10話 意外な人に迫られました
ブルーノの導きに従って足を踏み入れた場所は、舞台の真正面に位置する広めの個室だった。
特別個室は劇場内でも特に高い場所にあり、しかも一般席の上に張り出しているため、他の観客の姿は一切視界に入らない。目の前には手すりがないので大きく身を乗り出すと階下へ落ちてしまいそうだが、その代わり視界を遮るものがなにもないので、座ったままの状態で舞台の隅々をまんべんなく見渡せる。
室内には大きなふかふかのソファが一つと、その両側に一人掛けの小さなソファが一つずつ置かれている。絨毯は深いエンジ色、壁や柱には黒い暗幕が垂れており、まだ開演前で劇場内は明るいにもかかわらず、ここはすでに薄暗かった。
その薄闇色の個室から劇場を見下ろしていたのは、金色の長い巻き髪に黒いドレスと黒いロンググローブを身に着けた、輪郭と唇の形がブルーノによく似た美しい女性だった。
女性はきらきらと目を輝かせて開演の準備が進む舞台を見つめていたが、ブルーノとイリスの入室に気づくと、はっとしたようにこちらへ振り向いた。
「ブルーノ、遅かったじゃない。一体なにを……」
想像以上に高く澄んだ声が、ブルーノの遅参に文句を言う。しかしその声は途中でぴたりと停止し、振り向いた女性の青い瞳はブルーノ……ではなく、隣にいたイリスへ向けられた。
一瞬空気が止まる。しかし金髪の女性は、すぐにぱあぁっと目を輝かせた。
「ブルーノ!? この可愛い子はだれ……!?」
「母上にも話したでしょう。彼女は春まで俺の恋人役を務めてくれることになった、クロムウェル伯爵家のイリス嬢です」
「まあぁ……!」
ブルーノの紹介を耳にすると、母上、と呼ばれた女性が驚いたような声を発した。
どうやらブルーノは、自身の母親にも偽りの恋人を持った事情と経緯を伝えているらしい。ギルバートと同じく本当の関係を隠すために嘘をついたり、本物の恋人を装う演技をする必要がないのは、ありがたいことだ。
だがそれが期間限定だとわかっていても、偽りの関係だと知っていても、イリス自身を好ましくは思わないかもしれない。黒髪に垂れ目で口元にほくろのある野暮ったい外見の令嬢など、かりそめであったとしてもブルーノには不釣り合いだ、と言われてしまうかもしれない。
手厳しい反応も覚悟していたイリスは、女性がソファから立ち上がってこちらに近づいてきたことで、さらに強い緊張感を覚えた。それでも挨拶だけは丁寧にすべきだと考え、ドレスの端を摘まんでそっと足を後ろへ引く。
「お初にお目にかかります。クロムウェル伯爵家のイリス=クロムウェルと申します」
「イリスちゃんね! はじめまして、ブルーノの母のアーシャ=マスグレイヴよ」
アーシャと名乗ったブルーノの母は、ドレスを持ち上げて膝を落とそうとしたイリスの手を取ると、挨拶をする前にイリスの腕を上下にぶんぶん振り回してきた。女神の彫像のような美しさからは想像しにくい元気な挨拶をされ、思わず面食らってしまう。
しかしイリスの困惑をよそに、アーシャは楽しそうな笑顔だ。どうやら彼女は堅苦しい礼儀よりも、親しみのある挨拶を好むらしい。イリスと目を合わせるとさらに嬉しそうににこにことはにかまれ、その笑顔に再び見惚れてしまう。
(なんて美しい方なのでしょう……。お母さまというより、お姉さまのようです……!)
