2話 どうやら間が悪いようです
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マスグレイヴ公爵家の当主であるブルーノ=マスグレイヴは、二十三歳という異例の若さで宰相の地位に上り詰めた賢人である。
彼の父であるアイザック=マスグレイヴも公爵家当主およびルファーレ王国の宰相を務めていたが、今から八年ほど前に病に倒れ、若くしてこの世を去ってしまった。その後は別の人物が六年ほど宰相を務めていたが、二年ほど前に政から退く際にブルーノを後継者として指名し、国王もそれを承認した。
よって現在はブルーノ=マスグレイヴがルファーレ王国宰相の地位に就いている。
イリスが先々代の宰相と対面したのはまだ幼い頃、しかもたったの数回だったので、記憶が曖昧で細部も定かでない。だがこうして見ると、ブルーノの灰色がかったなめらかで美しい銀髪と、深海のような静かさをたたえた切れ長の青い目、輪郭の印象なんかは故アイザック=マスグレイヴによく似ていると思う。ブルーノと直に会話をするのはこれが初めてだが、彼の姿がかつての宰相の面影と重なって見えた。
(とても繊細で、美しい方です)
ブルーノの顔立ちは端正に整っていて聡明さも感じられる。それにすらりと身長が高く腕や胸板にもほどよく筋肉がついており、生真面目に机に向かっているだけのイメージと異なり、意外にも男性らしい身体つきをしているとわかる。思わず時間も忘れて魅入ってしまいそうなほどだ。――けれど。
(お父さま、お母さま……本当に申し訳ございません……!)
とにかく顔が怖い。怒っているというよりも無表情に近いが、それでも彼の機嫌がそうよろしくないことは理解できる。おそらくイリスは、これから彼に大目玉を食らうのだろう。
ブルーノに導かれた場所は、王宮内のとある応接室だった。大広間からは少し距離のある場所なので、夜会が催されている今の時間は人の気配すら感じられない。とはいえ室内はしっかりと掃除が行き届いていて、暖炉にも火がくべられている。回廊を吹き抜ける秋の夜風が少々冷たかったので、肌をじんわりと温めてくれる火のぬくもりに、ほっと小さな息が零れた。
「さて、イリス=クロムウェル伯爵令嬢」
「は、はい……!」
先にイリスを座らせ、自らも向かいのソファへ腰を落ち着けたブルーノから、名前を呼ばれる。
思わずしゃきんと背筋が伸びる。どんな説教を受けるのか、どんな罰を与えられるのか、父に迷惑をかけるのでは、と身構えてしまう。
「率直に聞くが、君が上流貴族の男性に取り入り、複数の者と愛人関係を持っている、という話は事実なのか?」
「とんでもございません」
ブルーノが問いかけてきたのは、社交界に広がる『イリス=クロムウェルは愛人令嬢である』という噂の真相についてだった。
やはりブルーノの耳にも届いていたらしい。そう思うと途端に恥ずかしくなったが、問いかけそのものは想定の範囲内だった。
だからイリスは即座に否定し、言葉を選びながら慎重に説明を試みた。
「身に覚えのない噂ばかりが一人歩きしてしまい、私も両親も困り果てているのです」
イリスに不名誉な噂が立っていることは、当然、イリスの両親も把握していた。特に父・ハロルドは王宮に勤めているため、周囲の人々から意地悪な質問を受けることも多いと聞いている。
ただハロルドは仕事に真面目で誠実だが、幸い性格はおおらか――というよりやや天然でのんびりとした性格なので、イリスの悪い噂も今のところは適当に受け流せているようだ。
とはいえ、悪い噂をそのまま放置し続けるわけにもいかない。
「誤解があればその場でしっかり否定いたしますし、後日改めて説明と謝罪も重ねています。ですが、根も葉もない噂話は広まる一方で……」
のんびり屋な両親に任せてばかりいられない。それではいつまで経っても状況は変化しない。
だからイリス自身も悪い噂や印象を払拭しようと、身だしなみに気をつけ、丁寧な所作を心がけ、誤解を与えかねない言動は厳に慎むよう、細心の注意を払っている。もし先ほどのようにトラブルになってしまった場合は、その場ですぐに否定する。直接謝罪に赴けばそれがまた新たな噂の原因になりかねないので、代わりに書面で丁寧に謝罪するように徹底している。
なのに結局、こうなってしまうのだ。
(いつかは素敵な恋愛をしてみたかったのですが……)
イリスだって乙女の一人だ。本当は誰かと恋をして、恋人との甘やかな時間を過ごして、いつかはその相手と結ばれたい、と密かな夢を見ている。
もちろん貴族の家に生まれた以上、誰とでも好きなように恋愛して結婚できるとは思っていない。だがイリスの両親は貴族の出自同士にはやや珍しい、恋人の期間を経て結婚に至った、いわゆる『恋愛結婚』だった。幼い頃から両親の甘く可愛らしい思い出話を聞いて育ったイリスは、仲睦まじい二人のような恋愛結婚に強い憧れを抱いていた。
それに両親も、イリスの恋愛結婚に肯定的である。家のことなんて考えなくてもいい、自分が好きな人を選べばいい、と背中を押してくれるけれど。
(やはり私に、『恋愛結婚』は無理のようです)
実際はそう上手くいかない。社交の場に赴けば、必ずと言っていいほどトラブルに巻き込まれる。知人に男性を紹介されても、『噂』を耳にすると皆一様に遠慮がちになる。『噂』を聞いたうえでイリスと対面し顔を見ると、真面目な人であればあるほど露骨に不快をあらわにする。
今のイリスは恋愛結婚どころか、まともな恋すらできない状態なのだ。
(さすがに宰相閣下に目をつけられては、もう社交の場に顔を出せません――!)
