20話 閣下、私は恋がしたいです
「イーリースー?」
執務室の扉が閉まってブルーノと二人きりになると、不機嫌な空気を纏ったブルーノがイリスの正面に仁王立ちになった。そのまま顔を覗き込まれるが、どきっと緊張する間もなく、長い指先で額をピンと弾かれる。
「いたっ……痛い! ブルーノさま、ひどい!」
「ひどいのはイリスだろ。恋人じゃないと認めるような発言をしてどうする」
「う……それは申し訳ございません……」
ブルーノの指摘はまったくもってその通りだ。ここでカーティス相手に恋人ではないと認めてその話が広まるようなことがあれば、これまでの努力がすべて無駄になってしまう。
イリスが素直に謝罪すると、ブルーノからのでこぴんによるお仕置きは一度きりで終了した。だから反省しつつも額をさすりながら、
「ですが、噂はちゃんと広まっているようですね」
と微笑むと、ブルーノの動きがぴたりと停止する。
「やはり街へ一緒に出かけたことが、効果的だったのでしょうか? この調子で周囲に認知されていけば、いずれ国王ご夫妻や王太子殿下のお耳にも入りそうですね」
少しずつではあるが、イリスの不名誉な噂は薄まりつつあるように思う。だが王族の面々が現在もブルーノに結婚を薦めてきているのかどうか、接点のないイリスには判断できない。
ただ、カーティスが息子のミハエルを通してイリスとブルーノの交際を知ったことや、今回の件でブルーノがイリスに贈り物をしていたこと、それを購入した際に二人で出かけたことが広まっていけば、直にブルーノの目的も達成できるはず。
「とはいえブルーノさまもお忙しいので、頻繁にはおでかけできないですよね。何か他の作戦を考えましょうか」
ただし、多忙なブルーノの仕事時間を削ってまでアピールすることはない。そもそもブルーノは、自身の仕事の邪魔をされたくないがために、偽りの恋人を立てて国王や王太子の目を欺こうとしたのだ。仕事時間を確保するために仕事の時間を削るのは、本末転倒である。
彼には次の春に催される、建国五百周年の準備という重大な仕事が待っている。準備そのものは数か月前からすでに始まっているが、今後は大々的な式典と国をあげての祝祭に向けて、さらなる激務が予想される。
(ブルーノさまから宣言してしまう、とか?)
積極的に嘘をつく必要はない、とこれまで提案したことはなかったが、いっそ自ら交際宣言をしてみるのもいいかもしれない。
そう思うイリスの頭の中を読んだかのように、ブルーノがぽつりと呟いた。
「ジェラルド殿下は、俺たちの交際を把握されている」
「えっ? そ、そうなのですか……!?」
「ああ。……というより、夜会の翌日に殿下から呼び出されて、イリスと一緒にいた理由の説明を求められた。そのときに交際を宣言しているから、殿下は最初から知っているんだ」
「な、なるほど……」
言われてみれば確かにそうだ。テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたとはいえ、あの夜イリスとブルーノは、密室に二人きりでいるところをジェラルドに目撃されていた。ブルーノから『期間限定の偽恋人』を提案されたのは、その状況をジェラルドへ説明する手間と、王族の面々から結婚を勧奨される煩わしさをまとめて解決できると踏んだからだ。ならばジェラルドには、交際の状況を真っ先に伝えていて当然だ。
ブルーノが『ジェラルド殿下〝は〟』と限定する口振りから察するに、国王夫妻には直接の交際宣言はしていないと見る。だがこの数か月、ブルーノの口から『また結婚を勧められて困った』という話はまったく聞いていない。ということは、ジェラルドへの宣言ひとつで国王夫妻にも状況が伝わり、以降も一定の効果を得られているのだろう。
「それでは、もうおでかけ作戦やプレゼント作戦の必要はなさそうですね」
「あ、いや……!」
ブルーノの思惑通りに事が進んでいると知り、ほっと胸を撫でおろす。これで彼も仕事に集中できるはず、と考えるイリスだったが、そこでブルーノが突然、焦ったような声を出した。
ブルーノの慌て具合が気になり、そろりと視線を上げてみる。すると目が合った彼が、言葉を詰まらせるように動きを止めた。
いつも冷静沈着で理性的なブルーノには珍しい。いつになく挙動不審な様子に首を傾げると、やがて観念したようにふぅ、と息をついたブルーノが、身体の力をそっと緩めた。
「……噂の広がり方や作戦なんて、もう気にしなくてもいいんじゃないか?」
「!」
ブルーノがイリスと目を合わせることに困惑するように、そろりと視線を外しながら呟く。その一言に、イリスは少なからず衝撃を受けた。
「そう、ですか……」
先ほどと同じように、また少しだけ胸が痛む。もしかしたらブルーノはこれ以上噂が広がることを――イリスとの交際が広く知れ渡ることを、本当は望んでいないのかもしれない。
考えてみれば当たり前のことだ。どう言い繕ったところで、イリスとブルーノはしょせん『期間限定の偽りの恋人』でしかない。時期がくれば自然と終わりを迎える関係なのだ。
あまり手を広げて収拾のつかないところまで噂が広がれば、後々苦労することになるかもしれない。もちろん離婚や婚約破棄といった他人に迷惑をかける規模の話ではなく、あくまで交際関係の終了なので、ブルーノの評価が下がることはないとは思いたいが……。
イリスの気持ちがしゅんと萎む。この関係に浮かれているのは、きっとイリスだけだ。ブルーノはただ周囲に煩わされず平穏に仕事をしたいだけ。イリスとの偽りの恋人関係は、その場しのぎの目くらましにすぎない。カーティスの言うように、ブルーノはイリスを利用しているだけなのだ。
