1話 今日も誤解されています
シャンデリアの隙間からこぼれ落ちてくる蜜色の光を震わせるように、女性が突然、大きな声をあげた。
ルファーレ王宮の大広間はかなり広い。三つある扉から常に人が出入りし、料理を乗せたテーブルや楽団が使う楽器がいくつも並べられ、さらに中央で十数組がダンスを踊っていても、誰ともぶつからずにすれ違えるほどだ。それに今は、楽団の調べが絶え間なく奏でられ、人々の話し声も複雑に入り乱れている。ならばおそらく、女性の訴えもさほど広い範囲には響かないだろう。
それでも、友人の元へ向かおうとしていた伯爵令嬢・イリス=クロムウェルの足を止め、振り返らせるほどの声量は有していた。
「……え?」
大声を発した女性と目が合った瞬間、全身がびくりと強張る。
イリスの顔をじとりと睨みつけたのは、セルデン子爵家の二番目の令嬢、ローラ=セルデンだった。
「貴方、クロムウェル伯爵家のイリス=クロムウェルさまね」
イリスの顔を確認したローラが、不機嫌に表情を歪める。どうやら後ろから声をかけたものの、顔を見るまで確信を持てなかったらしい。だが相手が間違いなくイリスであると理解した途端、急に語気が強まり眉にも皺が寄った。
「クリフさまは私の恋人ですのよ! 誘惑するのはお止めくださいませ!」
近くまで歩み寄ってきたローラが、イリスの目の前で腰に手を当てて不快を露わにする。口調も表情も態度も、やけに高圧的だ。
「いえ……誘惑だなんて、そのようなことは……」
ほぼ初対面の令嬢に身に覚えのない内容で突然なじられ、つい身じろぎしてしまう。
とはいえローラの怒りの理由は、おおよそ見当がついている。仁王立ちするローラの背後を見遣ると、ウォーリー伯爵家の長男であるクリフ=ウォーリーと目が合った。ばちりと視線がぶつかった瞬間、クリフが突然、ローラを援護するように声を張り上げた。
「そうだよ、ローラ。悪いのは僕じゃない! イリス嬢から誘ってきたんだ!」
クリフがローラの火に油を注ぐようなことを言う。その芝居がかった口調とは対照的に、視線はおろおろと不安げに彷徨っている。見るからに挙動不審な姿に、イリスは内心ため息をついた。
(また、ですか……)
イリスはクリフに色目を使ったわけではない。すれ違う直前でたまたま彼のカフスボタンがイリスの目の前に転がり落ちてきたので、それを拾って手渡しただけだ。
ローラはその瞬間を見ていたのだろう。きっと彼の手のひらにボタンを戻す動作が、ダンスに誘われて彼の手を取ろうとする仕草に見えたに違いない。
だが実際はそうじゃない。イリスは拾ったボタンを持ち主に返しただけ。やましいことなど、何もないのに。
「イリスさまって、噂通り本当に見境のない方なのね!」
今夜もまた、こうしていわれのない誹りを受けてしまう。事実と異なる〝噂〟のせいにされる。
イリス=クロムウェル伯爵令嬢は、複数の上流貴族男性と愛人関係にあるらしい――
このまったく身に覚えのない不名誉な噂が社交界に広がってしまったせいで、イリスはどこに行っても『愛人令嬢』だと言われてしまう。こうしてほんの少し言葉を交わしただけであらぬ誤解を受け、パートナーの女性から激しく叱責されてしまうのだ。
正直、とても面倒である。
王立中央貴族学院を卒業して、もうすぐ半年。王宮勤めの父・ハロルド=クロムウェルの顔を立てるべく、社交の場には極力足を向けるようにしている。しかしこんなにも頻繁に厄介ごとに巻き込まれるのなら、もう人前に出ない方がいいのかもしれないと思う。
「とにかく、もう僕に近づかないでくれ!」
考えごとをしていると、クリフが話を打ち切るようにそう言い放った。
落としものを拾って手渡しただけなのに、近づくも何もないと思う。しかしクリフはローラの不興を買わないよう必死な様子だ。勘違いしたパートナーの怒りの矛先は、すべてイリスへ向けさせると決めたらしい。
ルファーレ王宮の大広間はかなり広い。ならばこの騒ぎは、まだ隅々までは行き渡っていないだろう。しかしローラとクリフが大きな声を出すものだから、徐々に好奇の視線が集まり始めている。これ以上の厄介ごとは遠慮したい。
イリスはすぐさま首を縦へ動かした。
「かしこまりました。それでは、これで失礼いたします」
「!」
ドレスのドレープを指先で摘まんでそっと膝を落とす。
するとそれを見ていたクリフが、
「あ……いや、もう少し残念がってくれても……」