良くいえば仕事熱心で真面目で凛々しい、悪くいえば融通が利かず面白みがない堅物だと評される〝ブルーノ=マスグレイヴ〟だ。王室の権威と品格の遵守を最優先し、それ以外の無駄は徹底的に排除し、規律や道徳、調和からの逸脱を何よりも嫌うとされる『宰相閣下』が、不道徳の権化のような『愛人令嬢』イリスを見逃してくれるはずがない。
こちらをじっと見つめるブルーノの視線に気圧され、背中にだらだらと汗をかく。表情は無に近く、怒っているというほどではないが、とにかく眼光が鋭い。静かな青い瞳に、どきどきと緊張に固まるイリスの姿が映っている。
「イリス嬢の言い分はわかった」
ブルーノが、ふう、と短い息をつく。その一言に、しゅん……と俯く。
イリスはきっと、王室主催の夜会やパーティーへの参加を禁じられてしまうのだろう。ならばもう恋愛や結婚に夢など見ず、両親の選んだ相手と大人しく結婚すべきかもしれない。そうして嫁ぎ先から極力外へ出ないように過ごしていれば、いつかはこの噂も消えてくれるだろう。
「辛かったな」
「……。……え?」
諦めの吐息を零しかけたイリスだったが、ブルーノがぽつりと呟いたのは意外な一言だった。
一瞬反応が遅れるが、すぐにパッと顔をあげる。
「仕事には誠実で生真面目、人当たりがよく人望に厚い。そして何より、『家族』を大事にするハロルド=クロムウェル卿だ。そのご令嬢が、複数の男性と不道徳な関係にあると聞いても、いま一つ信じられなかったんだ」
ブルーノが父であるハロルドを褒めてくれる。
そしてハロルドの人徳を根拠に、イリスの主張も認めると頷いてくれる。
「悪い噂は、やはりただの噂だったようだな」
「し、信じて頂けるのですか……!?」
勢いのまま身を乗り出して訊ねると、ブルーノが一瞬だけ目を丸くして動きを止める。だがすぐに表情を緩めてソファの肘掛けに頬杖をつくと、長い足を組んでイリスの顔をじっと眺めてきた。
「若い女性の流行り廃りにはさほど詳しくないが、最近は首まわりが広くひらいたドレスが人気らしいな」
「!」
ブルーノの問いかけはなんの脈絡もない始まりだった。だが先の台詞を直感で予測したイリスは、思わず息を呑んでしまう。感情を悟らせない無表情の裏側に、彼の洞察力と情報収集力の高さを垣間見る。
「だが君は流行よりも、露出の少なさを重視してドレスを選んでいるのだろう? それに少しでも肌を隠すためか、髪も結い上げていない。華美な宝飾品も控えて、あえて地味に装っているように見える」
「……」
ブルーノの言う通りだ。今夜のような催しものの場合、招待された貴族の夫人や令嬢は、美しく着飾り華々しい姿を見せることが王太子であるジェラルドの生誕を祝うこと、そして彼の顔を立てることを意味する。イリスも、それが自らに与えられた役目であることを理解している。
だがイリスにとっては、他人にいかがわしい印象を与えないことも、王太子への祝辞と同じぐらいに重要だった。この『愛人のような』顔立ちで胸元が開いた流行のドレスを身に纏えば、出席している貴族男性を誘惑している、と捉えられる可能性があるからだ。
よって最低限の華やかさは保ちつつ、清楚さと自身の身体的特徴のバランスをとることも重視した。熟考の末、胸元から首がすべてレースで覆われているミルクホワイトとシャンパンゴールドのドレスを選んだ。さらに肌の露出が増えないよう髪は下ろしたままシンプルな髪飾りのみを使い、宝飾品もイヤリングと小ぶりのネックレスのみに留めた。
「それに大広間を出るまでの間も、廊下で人とすれ違うときも、異性を誘うような視線や仕草は感じなかった」
「!」
ブルーノのさらなる指摘に瞠目する。
(さすが宰相閣下……しっかりと観察してらっしゃるわ)