現在二十五歳のブルーノの母親ということは、少なくとも四十歳は超えているはずだ。その割に肌はつやつやと輝き、髪はうるうると艶めき、瞳はきらきらと煌めいている。皺やたるみといった加齢による変化を微塵も感じさせないばかりか、ブルーノと同年代だと言われたら信じてしまうほど若々しく見える。
「イリスは友人と来た、と言っていたな?」
「はい」
「本当は今すぐ友人たちのところへ送ってやりたいが、通路にはまだ人が多い。それに先ほどの者たちに会うのも面倒だ。悪いが、幕間まではここにいてほしい」
ブルーノに問われて思い出す。
とりあえずミハエルとエリックからの避難は叶ったが、その代わり、友人であるミシェルとユリアとは完全に離れてしまった。せっかく三人で楽しむつもりだったのに、と残念な気持ちもあるが、確かに今すぐ友人たちと合流することで、ブルーノと別行動しているところをあの二人に見られるわけにもいかない。恋人とデートに来たという演技で切り抜けた以上、ここでまた見つかってはせっかくの彼の気遣いが水の泡だ。
「かしこまりました」
「座席はわかるか? 伝言をさせよう」
「ありがとうございます。申し訳ございません」
扉の外に控えていたのはマスグレイヴ家の執事らしい。ブルーノがたった今閉めた扉を再び開けると、すぐ傍に立っていた初老の男性にバルコニー席の番号とイリスの友人たちへの伝言を託す。ブルーノの指示を受けた男性は、すぐに会釈をしてミシェルとユリアの元へ向かってくれた。
(急にマスグレイヴ公爵家の執事が現れたら、ミシェルとユリアも驚くでしょうけど……)
イリスは今夜、友人たちに近況の報告をするつもりだった。彼女たちはイリスが自分の容姿と不名誉な噂のせいで苦労していることを知っていたし、辛いときは相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いてもらうこともあった。だからそれが『期間限定の』『偽りの』恋人だったとしても、イリスの暗鬱な日々に光明が差したことを、自分の口から伝えたかったのに。
仕方がない。自分の思い通りに物事が進まないのは世の常だ。
ブルーノが伝言を頼んでいる間にアーシャからソファに腰を下ろすよう促されたので、ポシェットを肩から降ろして彼女の指示に従う。ふかふかのソファに自分なんかが腰をかけていいものかと不安になったが、お尻の位置が落ち着く前にもっと挙動不審になるような言葉をかけられた。
「ねえねえ、期間限定の嘘の恋人ってお話、本当なの?」
アーシャの質問にどきりとしたが、どうにか「はい」と頷く。するとイリスの隣に腰を下ろしたアーシャが、つまらなさそうに唇を尖らせて首を横へ傾けた。
「イリスちゃん、ブルーノと本当の恋人になって、そのまま結婚するつもりはない?」
「えっ……?」
突拍子もない問いかけに思わず変な声が出る。
突然何を言い出すのだろう、と固まってしまう。
思いもよらない提案に、なんと返答すればいいのか困ってしまうイリスだったが、ちょうどそこに執事へ伝言を頼み終えたブルーノが戻ってきた。
「母上、止めてください。イリスが困っています」
イリスの困惑を感じ取ったらしい。ブルーノがすぐにアーシャを制止してくれるが、彼女は息子の諫言をあっさりと無視する。
「ブルーノったら、全然いい子を紹介してくれないんだもの。はじめて連れてきた相手が『期間限定』で『偽の恋人』なんてつまらないわ」
「俺の話聞いてます?」
「仕事ばかりで何の面白味もない子だけど、快適な生活は保障するわよ? 私とも別居で構わないし、子どもだって無理には……」
「母上、いい加減にしてください!」
ブルーノの忠告を無視してイリスにぐいぐいと迫ってくるアーシャも、最初のうちは穏やかな口調だった。しかしアーシャの誘い方があまりにも大胆になってきたので、さすがのブルーノも困ったらしい。はぁ、とため息をついたブルーノが、イリスに向かって手を差し出した。
「会わせたのが間違いでした。イリス、ここを出よう」
「やーん、待って待って! もう詰め寄らないから! 大人しくするからぁあ~!」
ブルーノに睨まれたアーシャが、イリスの身体をひしっと抱きしめてイヤイヤと首を振る。新しいおもちゃをいきなり取り上げられそうになったアーシャは、必死な駄々っ子のような仕草でブルーノの行動を阻止し始めた。
なら大人しくしてください、と叱られたアーシャが、むぅ、と唇を尖らせる。どちらが母親なのかわからない、と思ってしまうイリスだ。
「ごめんね、イリスちゃん。気を悪くさせてしまったわね」
アーシャに謝られたイリスはふるふると首を振ると、
「とんでもございません。ブルーノさまとアーシャさまが仲良しだと知ることができて、とても嬉しいです」
と笑顔を作った。
