11話 恋人デートをすることになりました
「ブルーノさま、今日は顔色がよろしいですね」
「ん?」
ブルーノに依頼されていた報告書の下書きが終わったので、確認してもらうために彼のデスクの前に立って、ふと気がつく。今日のブルーノはいつもより血色が良く、心なしか表情も明るいように見受けられる。
「ああ、そうだな」
下書きを受け取ったブルーノが、イリスの顔を見上げて小さく微笑んだ。
「最近イリスが色々と手伝ってくれるおかげで、俺も早く仕事を切り上げられる。睡眠時間が確保できるからか、頭もすっきりしていて仕事がスムーズに進む。そしたらまたゆっくり眠れる。いい循環だな」
ブルーノの説明に「なるほど」と納得する。確かに、最近のブルーノは座りっぱなしのまま数時間まったく動かない、という状態が減ったように思う。
もちろん、収税関係の多忙のピークが過ぎたことも理由の一つだろう。だが彼の言うように、イリスが簡易帳簿の書き直し作業を進めるのと並行し、国王陛下夫妻の結婚三十周年記念旅行の行程表作成に着手したことも大きいのだと思う。負担が分散したことで仕事が早く終わるぶんゆっくりと休める時間が増えたようで、特にこの二~三日ほどのブルーノは、顔色も機嫌もすこぶる調子が良い。
「イリスに感謝してる。ありがとう」
「いえ、そんな! 私は全然……」
こうしてブルーノに優しい笑顔を向けられると、どきどきと緊張する。真っ直ぐな視線と言葉で褒められると、照れて恥ずかしくなってしまう。
動揺を悟られないよう慌てて手と首を振るイリスだが、遠慮がちな返答は別の人物に掬い取られた。
「僕もイリスさまに感謝しておりますよ」
「!」
先ほどまで別の部屋で仕事をしていたはずのギルバードだが、開けっ放しになっていた扉からいつの間にか入室してきていたらしい。声がしたので振り返ってみると、ギルバートが応接テーブルの上にまた新しい資料を置いているところだった。
「仕事そのものもスムーズになりましたが、ブルーノさまの機嫌が良いと僕の労働環境も改善します。イリスさまがいらっしゃるようになってから、日々の作業がそれはもう快適になりました」
ギルバートの語り口調から察するに、普段のブルーノは相当な不機嫌顔で仕事をしているらしい。イリスの来訪や手伝いとブルーノのご機嫌の因果関係は不明だが、忙しさのあまり眉間に皺が寄っていくブルーノの姿は容易に想像できる。心の余裕の有無は表情に出やすいのかも……と考えていると、近付いてきたギルバートがイリスの隣に並び立った。
「というわけで、ブルーノさま。僕からイリスさまに、感謝の贈り物をしても良いでしょうか?」
ギルバートが目の前のブルーノに意外な質問する。
意外な宣言に「え?」と声が出るイリスだったが、彼の質問の意図が理解できないのはブルーノも同じだったらしい。突然の部下の問いかけに、ブルーノも不思議そうに首を傾げた。
そんな二人の表情を交互に確認したギルバートが、少し呆れたようなため息をつく。
「一時的とはいえ、恋人なのでしょう? 上司の恋人に勝手に贈り物をすれば角が立つので、先に許可を求めているのですよ」
確かに、彼の言う通りだ。恋人がいる異性に許可なく贈り物をしたとなれば、後々トラブルに発展する可能性もある。身に覚えのない噂に振り回されることが多いイリスも、日頃から贈り物を送ったり受け取ったりする際は少々気を遣っている。
ギルバードの配慮と懸念を酌み取ったブルーノが、納得したように数度頷いた。
「いいんじゃないか? イリスが困るものじゃないのなら」
「ありがとうございます」
ブルーノが許可を出すと、ギルバートがにこりと笑顔を作る。そのままくるりと後ろへ振り向くと、つい先ほどテーブルの上に置いた資料の一番上から、一冊の赤い本を持ち上げた。
しかし分厚い本だと思ったそれは、実は本ではなく木の箱だったらしい。ギルバートが、その箱をイリスの目の前に差し出した。
「ではイリスさま、これをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ブルーノから『もらっていいぞ』と視線で合図があったので、ギルバートからの贈り物を素直に受け取る。
手にしてみると案外軽い木箱は、広い面の片側が開閉できる蓋のようになっている。それをパカッと開いてみると、中には可愛い花や動物の形をした色とりどりの焼き菓子が並んでいた。
「わぁっ……かわいい……!」
思わず声が出てしまうと、ギルバートがくすくすと微笑んだ。
「色も形も様々ですが、こちら実は、すべてクッキーなんです」
「えっ……そうなんですか!?」
「卵白と砂糖で作ったクリームに葉の汁や花の蜜を混ぜたものをクッキーに塗ると、こういった彩りのものが作れるらしいですね」
「す、すごいです……!」
ギルバートの説明に思わず感嘆してしまう。
アイシングクッキーと呼ばれるものの存在は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。流行に敏感な友人・ミシェルが『色が鮮やかすぎるわね』と言っていたので、最初に聞いたときは『本当に食べても平気なのだろうか?』と思っていた。だがこうして見るとほんのりと可愛らしい色合いだ。それが葉や花の成分によるものなら、口にしても問題はないだろう。
