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14話 偽恋人のはずが、甘々です


「はあぁ……本当に素敵です……」


 ブルーノは会議、ギルバートも彼のおつかいで不在のため、宰相執務室にはイリスの他に誰もいない。頼まれた書類は完成したが、次の仕事は明後日から書き始める予定になっており、まだ正式な指示がないので今すぐは着手できない。


 ――という時間的に余裕があるのをいいことに、自身の机の上にぺたりと頬をつけて小瓶の中をうっとりと覗き込む。


 もちろんそれが貴族令嬢にあるまじきだらしのない姿であることは、十分に理解している。だがブルーノから贈られたこの美しいインク瓶を前にしたイリスは、実に無力だ。


 色んな方向から眺めたい。光に当ててみたり、揺らしたり振ったりしてみたい。その欲求に抗えない。ただの筆記用インクなのに、魔性の魅力があるように感じてしまう。


「こうしてみると、黒色に見えます……」


 光が当たらない状態で小瓶を真横から見てみると、中に入った液体は黒色に見える。イリスだけではなく、おそらく誰もが『このインクの色は黒だ』と答えるだろう。


「でも角度によっては赤色にも見えて……きらきら光ってて……」


 しかしインク瓶を高く掲げて光に当ててみると、ガラスの底に沈むインクの色は甘酸っぱくてみずみずしい木苺色にも見える。さらにその瓶を揺らすと中で金色の粒子が流動して、煌めく濁流を作り出す。


「はぁ~……きれい……!」


 小瓶の中を覗いては感嘆する。それを休憩時間のたびに、何度も何度も繰り返している。この二週間、ずっとだ。


 ちなみにブルーノにもらった羽根ペンは、クロムウェル邸の自室の引き出しの奥に大切にしまってある。本当はブルーノの言うように道具は積極的に使ってこそだと思うが、万が一ペン先が折れたり歪んだりしたら、ショックで立ち直れない気がする。


 だから大事に……それはもう本当に大事にしまってあるのだ。ブルーノに知られたら、呆れられてしまいそうだけど。


 羽ペンを大切にしまっておく代わりに、インクはこの宰相執務室にあるイリス専用の机の上に置き、主に眺めて楽しむ用、たまにメモ書きやブルーノへの伝言用に使っている。


 小瓶の中では黒色に見えるインクだが、実際に文字を書いてみると、やはり赤の色彩が強く出る。さらに書いた文字にも金色の粒子が混ざるため、このインクを公的な文書に使うことはできない。


 だが自分用のメモやブルーノへの書き置きといった私的なものには好きに使えるので、イリス専用の特別なインクとして、範囲を限定して使わせてもらっているのだ。


(おかげでこの二週間、ここへ来ることが楽しみで仕方がありません)


 週に三回ないし二回、イリスはこの宰相執務室でブルーノの仕事を手伝っている。もちろん元々嫌ではないけれど、ブルーノに羽根ペンとインクを贈られてからは、ここへ来る日が本当に楽しみでたまらない。彼の言うように、甘いおやつにつられて仕事が楽しくなるよう仕向けられている気分だ。


(ブルーノさまは、女性への贈りもの選びが上手なのですね)


 イリスがこんな風につられてしまうのは、ブルーノが相手を喜ばせる術を心得ているからなのだろう。今は忙しくて恋人がいないのかもしれないが、あの美貌と意外にも優しい性格、さらに家柄や地位まで完璧なのだ。周囲には融通の利かない堅物宰相だと呼ばれているけれど、実は女性にモテモテだった、と言われても不思議ではない。


「……?」


 ブルーノの女性関係に想いを馳せると、急に胸がちくりと痛んだ。小さな棘を飲み込んで喉に引っかかってしまったような、針で胸を突かれて痛みと苦しみを同時に味わうような……表現できない息苦しさに襲われる。


「……そろそろ、帰りの時間ですね」


 はあ、と息を零しながら時計を見遣ると、イリスの仕事が終わる時間が近づいてきていることに気づいた。


 終了時刻になってもブルーノもギルバートも執務室に戻らない場合、イリスは勝手に帰っていいことになっている。もちろん本来は挨拶をしてから帰宅すべきところだが、多忙な二人を待っていると数時間先まで放置、なんてことも普通にあり得るからだ。