その感想は嘘ではない。クロムウェル家も家族仲が良く、両親も仲睦まじいし、イリスも妹のアリスと仲が良い。姉妹はふたりとも両親を尊敬しているし、両親も娘たちを溺愛してくれている。執事やメイドとの関係も良好なので、ブルーノとアーシャの親子仲が良好であることも素敵だと思うのだ。
「……可愛いわ」
イリスをじっと見つめていたアーシャが、イリスの腕を掴んでいた手をそっと解いて、反対側の肘掛けによろよろと寄りかかる。右手で口元を押さえて左手で自身の胸をぎゅっと握り、ほう、と熱っぽい息をついているのに声はなんだか嬉しそうなので、それは一体どういう感情なのだろうと疑問に思う。
だが考えてもわからないだろう。ブルーノにヒントを求めてみたが、目が合った彼も肩を竦めながらソファに腰を下ろしているので、きっと正解がわからないのだと思う。実の息子さえ理解できない感情を、他人のイリスがわかるはずがない。
そうこうしているうちに劇場内の照明がフッと一段階暗くなる。まだ上演本番ではないため真っ暗ではないが、これが観客に着席を促す合図となるのだ。
ずっと楽しみにしていた歌劇が観れる高揚感、ミシェルとユリアと一緒に楽しみたかった寂しさ、ブルーノとアーシャと共に特別席で観るという緊張、上演前から気忙しかったせいですでに感じている疲労……そのすべてを胸に抱いてドキドキしていると、イリスの横顔をじっと見つめたアーシャがぽつりと呟いた。
「ブルーノはね」
先ほどと比べて少し声に元気のないアーシャの様子が気になり、イリスも視線を上げて彼女の顔を見つめる。
「亡き父――私の夫であるアイザックの後を継ぐために、幼い頃から必死すぎるぐらい勉学に励んできたわ。おかげで頭の出来は悪くない子に育ったけれど、若くして宰相の地位に就いてしまったばかりに、苦労も多いの」
アーシャが語り始めたのは、息子のブルーノを案じる母としての感情だった。
真剣な表情と声から、アーシャがイリスになにか伝えようとしているのだと察し、ごくりと息を呑む。
「もうハゲかけてるわ」
「イリスに嘘を教えないでください。俺の毛根は健康で頑丈です」
アーシャの指摘を耳にしたブルーノが、間髪入れずに訂正してくる。そのやりとりに、つい視線を逸らして肩を震わせてしまう。今ブルーノの顔、特に半分から上を見たら盛大に笑ってしまう気がしたので振り返らなかったが、息子をからかう台詞の裏側にアーシャなりの愛情が隠れていることは感じ取れた。
「冗談はさておき、私はブルーノの味方になってくれる人がいるだけで嬉しいの」
アーシャがふふふ、と微笑むので、イリスもこくりと頷く。一見すると姉のようだと思うほど若々しいアーシャだが、こういう表情は紛れもない母親の顔だ。
「二人の約束に私が口を挟むことはできないけれど、ブルーノの味方になってくれると私も安心よ」
きっとこれが、アーシャの真の願いなのだ。本当は彼女も、ブルーノが身を置く過酷な環境を気にしている。若くして夫を失っているからこそ、愛する息子の身を案じている。それゆえブルーノが辛いときに傍にいてくれる相手、苦しいときに味方になってくれる人がいてくれたら、と心の底から願っているのだろう。
そう思えば、彼女が真っ先に口にした『結婚するつもりはない?』『私とも別居で構わない』『子どもは無理しなくていい』というのも本心なのだとわかる。イリスには、その願いを叶えることはできないけれど。
「はい。……私は、ブルーノさまの味方です」
イリスがはっきりとした声で答えると、アーシャが表情を緩めてにこりと微笑んでくれる。おそらくイリスの返答は彼女が真に望んでいるものとは異なっていたが、それでもイリスがブルーノを敬愛する気持ちは伝わったはずだ。
フッと照明が落ちて暗くなったので表情はわからなくなったが、アーシャが「ありがとう」と呟いた声は、イリスの胸の奥までしっかりと届いていた。
◇◆◇
『妖精王と花乙女』の第一部は、そのままブルーノとアーシャと共に鑑賞することとなった。その後、幕間の際に特別個室からバルコニー席へ移動し、第二部からは離れ離れになっていた友人、ミシェルとユリアと共に観劇を楽しんだ。
二人にミハエルとエリックに絡まれていたと伝えると『やることが幼稚なのよ』『本当におばかさん』『二人の婚約者にばらしてあげようかしら』などと面白おかしくイリスを労ってくれたので、イリスも友人たちの明るさにほっと気持ちが救われた。
次いでマスグレイヴ公爵家の執事が伝言に来た経緯、現在ブルーノと付き合っていることを伝えると、二人は大はしゃぎで喜んでくれた。興味津々の二人に根掘り葉掘り聞かれたので言える範囲で事実を伝えたが、観劇が終わってホワイエに出たところで、先ほどまで楽しそうだったミシェルとユリアが腰を抜かしそうになった。
入り口の目立つところでブルーノが待っていて『イリスを家まで送らせてほしい』と願い出てきたのである。