「今、王都で流行しているそうですよ。妹にねだられて買いに行ったんですが、たまたま多めに買えたので、イリスさまもぜひ」
「あ、ありがとうございます……!」
ギルバートには妹がいるらしい。その妹にお願いされて足を向けた洋菓子店で、人気のクッキー詰め合わせを運よく複数入手できたので、日頃の感謝の代わりにイリスにも贈ってくれるという。
ほわほわとした気持ちで受け取ったクッキーを眺めたイリスは、さっそくこれを食べてみたいという気持ちに駆られた。もうすぐ休憩時間なので、タイミングもちょうどいい。
「ブルーノさま、一緒に頂きませんか?」
顔を上げてブルーノにも声をかける。ブルーノは何か考えごとをしていたらしく、無表情のままこちらをじっと見つめていたが、イリスの声でハッと我に返ったようだ。
「……そうだな」
「では、お二人の紅茶をお淹れしますね」
「ありがとうございます」
ブルーノの承諾を聞いたギルバートが、一礼するとそのまま宰相執務室を後にしていく。
ギルバートの紅茶を待つ間、イリスは応接テーブルの上に積み上げられている資料を一旦自分のデスクの上へ移動させて、テーブルを綺麗に片付けておくことにした。ブルーノも自身の席から立ち上がってぐっと身体を伸ばすと、応接ソファに近づいてきてそこに腰を落ち着ける。
「イリス」
資料を退けた場所にレースのクロスを敷いていると、ふとブルーノに名前を呼ばれた。その声に少し元気がないように感じて顔を上げてみると、ソファの肘掛けに頬杖をついたブルーノがイリスを静かに見つめていた。
「近いうちに一日休みを取るから、俺と一緒に街へ出かけないか?」
「……え?」
いつもと同じ無表情だが、少しだけ不機嫌にも見える。
だから何を言われるのだろうと身構えたイリスだったが、彼が口にしたのは意外な提案だった。イリスの動きがぴたりと止まる。
「歌劇場で会ったときから考えていたんだ。俺たちは、恋人同士であることを周りにもっとアピールしてもいいかもしれない。俺はともかく、イリスは『愛人ではない』『きちんとした恋愛ができる令嬢だ』と周囲に認識されなければ、意味がないだろう?」
フロイド歌劇場でブルーノと会った夜から、二週間ほどが経過した。
あの夜、ブルーノはイリスに迫るミハエルやエリックに『自分たちは恋人同士だ』と宣言してくれた。ブルーノの一言を耳にすると、二人はすぐに身を引いてくれた。その様子を目の当たりにしたブルーノも、自分たちが恋人同士であるという主張がイリスを取り巻く環境を変えられる、と確信したのだろう。
「だからもう少し人目につく場所に出かけてみてはどうかと思う。どうせやるなら、俺たちが恋人同士だともっと積極的に示すべきだ」
「……」
ブルーノの主張は一理ある。イリスとブルーノが偽りの恋人となったのは、ブルーノの元へ次々と舞い込む縁談を退けるため、そしてイリスが不道徳な色恋を重ねる『愛人令嬢』などではなく、真面目な恋愛をしている普通の女の子であることを周囲に理解してもらうためだ。
期限が設けられているのは、この期間がブルーノの最も多忙な時期、つまり互いの利害が完全に一致する期間であるため。それ以降はブルーノにとって意味がない……とまでは言わないが、無理に偽りの恋人を演じる必要はなくなる。
次の春の終わりにはこの関係を解消する。ならばイリスはそれまでの間に、少しでもマイナスイメージを払拭しておかなければならない。ブルーノとの関係を上手に『利用』することが、イリスのために協力してくれているブルーノの恩に報いることとなるのだ。
だから一緒に街へ出かける、という提案に乗るのもやぶさかでない。ただ、それがどこまで効果があるのかはわからない。歌劇場の時と違って、特に見せつけるべき相手が存在するわけでもないし、二人の様子を窺うギャラリーがいるわけでもないのだ。
とはいえせっかくのブルーノの提案だ。決して暇ではない彼が、わざわざ休みを取ってまでイリスと一緒に出かけてくれるという。もちろん一緒に出掛けること自体が嫌だというわけではないし、彼にも何か目的や意図があるのかもしれない。
それならば、とイリスも彼の考えを受け入れると決める。
「かしこまりました。ではぜひ、ご一緒させてください」
「ああ」
ブルーノの提案に乗ると答えると、彼もしっかりと頷いてくれる。
「行き先は俺が考えておこう」
「はい」
さらに付け加えられた台詞に返事をしてからふと、彼の機嫌が元に戻っていると気がつく。それどころか、先ほどまでよりもむしろ上機嫌に感じられた。
ブルーノのご機嫌な表情を見ているうちにイリスも休日が楽しみになってきたが、ブルーノと向かい合うようソファに腰を掛け、再度クッキーの蓋を開けたところで、はた、と現実に戻った。
再びイリスの動きが止まる。
「? どうした……?」
「あ……。いえ……その……」
イリスの停止に気づいたブルーノに声をかけられる。しかし急に恥ずかしさを感じたせいで、顔が上げられない。その理由をはっきりと口にするのさえ恥ずかしい。
「で、デートみたいだな……と思いまして……」
「……。……そうだと言ってるんだが……」
イリスがぼそぼそと口にすると、ブルーノがはぁ、と大きなため息をついた。




