブルーノが口の端をわずかに吊り上げた。


「俺と恋人になる、というのは、どうだろうか」

「……。……はい?」


 イリスをじっと見下ろす堅物宰相閣下の『提案』に、思考が急停止する。


 時間が止まる。呼吸も止まる。――意味がまったく理解できない。


「こ、恋人……?」

「そう、恋人」


 頭が真っ白になってしまったので、とりあえず聞こえた言葉だけ反復してみる。しかしブルーノは直前の台詞を訂正するどころか、固まったイリスに状況を理解させるべく、同じ言葉をもう一度繰り返した。


「えぇっ……!?」


 再び訪れた沈黙の時間に押し出されるように、イリスの喉から悲鳴に近い驚き声が溢れる。


 そんなイリスの表情がよほど面白かったのか、少し遅れてブルーノが喉で笑った。指で口元を覆い隠して笑みを堪える表情が思いのほか麗しかったが、今は美貌の宰相閣下に見惚れている場合ではなく。


 イリスの困惑の表情を見て笑顔を引っ込めたブルーノが、元のソファに腰を落ち着ける。


「別に、未来永劫恋人でいてほしい、と言っているわけじゃない。あくまで〝期間限定の偽恋人〟だ」

「!」


 長い足を組んで、肘掛けに頬杖をついたブルーノがさらりとつけ足した一言に、ハッと目を見開く。


 イリスの瞠目を確認したブルーノが、ふう、と息をついて声量を落とした。


「弱みにつけ込むようで申し訳ないが、実はこちらにも〝事情〟がある」

「? 事情……ですか?」


 未だ理解が追いついていないイリスは、聞こえた音をオウムのように返すことしかできない。そんなイリスの困惑や不安はしっかりと把握しているらしく、ブルーノが思考と感情を整理するためのヒントをくれる。


 イリスが首を傾げると、ブルーノが低く頷いた。


「ルファーレ王国は今夜催されている『王太子殿下の生誕を祝う夜会』が終わると、次は畜産物の収穫と収税の時期、それが終われば今度は長い越冬の時期に入る」

「……はい」

「ただでさえ忙しい季節だが、それに加えて今年は国王夫妻の結婚三十周年のご旅行、アリシア殿下の第二子ご出産予定、春には建国五百周年の節目を祝う盛大な式典も予定されている。それらの準備も同時進行しなければならない。つまり、死ぬほど忙しい」


 淡々とした口調ではあるが、話せば話すほどブルーノの表情が暗く曇っていく。イリスのために言語化してくれているが、口にするのも億劫そうだ。


「というより、もう死にそうになっている」

「た、大変でございますね……?」


 げんなりと付け足された一言に、ブルーノの憂鬱のすべてが凝縮されているよう感じる。ルファーレ王宮には王室の予定や公式行事を計画・管理する人々も存在するが、それらを統括するのも結局は宰相であるブルーノだ。


(そのような状況下で社交の場が乱れれば、宰相閣下はストレスと過労で倒れてしまうかもしれません……)


 ただでさえ多忙を極める時期なのだ。貴族やその令息・令嬢のトラブルにかける目や手も、その処理に割く時間も、惜しいに決まっている。


(つまり〝恋人になる〟というのは、私の監視……?)


 死ぬほど忙しいブルーノの状況と、先ほどの発言を照らし合わせて、ふと気がつく。彼がイリスに『期間限定の偽恋人になること』を提案してきた理由は、社交界の摩擦になりかねないイリスを自分の監視下に置き、その動向を探りやすくするためなのかもしれない。


 ――と、考えるイリスだったが。


「そのうえ国王夫妻とジェラルド殿下が、こぞって俺に結婚を薦めてきている」

「え……」


 ふと重ねられた意外な一言に、ぽかん……と口を開けてブルーノの顔を見つめてしまう。予想外の状況に思わず絶句してしまう。


 おそらく今のイリスの表情は、上品で淑やかな貴族令嬢にあるまじき間抜けな顔をしている。


 だからだろうか。イリスの反応を確認したブルーノが、盛大なため息をついた流れで長い不満を唱え始めた。


「何度も何度も丁重に断っているにも関わらず、『結婚はいいぞ』だの『お前も早く相手を見つけろ』だの『わたくしがお似合いの相手を選んであげますわ』だのと次から次へとご令嬢を紹介してきて、本当に困ってるんだ。そのたびに時間が削られるし、断るのにも時間がかかる。何より貴方たちの顔を立てつつ断るのは大変だからやめてほしい、と再三に渡って要求してるのに聞きやしない! しかもやめるどころか余計に頻回になるなんて、あの三人は親子揃って一体何がしたいんだ……!! 俺の嫌がる顔を見て楽しんでるんじゃないか……!?」


 話し続けるうちにどんどん早口になって、ついには頭を抱えて項垂れてしまう。そんなブルーノの絶望の姿に、思わずイリスも同情してしまう。


 だがすぐに我に返ったらしい。ゴホン、と咳払いをしたブルーノが、


「……すまない、取り乱した」


 と謝罪してきたので、イリスも「いえ」と言葉を濁した。


 しかし今の説明でおおよそ合点がいった。先ほどジェラルドが口にした『『面白いもの』が見れた』『あとでちゃーんと説明してもらう』との発言は、相手が社交界で噂の的となっているイリスだから、というわけではない。単に、ブルーノの事情を把握したい、という意味だったのだろう。