なんと彼はイリスの装いだけではなく、会ってからこの場にたどり着くまでのイリスの歩みや表情、視線や仕草までしっかりと観察していたらしい。頻繁に振り向かれているようには感じなかったが……もしやブルーノは、頭の後ろにも目がついているのかもしれない。
「それに君は、まず最初に謝罪を口にしただろう」
ふとブルーノが発した言葉に、再びイリスの動きが止まる。
やや遅れて「はい」と返事をすると、ブルーノが呆れたようなため息をついた。
「先ほどの二人は『自分は悪くない』『イリス嬢が悪い』と口にするだけで、謝罪の言葉はひとつもなかった。自己保身と責任転嫁ばかりで謝意がまったく感じられない。民の模範となる貴族の振る舞いには不相応な、品位と誠実さを欠く醜態だ」
やはり彼も、ローラとクリフの高慢さを感じ取っていたらしい。イリスも責任をなすりつけられそうになったことには驚いたが、それよりもブルーノの怒りの本質を見抜けず、さらに騒ごうとしたことの方に驚いた。強制退場命令は可哀想だと思うが、あのような態度では弁護のしようもない。
「けど君は、すぐに頭を下げたな」
「……経緯はどうあれ、祝いの場を乱したことは事実ですので」
イリスの返答に、ブルーノがフッと表情を緩めた。
「さすが、クロムウェル卿のご令嬢なだけあるな」
「恐れ入ります」
ブルーノの麗しい笑顔に見惚れてしまう。普段は無表情の美形が微笑むと、周囲の温度が上昇してふわりと花が咲くようだ。心なしか、ブルーノの背後では美しい光がきらきらと煌めいてるように見える。
「とはいえ、これ以上社交の場にいらぬ波風を立てられては困る。風紀の乱れは国の乱れの原因だ。看過はできない」
ブルーノの表情がスッと元に戻る。その瞬間、彼の背後に咲いた花も一気に凍って周囲の気温も急降下した。
しかし彼の意見はごもっともだ。いくらイリスに落ち度がないとはいえ、夜会やお茶会のたびに愛人騒ぎが勃発し、毎回のようにトラブルが発生するのでは主催する側も統制する側もさぞ迷惑だろう。
イリスにとっては悲しい報せだが、こちらに過失がないと理解してもらい、さらに父の功績に傷がつかないのであればそれでよしとするほかない。
「イリス嬢には申し訳ないが、しばらくの間、公式行事に参加する際は俺に報告を……」
おそらくブルーノは、一定期間イリスを自身の監視下に置くことで、イリスの周囲に起こる問題を管理するつもりだったのだろう。確かに、トラブルが発生したりあらぬ噂が立ったときに、ブルーノがイリスの無実を証明してくれるのなら心強い。何せ彼は、ルファーレ王国で最も厳格かつ不道徳な振る舞いを嫌う人物と言っても過言ではない『堅物宰相閣下』なのだ。
ならばここはブルーノの決定に素直に従おう……と頷きかけたイリスだったが、そこで思いもよらない横やりが入った。
応接室の扉が突然、ノックもなしにガチャ、と開いたのだ。
「!」
「え……!?」
「……あれ?」
急に扉が開かれて、思わず驚きの声が漏れる。
しかしイリスは扉を開けられたことそのものより、扉から応接室内に入ってきた人物の正体の方に驚いた。
思わず息を呑む。相手も室内に誰かがいるとは思わなかったのか、ぴたりと動きを止めている。
静まり返った空気を真っ先に打ち破ったのは、イリスの目の前に座るブルーノだった。
「ジェラルド殿下……? こんなところで、何をしていらっしゃるのですか……?」
「それはこっちの台詞だよ。ブルーノこそ、ここで何してるの?」
入室してきたのはイリスもよく知る人物だった。それもそのはず、相手は本日の夜会の主役であり、我がルファーレ王国の第一王子である〝ジェラルド=ルファーレ王太子殿下〟だったのだから。