「こうしておけば、伝わるはずです」


 そういうときこそ、イリスはプレゼントされたインクを使ってブルーノやギルバートへ書き置きをすることにしている。


 不在時に帰宅することへの謝罪、頼まれていた仕事の進捗状況の報告、そして次回ここへ来る予定を記して、書類と一緒に自身の机の引き出しの中へしまい込む。こうすることで依頼された大事な書類や手紙が風に飛ばされたり、誰かに間違って持ち去られることがなくなるだろうと考え、ブルーノとギルバートと話し合って決めた申し送りの方法だ。


 引き出しを締めて椅子から立ち上がる。するとちょうどそこへ、会議に出ていたブルーノが宰相執務室へ戻ってきた。


「ブルーノさま。お疲れさまです」

「ただいま、イリス」


 ブルーノがイリスの顔を見て安堵したように微笑む。だがよく見ると少し息が切れている。きっと急いで戻ってきたのだろう。


 しかしそこまで大慌てで戻らなくても、メッセージさえ残せば連絡事項はしっかりと伝達できる。イリスも一人で帰宅できるというのに。


 疲労を逃がすようにソファに腰を下ろしたブルーノの傍に寄り、口頭で作業の進捗を報告する。


「貴族院中央議会よりお預かりしておりました、定例会議の参加者名簿の写しは、お名前順で一覧にいたしました」


 まずはブルーノの通常業務に関わる報告から。


 多忙なブルーノは定例会議に参加する貴族たちをその場で逐一確認しないが、数か月単位で参加者名簿を俯瞰してみると、欠席してばかりの者や代理人に参加させてばかりの者、逆に毎回必ず自身で出席する勤勉な者など、貴族たちの勤怠が把握できるという。よってブルーノは中央議会から定期的に参加者名簿を借りてきては自分の手元にもその記録を蓄積し、有事の際の人員配置や重要な役割へ推挙する際の参考にしているらしい。


 イリスが頼まれたのはその記録の写しだが、書き写しているうちにブルーノが問題視している人物の見当がついてしまうことに、密かにゾッとする。言われた仕事を黙々とこなすことに集中し、必要以上に踏み込まないようにしよう、と心に決めるイリスだ。


「レティード公爵家主催のお茶会への『不参加』のお返事と、第三都市の都市開発会議への『出席』のお返事も、終わっております」


 次はブルーノの元へ届いた招待状への返事について。


 レティード公爵家はイリスが苦手なミハエル=レティードの生家だが、そこから届いたお茶会への招待は、丁重にお断りするらしい。こちらもイリスは特別な感情を抱かず、ブルーノから『不参加』で返事を書いてほしいと言われたので、その通りに返信を記した。


 それに対し、ルファーレ王国第三都市の都市開発会議への参加には前向きらしい。本来は使節団を編成・派遣して済ませるところだが、ブルーノ個人としても進捗をしっかりと把握したいらしく、移動に馬車で丸二日かかるにもかかわらず、迷わず『出席』の返答を記すようイリスに依頼してきた。イリスはそれも淡々とこなすのみ。


「国王ご夫妻のご旅行の行程表については、現在六割ほどまで清書を終えております」


 そして最後は、国王夫妻の結婚三十周年記念旅行の件。これは本来であれば王室の管理担当が準備にあたる部分だが、国王と王妃の希望や要望をすべて盛り込む、という面倒事に音を上げた彼らは、早い段階でブルーノにすべてを丸投げしてきたらしい。


 頭を抱えたブルーノからたまに参考意見を求められるが、あいにく旅行の経験がほとんどないイリスなので、役立つ助言はできそうにない。だが名案を出せない代わりに、請け負った依頼は他の案件より早めに進行するよう努めている。そんなイリスの現在の作業は、旅行の日程をまとめた工程表の清書だ。


「このペースですと、来週中には完成できると思います」

「ずいぶん仕事が早いな?」

「手は抜いておりませんよ?」

「もちろん、わかってる」


 ブルーノが楽しげに返答してくるので、疲れて忙しそうでもイリスをからかう余裕はあるのだな、と思う。


 つい、むぅ、と頬を膨らませるイリスだが、ともあれこれで報告も終わりだ。


(不要になってしまいましたね)


 引き出しから作業を終えた書類を取り出してブルーノに手渡すと、一番上にあったメモだけ取り除く。ここに書いてあることはすべて口頭で説明したので、書き置きは必要がないとの判断だ。


「! おい、勝手に処分するな」


 ところが一番上の紙を縦に裂こうとした瞬間、ブルーノが背もたれから身体を離して、慌てたようにイリスの手首を掴んで行動を制止してきた。やけに必死な様子にびっくりして、思わず「えっ?」と声が出る。