と、捨てられた犬のような情けない声を出した。
その台詞にいち早く反応したのはローラである。
「ちょっと、クリフさま!? 私という恋人が傍にいながら、どうしてそんなことをおっしゃるの!?」
「いや、違うんだローラ! い、今のはイリス嬢が……!」
「だいたい、クリフさまもクリフさまよ! 断られた相手を、あんなに熱心に見つめなくたっていいじゃない!」
「何を言ってるんだ! 僕はまだイリス嬢にフラれたわけじゃない!」
「まだ……!? まだ、ってなんですの!」
(帰りたい……)
目の前で繰り広げられる痴話喧嘩にげんなりする。
イリスの父は王宮勤めの貴族だ。つまり社交の場でのイリスの失態は、父の面目を潰す原因となりうる。だからトラブルも極力避けたいと思っているのに。
(また、からかわれたのでしょうか……)
クリフの挙動不審な態度から、イリスの傍にカフスボタンが転がり落ちてきたのも、ただの偶然ではないように思えてくる。彼はイリスに付きまとう不名誉な噂を知っていて、イリスをからかうためにわざとボタンを落として、会話をするきっかけを作ろうとしたのではないか、と考えてしまう。
真相はわからない。知りたいとも思わない。
ただ、一体誰が目の前で口論するこの二人の仲裁をするのだろう、と思う。
まさか私……と頭を抱えていると、イリスの背後で別の男性の声が響いた。
「何の騒ぎだ」
低く深い、けれど凛とした爽やかさも感じられる声に驚き、がばっと振り返る。
するとテーブルが三つほど離れた場所から、こちらにつかつかと近付いてくる人物の姿が目に留まった。
その相手の顔を確認した瞬間――喉の奥が締まって、ひゅっとか細い空気が漏れた。
(ま、マスグレイヴ宰相閣下……っ!?)
喧騒の最中に介入してきたのは、国政の中枢である『ルファーレ王国中央議会』を統括する、宰相・ブルーノ=マスグレイヴだった。
(まさか、宰相閣下がやってくるなんて……!)
ルファーレ王宮の大広間で催されている夜会なのだから、宰相であるブルーノがこの場にいること自体は何もおかしくはない。だが今夜も当然のように忙しいはずの彼が、この厄介ごとに自ら介入してくるとは微塵も想像していなかった。
しかし周囲の様子を確認したイリスは、すぐにそれも当然だと気がつく。
少々目立ちすぎてしまった。煩わしかったのだろう。
騒ぎ立てて注目を浴びているのはローラとクリフの二人だが、その痴話喧嘩の輪にはイリスもしっかり巻き込まれている。素知らぬ顔で逃げ出せるならそうしたかったが、イリスとて一応は当事者だ。
再び頭を抱えようとしたところで、この騒ぎを大きくした張本人のクリフが、原因のすべてをイリスになすりつけてきた。
「閣下、違うのです! これはすべてイリス嬢が悪いのです!」
「……イリス嬢?」
クリフの一言に反応したブルーノが、絹のように美しい銀髪の下からじろりとイリスを睨みつける。冷たい深海のような青い目と目が合うと、緊張と恐怖で自然と背筋が伸びた。
「君が、イリス=クロムウェル嬢……?」
「は、はい……さようでございます」
ブルーノが無表情のままフルネームを確認してきたので、素直に認めて挨拶をする。
「お初にお目にかかります、ブルーノ=マスグレイヴ宰相閣下。クロムウェル伯爵家のイリス=クロムウェルと申します」
ドレスの裾を持ち上げてゆっくりと膝を落とすと、姿勢を正してブルーノと向かい合う。
宰相であるブルーノに叱責を受けたとあらば、父には間違いなく迷惑をかけるだろう。そう思うとドレスの中で膝が震えたが、不安を表に出さないよう足に力を入れてどうにか胸を張る。
「……噂とも想像とも、全然違うな」
ブルーノがぽつりと零した言葉に、全身がぴく、と反応する。その一言で、イリスの『愛人令嬢』の噂が彼の耳にも届いていることを思い知る。
だがブルーノはイリスの噂にはさほど興味がないらしい。冷たい視線が、イリスだけではなくクリフとローラにも向けられた。
「今宵の夜会はジェラルド殿下のご生誕を祝うための催しだ。国内はもちろん、国外からも多数の賓客が出席している。殿下の祝いごとに水を差す言動は厳に慎んで頂きたい」
ブルーノの叱責はごもっともだ。今夜はルファーレ王国の第一王子・ジェラルド=ルファーレ王太子殿下の二十五回目の生誕祭。国内外から多くの王侯貴族がこのルファーレ王宮へ集い、皆ジェラルドへ祝いの言葉をかけては、贈り物を捧げている。