ミシェルとユリアが『イリスをどうぞよろしくお願いいたします』と深々頭を下げた奥で、ミハエルとエリックが悔しそうにこちらを見つめている姿が目に入った。これで『友人たちと観劇するつもり』も『ブルーノとのデート』も嘘ではないと証明されたので、後に嘘つきだと罵られることもなさそうである。
「アーシャさまとは、別の馬車なのですね」
「ん?」
ブルーノの申し出を受けることにしたイリスは、ミシェルとユリアとリーゼンバーグ家の者たちに見送られてフロイド歌劇場を後にした。しかし乗り込んだマスグレイヴ家の馬車内にアーシャの姿がなかったので、来るときと同様、帰るときも別々なのだと考えた。
隣に座ったブルーノが「ああ、そうだな」と頷いたので、さすがはマスグレイヴ公爵家だと感じたが、どうやらイリスの解釈は真実と少し異なっていたらしい。
「俺はルファーレ王宮に個人の部屋を与えられて、毎日昼も夜もなく執務室で働いてるからな。母上とは、そもそも帰る場所が違うんだ」
「えっ……え! そうなのですか!?」
ブルーノがさらりと告げてきた内容にびっくり仰天してしまう。
ルファーレ王宮とマスグレイヴ公爵家の大きな屋敷は、遠く離れているわけではない。多少時間はかかると思うが通えないほどの距離ではないのに、ブルーノは王宮に住み込んで仕事に励んでいるという。しかも。
「帰ったらまた仕事をする」
「!?」
「さすがに疲れたから、今日はあまり遅くまで働くつもりはないが」
「当然です! 身体を壊してしまいますよ!?」
なんとブルーノは、これからまだ仕事をするつもりらしい。時間はすでに午後の九時半。いつものイリスなら入浴を済ませ、ベッドに入って夜の読書を楽しんでいる時間だ。
アーシャがやけにブルーノを心配していた理由を唐突に理解する。毎日こんな生活を続けていたら本当に身体を壊してしまう気がする。ストレスで倒れてしまうのではないか、と悪い想像を巡らせてしまうのだ。
「俺は平気だ。それより、イリスは大丈夫なのか?」
「……え?」
思わずブルーノの頭部を確認しそうになったイリスだが、視線を上げる前にブルーノにそう問いかけられた。
最初は質問の意味を理解できないイリスだったが、膝の上に置いた手にブルーノの手が重なり、
「震えてる」
と呟かれた瞬間、彼の問いかけの意図を理解した。
「き、気づいてらしたんですね……」
ブルーノの観察眼と洞察力に今日もまた驚いてしまう。
そう。実は観劇の間中、イリスの脚と指先はずっと震えた状態にあった。その震えは今も収まらず、ワンピースドレスの中の脚も、さり気なくブルーノの視界から隠した指も、ずっと小刻みに揺れていた。それはもちろん、ストレスによるブルーノの毛根ダメージを気にしていたためではない。
――怖かったのだ。せっかく落ち着きかけていた悪い噂が再燃して広がることが。せっかくイリスに協力してくれているブルーノや、両親、友人たちに迷惑をかけることが。
そしてなにより、ミハエルの嘲笑とエリックに掴まれた手の感触が気持ち悪くて、怖くて、耐えがたくて――イリスはあれからずっと、密かに震え続けていたのだ。
だがそれを簡単に悟らせてしまうなんて、イリスは淑女失格である。上流貴族の令嬢たるもの、どんなときでも凛とした気高い姿を示し、どんな相手にも堂々と振る舞う気丈さが必要だ。恐怖に怯え、圧に屈し、簡単に感情を表に出すなんて高貴な女性に相応しくないと思うのに。
「ああいうことは、頻繁にあるのか?」
「……そう、ですね……お恥ずかしながら」
「……」
ブルーノの確認に、情けない気持ちのまま力なく笑う。
どうしたってこの震えは治まらないのだから、せめて無理やりにでも笑顔を見せなければと思う。
「え、ぶ、ブルーノさま!?」
だがそんなイリスの虚勢を受け止めるように、腕を伸ばしたブルーノがイリスの身体を抱きしめてくる。先ほどミハエルとエリックに見せるつけるために行ったような優しさではなく、もっと強い……イリスの弱さを砕こうとするほどの力で。
「あ、あの……」
「イリスは、我慢強くて芯のしっかりした女性だな」
驚いてあわあわと焦るイリスに、ブルーノが優しい声で語りかけてくる。
怯えるイリスを慰めるように。恐怖を消して労わるように。苦しみや悲しみを和らげるように。
「けど怖いときや苦しいときに、無理して笑う必要はない」
背中に回ったブルーノの手が、イリスの背中をとんとんと叩く。
力強いのに優しい抱擁で。
心の傷を癒すような温度で。
イリスをあやすようなリズムで。
「俺を、もっと頼ってくれていいんだ」
偽りの恋人ではない――まるで本当の恋人にかけるような、穏やかで甘やかな声で。
「……ありがとうございます、ブルーノさま」
イリスの痛みを理解して癒してくれる背中に、そっと縋りつく。
安心すると自然と涙が溢れて、ほろりと零れる。
小さな雫がブルーノのコートの上に消えていくと同時に、イリスの身体の震えも少しずつ治まっていく気がした。