「こちらはただの書き置きです。口頭ですべて説明いたしましたので、もう必要はないかと……」

「イリスが俺に宛てたメッセージだろう。ならそれは、もう俺のものだ」

「……? あの……?」


 イリスの手から奪い取った紙を、書類と重ねて自身のデスクの上まで遠ざける。ただのメモに俺のものも何もないのでは……と不思議に思っていると、振り返ったブルーノに首を傾げられた。


「もう帰るのか?」

「はい。本日の作業は終了いたしましたので」


 イリスの返答に、ブルーノが「そうか」とため息を零す。その表情が少し残念そうに見えたので、


「ブルーノさまは、お疲れのようですね」


 と訊ねてみると、こちらをちらりと見たブルーノが低く頷いた。


「ああ、疲れた。すごく眠い。……だからイリス、君の膝を貸してくれ」

「え……? ……わ!」


 思いがけない命令に仰天する。あまりに唐突だ。


 しかもイリスが返答の台詞を口にする前に身体を引っ張られ、ソファの端へ座らされてしまう。さらにあわあわとしているうちに本当にブルーノが膝の上に頭を乗せてきたので、イリスはただ緊張に強張るしかない。


(と、突然、なぜ……!?)


 意味がわからない。仕事で疲れたにしても、休むのなら人の膝の上ではなく普通にソファに横になった方が心身ともに休まると思う。それにイリスをクロムウェル邸まで送ってくれるルファーレ王宮の馬車係にも、今日の作業は正午までと伝えてある。その終了予定時刻まで、あと少しなのに。


「十五分経ったら起こしてほしい」

「ブルーノさま……!」


 一方的にそう宣言したブルーノが、すぅ、と吸った息を細く吐きながら目を閉じる。そしてそのまま、本当に寝息を立て始めてしまう。


(ね、寝てしまった……! 私の膝の上で……!?)


 先ほどまでの会議で相当疲れたらしい。だから最初は混乱したイリスも、それがブルーノの望みなら、と大人しく膝を貸すことにする。作業の終了予定と言っても毎回時間ぴったりに終わるわけではないので、十五分程度なら馬車係も許容してくれるだろう。


「……」


 これまでの人生で、枕として身体の一部を他人に貸した経験はない。だが下手に動けば寝にくいかもしれない、ブルーノが目覚めてしまうかもしれない……と、彼が安眠を得ることを自然と優先してしまう。そんな自分に驚くけれど、一番驚いているのはやはりブルーノの行動だ。


(最近のブルーノさまは、様子が変です……)


 イリスに笑顔を向けてくれることが多くなった。贈りものをしてイリスを喜ばせようとしてくれたり、苦しみや悲しみを察して寄り添ってくれる優しさも感じられる。頭を撫でられたり、こうして膝枕を求められたり、触れ合う機会も増えたと思う。


 少しずつだが、ブルーノとの距離が近づいているように感じられる。


 だがそれと同時に、急に不機嫌になることも増えたように思う。たとえばミハエルとエリックにも愛人だと勘違いされたとき。ギルバートからクッキーの贈りものをもらったとき。イリスがデート『みたい』と口にしたとき……。


(も、もしやブルーノさまは、私の演技が下手すぎて呆れていらっしゃる!?)


 彼が不機嫌になったときのことを思い出してみて、ふと気がつく。


 改めて考えてみれば、どれもイリスに『ブルーノ=マスグレイヴの恋人役としての自覚が足りない』ときだ。簡単に愛人だと言われてしまうのも、恋人以外の男性からプレゼントをもらうことへの配慮が足りないのも、誰が聞いているのかもわからない場所でデート『みたい』と口にしてしまうことも、イリスに恋人役に徹する心構えが不足しているがゆえだ。


 それではたしかに、怒られて呆れられても仕方がない。


(ブルーノさまの演技はいつも完璧です。誰も見ていない場所であっても、こうして触れ合いの演技を求めるぐらい、恋人役を徹底しています)


 そう思えばブルーノの突然の行動の理由もわかるし、急に不機嫌になってしまうことの辻褄も合う。いつでも、どんなときでも、どんな役割でも決して手を抜かないからこそ、ブルーノ=マスグレイヴは有能で完璧な宰相閣下なのだ。


(私も、頑張らなくては……!)


 ブルーノの偽りの恋人役を貫くために。


 せめて春の終わりまでは、もっと恋人役としての自覚を持たなければ、と気を引き締め直すイリスだった。



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