そんな中でくだらない痴話喧嘩などすべきではない。騒ぎが大きくなれば自分たちよりもジェラルドが、そしてルファーレ王国全体が品格を問われることとなるのだ。
「申し訳ございませんでした」
ブルーノの苦言を重く受け止めて深く反省したイリスは、すぐさま謝罪の言葉とともに頭を下げた。
しかしクリフとローラは不満げな様子である。
「違うのです、ブルーノさま! これはすべてイリスさまが……!」
「そうです閣下! 我々は何も……」
即座に陳謝したイリスと異なり、ローラとクリフはとにかく責任逃れに必死の様子だ。
ブルーノの苦言を無視して、騒ぎの全責任をイリスになすりつけ続けようとする二人に驚く。だがイリスが口を開くよりも早く、ブルーノが苛立ちを露わに声のトーンを下げた。
「聞こえなかったのか? それとも、王太子殿下の顔に泥を塗るような行動や見苦しい真似はやめろ、とすべて言葉にしなければ、伝わらないのか?」
不機嫌を隠そうともしないブルーノの表情と声に、イリスの背筋が凍りつく。ブルーノの横顔を確認すると、銀髪の隙間から覗くこめかみに青筋が浮き出ている……ように見える。相当お怒りのようだ。
不快を露わにしたブルーノの問いかけに、ローラもクリフもようやく黙り込む。だが若き宰相の判断は、思ったよりも早かった。
「ウォーリー伯爵令息とセルデン子爵令嬢には今すぐこの場から退場し、そのままご帰宅願おう」
「えっ……!?」
「は……えぇっ!?」
一切の容赦なくばっさりと切り捨てられた二人が、絶望の表情で驚愕の声をあげる。実に不満げだ。
だがこの場においてブルーノの命令は絶対である。今夜の催しの主催が国王陛下であることは言うまでもないが、現場を取りしきる進行、統括、および管理責任は、宰相・ブルーノ=マスグレイヴに委ねられている。つまり彼に『退場』を命じられれば、何人たりとも退場するほかないのだ。
たとえそれが、王太子の生誕祭という盛大かつ華やかな夜会であったとしても。若い貴族の子息令嬢には何よりも重要な、上流貴族や他国の権力者とお近づきになれる絶好の機会だったとしても。
「二人を正門まで」
「そんな、宰相閣下……!」
「ブルーノさま! 私の話を……!」
近衛騎士に指示を出すブルーノに縋りつこうとする二人だが、彼にはもう意見を聞くつもりなどないらしい。二人の声を拒否するように顔の横で手を振ると、傍にやってきた数名の騎士がローラとクリフにそっと退場を促す。
これ以上騒ぐとさらに状況が悪化すると悟っただろう。観念した二人は警備の騎士に連れられ、とぼとぼと大広間を後にしていった。
(……解決、してしまいました)
のんびりとしていて平和主義な王族一同とバランスをとるかのごとく、宰相であるブルーノは冷酷で堅物な人物であると聞く。実際に対面するまでは人伝てに聞くのみだったが、どうやら彼は本当に『王室の権威』と『仕事の効率』を最優先に物事を判断する性質のようだ。噂の通り、怒らせてはいけない人物なのだと思い知る。
強制退場命令こそないとはいえ、イリスもこの騒ぎに関わった当事者だ。ならば祝いの場に騒ぎを招いた責任を取って、イリスもこの場を辞すべきだろう。
「それでは、私も失礼いたします」
「待て」
頭の中で『離れた場所にいる友人たちに帰宅の旨を伝えてこなければ……』と考えながら膝を落とす。しかし再度の礼を終える前に、イリスはブルーノに呼び止められていた。
「イリス嬢。君は俺について来てくれ」
「え……」
視線とたった一言の台詞で、全身に再び緊張が走る。喉元に鋭い刃を突き立てられた気分を味わう。
まさかの『ついてこい』という命令を受けてしまった。やはりこれだけの騒ぎを起こしておいて、イリスだけ無罪放免というわけにはいかないらしい。
(私だけ、お説教を受けるのでしょうか……!?)
退場を命じられて今夜限りの謹慎で済むのなら、ローラとクリフの罰はむしろ〝軽い方〟なのかもしれない。しかしこの流れ……イリスはおそらく〝重い方〟だ。イリスには一体、どんな罰が与えられるのだろうか。
(申し訳ございません、お父さま。とうとう大きなご迷惑をおかけしてしまう日が来てしまった……かもしれません)
強引に腕を掴まれたり、後ろから近衛騎士にせっつかれているわけではない。だがブルーノの纏うぴりりと冷たい空気には、有無を言わせない威圧感がある。
結局、イリスもブルーノの背中を追いかけて大広間を立ち去ることとなるのだった。