それでもいいと思っていた。いや、今だって同じように思っている。
ブルーノの役に立ちたい。目的を達成するために自分を使ってくれても構わない。
そう考える反面、利用し合うだけの関係を寂しいとも考えている。宰相であるブルーノ相手に、友人のような関係を望むことが恐れ多いのもわかっている。けれどブルーノの傍にいる時間が楽しくて、彼が向けてくれる優しい言葉と笑顔が嬉しくて、隣で過ごす日々が愛おしくて。
だからイリスは――
「……それでは、夜も遅いので、本日はこれにて失礼いたしますね」
「!」
胸の痛みと息苦しさを覚えたイリスは、今日のところは一旦帰宅する方法に逃げようとした。この気持ちに整理をつけるには少し時間がかかりそうなので、一度離れて改めて考えることにしようと考える。
「待て、イリス。まだ話は終わっていない!」
ところが、帰宅しようとしたイリスの行動は伸びてきたブルーノの手に腕を掴まれたことで、簡単に阻止された。イリスが驚いて振り返ると、ブルーノが困ったような表情でイリスをじっと見つめている。
「もういい、と言ったのは、これ以上演技や作戦に頼らなくてもいい、という意味だ」
「え……? ……ええ、そうですね……?」
「……伝わらないか」
ブルーノが先ほどの自分の発言を訂正するように詰め寄ってくるが、イリスには同じ意味にしか聞こえない。
「ブルーノさま……?」
彼の真剣な眼差しに驚きながら名を呼ぶと、イリスの腕を掴んでいた手がそっと離れる。だが距離が開いたわけではなく、むしろブルーノはさらに一歩イリスに近づいて、じっと顔を見つめてきた。
何かを言いたそうにしていたブルーノが、やがてそっと口を開く。
「演技や作戦、期間限定の話ではなく、本当に俺と交際してみないか?」
静かな声で問いかけられる。
はっきりと告げられた言葉に、イリスの思考が静かに停止した。
「……」
「……」
「ええっ……!?」
そのまま沈黙して見つめ合う二人だったが、数秒の間を空けてようやくブルーノの質問の意味を察する。
なんとブルーノは、『期間限定の偽りの恋人』として始めた関係を『期限のない本物の恋人』の関係に変えよう、と言うのだ。
「え、えっと……あの……?」
唐突すぎる方向転換に頭が混乱する。思いもよらない申し出に、どう返答していいのかわからない。
「嫌か?」
「いえ、その……嫌というわけではなく……」
不安そうに訊ねられるが、イリスは返答どころか反応にさえ困る。
もちろんブルーノの提案そのものが嫌だというわけではない。ブルーノを嫌っているわけではない。むしろ人としては好ましいと思っていて、つい先ほどは彼に突き放されたように感じて、寂しいと思ったぐらいだ。だから嫌ということではないのだけれど。
「そ、その可能性は考えていなかったというか……」
単純に予想外だった。ブルーノに今の関係を変えるつもりがあるとは思ってもおらず、このまま春まで偽りの関係を維持し、お互いの目標を達成したら元の『宰相閣下と伯爵令嬢』という関係に戻るのだとばかり考えていた。
イリスは、ブルーノには恋愛の願望がないと思っていたのだ。
「交際をするなら……好きになってくれる人がいい、といいますか……」
ブルーノの恋愛観を決めつけるような思い込みをしていたイリスだが、本物の交際を望まれてもなお、同じように思っている。その理由はきっと、ブルーノがイリスに恋愛感情を抱いているように見えないから。自分がブルーノに特別に好かれているとは思えないからだ。
けれどイリスは、恋がしたい。今すぐは難しくても、いつか誰かと胸がときめくような恋をしてみたい。相手を想うだけではなく、イリスをちゃんと好きになってくれる人と恋がしたい、と思うのだ。
「イリスは、俺が好きでもない女性と交際したがると思っているのか?」
夢見がちな乙女のようなことを考えていると、ブルーノの不機嫌な問いかけが耳に届いた。顔を上げて「えっ?」と声をあげると、ブルーノがハッと我に返ったように瞬きする。
「いや、思うか。……それは思うよな」
ブルーノも気がついたらしい。
そう、今がまさに、好きでもない相手と交際している状態だ。イリスとブルーノの関係は、互いに対する恋愛感情など一切ない状態で始まっている。
しかしブルーノの言いたいことがまったくわからないわけではない。始めたときは互いの利害が一致しただけの偽りの関係であっても、途中から相手を大切に想う気持ちが芽生える可能性はゼロじゃない。
自身の感情に気づいたのなら、そのときは改めて『本物の』恋人関係を始めたい。『本物』を宣言する以上、嘘や偽りはない。自分の感情を認識したからこそ、ちゃんと宣言して、仕切り直して、真剣に交際したいと思っている――彼はそう言いたいのだろう。
言葉そのものは遠回しだが、伝えられた想いは熱烈なように感じて、顔がぽわっと熱くなる。全身が熱い。
深海のような青色の瞳にじっと見つめられることが恥ずかしくて、つい俯こうとしてしまう。
しかしブルーノは視線を背けることを許してくれない。伸びてきた細長い指がイリスの顎を、くいっと持ち上げる。上を向かされ、強制的に視線を合わせるよう誘導される。
「ぶ、ブルーノさま……?」
机に向かってばかりのブルーノだが、意外にも力は強い。視線を逸らすことができず緊張したまま見つめ合っていると、いつもと同じ無表情のブルーノがやわらかく微笑んだ。