「無論、俺もいつかは結婚する必要があるとは思っている」


 ブルーノの発言にこくりと頷く。


 本当は『必要があるから』という一言にわずかな引っかかりを覚えた。だが上流貴族、特に王宮での政治に関わる人々は、結婚を自らの地位と権力を高めるための『通過儀礼』と考える者が多い。イリスの両親の考え方が特殊なだけで、ルファーレ王国の貴族の大半は、ブルーノのように結婚を『義務』『必要があるから』と捉えるものだ。


 イリスもそれを理解しているので、ここはさらりと受け流す。元よりブルーノの話の腰を折るつもりはない。


「だがそれは今じゃない。どう考えても、今の俺にそんな余裕と時間はない」

「ええと、つまり……? 宰相閣下は偽りの恋人を作ることで、国王夫妻や王太子殿下からのご要望を一時的に退けたい、ということでしょうか?」


 ようやく話が見えてくる。つまりブルーノは、これから春の建国五百周年記念式典を終えるまでの数か月間、国王と王太子からの要求やからかいを退ける『正当な理由』がほしいのだ。


 もちろんいつかは結婚の必要もあると考えているが、今はその相手をじっくり吟味している時間と余裕がない。だがそう説明しても三人が納得しないので、とりあえず『恋人がいる』という状況を作ってやり過ごしたいと考えている。


 そしてその『一時的な恋人の役』をイリスに請け負ってもらいたい、ということだろう。


 ブルーノがイリスを相手に選んだ理由は、先ほど二人きりでいる場面をジェラルドに目撃されたことが大きいのかもしれない。どうせ根掘り葉掘り聞かれて時間を浪費するのなら、いっそこの状況を利用してしまおう、と考えたのだろう。


「誰でもいいなら話は簡単なんだ。だが本気で結婚を望んでいる女性を恋人『役』に選んで、変に期待されても困る」

「……」


 ブルーノの補足を聞いて、なるほど、こちらが本音か、と理解する。


 宰相・ブルーノ=マスグレイヴ公爵は『王室の権威と己の仕事の効率を最優先する、融通が利かない堅物』だと囁かれている。だがブルーノだって普通の人間だ。好みもあって当然だし、結婚するならマスグレイヴ公爵家に相応しい女性を選びたいと思うはず。生涯を添い遂げる相手だからこそ、時間を使って慎重に選びたいはずだ。


 しかし一時的な相手ならば、それほど高い条件は必要ない。最低限の基準を満たし、ときが来たら確実に別れてくれさえすれば、他の条件はすべて些末事なのだろう。


 ここまでの話を聞いて、ふむふむ……と感心していたイリスだったが、そこで思いもよらない『事情』も付け加えられた。


「そういう意味では、イリス嬢にもちょうどいい話じゃないか?」

「え……? ちょうどいい……私にですか?」

「ああ」


 そう、それは〝ブルーノにとって都合のいい事情〟ではない。〝イリスにとって都合のいい事情〟だった。


「今の時期から春までなら『君の噂を消す』時間としても、頃合だと思うが」

「!」


 小さな笑みを浮かべるブルーノと見つめ合ったイリスは、彼が自分の事情まで考慮してくれていたことに、小さな衝撃を覚えた。まさか先ほど中断してたイリスの『噂』への対処方法まで、一緒に考えてくれていたなんて。


「……」


 密かに感動を覚える一方で、洞察力と情報収集力に優れる彼が、一つだけ大きな勘違いをしていることにも気づく。


 ブルーノはイリスが不名誉な噂に困っていると聞いて、『イリスも自分と同じように結婚願望がない』、あるいは『今すぐに結婚したいとは思っていない』と考えたのだろう。


 確かに、貴族学院を卒業し十八歳になった伯爵家の令嬢だというのに、未だに婚約者もいないとなれば、そう捉えられても不思議ではない。


(本当は、違うのですけど)


 実際は両親から恋愛結婚の経緯を聞いて育ち、仲睦まじい二人に憧れ、まだ『恋』を諦めていないだけ。勘違いされがちな愛人顔のイリスでも、普通の恋がしたいだけなのだ。


(でも恋愛をするにしても、お父さまの決めた方と結婚するにしても、この不名誉な噂がつきまとう限り私は『愛人令嬢』のまま……!)


 イリスも今の状況を何とかしたいと思っていた。どうにかこの噂を消せないものかと考えていた。


 もちろんその手段が『堅物宰相・ブルーノ=マスグレイヴと〝期間限定の偽恋人〟を演じること』になるとは、想像すらしていなかった。だがブルーノの言い分は一理ある。これはきっと、イリスにとっても『ちょうどいい』話だ。


 なんせ相手はルファーレ王国で一番といっていいほど、不義理や不道徳な関係に厳格な人物だ。それが半年という短い間だとしても、本物の恋人同士じゃないとしても、ブルーノが『恋人』だと宣言してくれるのなら、イリスの『愛人』のイメージは払拭できるはずだから。


 それにどのみち〝宰相閣下〟の望みを断るには、それなりの理由と覚悟がいる。……受け入れる方が簡単だ。


「かしこまりました。宰相閣下のご提案、謹んでお受けいたします」

「そうか。……では『期間限定の偽恋人』として、半年間よろしく頼む」

「はい」


 差し出されたブルーノの右手を握り、契約代わりの握手を交わす。


 この瞬間――上流貴族男性を弄ぶと噂の『愛人令嬢』と、生真面目で融通が利かない『堅物宰相閣下』は偽りの恋人同士となった。


「ところで、恋人同士というのは、何をするものなのでしょうか……?」

「……」


 ただし恋愛経験なんて一切ないイリスだ。

 急に恋人の演技をしろと言われても、前途は多難である。



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