9話 偽りの恋人に助けられました
「離してください!」
「そんな邪険にするなよ。俺たちクラスメートだろ?」
「そうそう、仲良く『楽しもう』よ。僕たちの席はあっちだからさ」
だから文句を言って無理にでも離れようとしたが、彼らも自分たちが人目を集め始めていることに気づいたようだ。ここでイリスが逃げれば周囲の人々に白い目で見られると考えたようで、そうではないと主張するために、あえて『知り合い』『元から友人』『仲が良い』と知らしめるような言葉を選んでくる。
けれどイリスにとってはその台詞すら不快だった。エリックの発した言葉に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「いや……!」
身の毛のよだつ感覚に襲われたイリスは、さらに強く腕を振って抵抗を試みた。二人の、特にレティード公爵家の長男であるミハエルの顔を立てられない貴族令嬢に後からどんな仕打ちが与えられるかなんて、考えている余裕すらなかった。
泣きそうな気持ちで掴まれた腕を振るイリスだったが、涙が零れる直前でエリックの手が急にバッと離れた。
「イリスから手を離してくれないか」
「え……? ……っ!」
エリックの手の感覚がなくなると同時に、耳に覚えのある声がイリスの鼓膜を震わせた。
さらにたった今までエリックに掴まれていた場所を、別の誰かに掴み直される。そのままぐいっと身体を引っ張られると、イリスの視界が突然真っ黒になった。ただし真っ黒というだけで、真っ暗ではない。イリスはすぐに、自分が黒いコートを着た別の男性に抱きしめられていると気がついた。
ああ。この男性は、きっと――
「さ、宰相閣下!?」
イリスの予想を確信に変えたのは、エリックの驚き声だった。その敬称に反応して黒いコートから視線を上げると、イリスの恋人役であり現在は上司でもあるブルーノの――ルファーレ王国の宰相・ブルーノ=マスグレイヴ公爵の姿があった。
(ブ、ブルーノさま……!?)
突然の登場に驚きすぎたせいか、問いかけが声にならない。
だがイリスの疑問は、イリスと同じぐらいに驚いた様子のミハエルが代弁してくれた。
「マスグレイヴ閣下が、なぜここに……!?」
「……」
ブルーノにもミハエルの声が聞こえているはずだった。しかしブルーノは二人には目もくれず、イリスの手首からそっと手を離すと、代わりにその腕をイリスの腰へと回してきた。そのまま背中を支えられ、正面から顔を覗き込まれ、少しほっとしたような表情で首を傾げられる。
「どこに行っていたんだ? 急に姿を消したら心配するだろう」
「えっ……あ、あの……?」
「せっかくのデートなのに、イリスを探すことに時間を使ってしまうのはもったいないな」
イリスを呼び捨てにするのはいつものことだが、正面から見つめて嬉しそうにはにかむこの表情は初めてだ。確かに偽りの恋人を演じるという約束はしていたが、本物の恋人に向けるような甘く優しい笑顔は初めて目の当たりにする。
「ぶ、ブルーノさま……!?」
ブルーノの言動にあまりに驚いたせいか、公共の場だということも忘れて彼の名前を呼んでしまう。
「え……イリス嬢……?」
「おま……宰相閣下だぞ!?」
伯爵家の令嬢たるイリスは、本来であれば公爵家の当主、そして自国の宰相であるブルーノを呼ぶ際は、家名に敬称をつけるか役職名で呼ばなければならない。馴れ馴れしく下の名前を呼ぶことは許されない。二人の間には本来、それほどの身分差が存在するのだ。
だが普段から名前で呼ぶように求められ、イリスもそれに応じてきたせいか、公衆の面前にもかかわらずうっかり名前で呼んでしまう。
慌てて口を押さえるイリスだが、ブルーノはその反応に満足したらしい。
否、彼はこの場でイリスに自分の名を呼ばせたるために――自分たちが『特別な』関係であると示しておくために、あえてそう誘導したのだろう。深海を思わせるブルーノの眼に、凍えるほどに冷たくて焼け焦げるほどに熱い青い炎が灯る。
「俺の恋人が、何か不作法でも?」
イリスを腕の中に抱き込んだブルーノが、ミハエルとエリックに静かな声で問いかける。二人は突然のブルーノの登場だけでも十分驚いたであろうに、イリスとの距離の近さや親密さを目の当たりにしたためか、さらに大きく目を見開いている。
「こ、恋人……?」
「愛人ではなく……?」
「……へえ? この俺が、愛人を囲っているとでも?」
ミハエルとエリックが呆然と呟くと、それを耳にしたブルーノが間髪を入れずに問い返す。ただし表情はいつもの無表情ではなく不機嫌そのもの、声も低く訊ね方にも棘がある。
問われた二人ではなく、見ているだけのイリスの方が震えそうになる。ブルーノの不快を示す声と視線と表情は、それほど冷たくて恐ろしかった。
「い、いえっ! とんでもないです!」
「決してそのようなつもりは……!」
二人も自分たちの些細な問いかけが侮辱の言葉になりうると気づいたのだろう。
なんせ相手は堅物宰相・ブルーノ=マスグレイヴ。ルファーレ王国で一番といっても過言ではないほど、不義理や不道徳といった関係に厳格な人物である。
しかもブルーノ本人は未婚で、結婚歴もない。そんな彼に不義理や不道徳の象徴といえる『愛人』の存在を訊ねるなど、無礼以外のなにものでもない。目上の者に対する質問としては失礼の極みである。
自身の失言に気づいたミハエルが、慌てて話題を逸らそうとする。イリスとブルーノの関係ではなく、その後に続いた『イリスの不作法』に話題をすり替えようとしたのだ。
「学院時代の旧友に会って、少し話に花が咲いたところで……な、イリス?」
だがその発言さえブルーノの不興を買う要因となった。
ブルーノが眉を顰めて、さらに不快を露わにする。
「……イリス?」
「ああ、いえ! クロムウェル嬢!」
他人の、しかも目上の者の恋人を勝手に呼び捨てにするのもまた無礼である。友人であろうと元クラスメートであろうと、名前を呼び捨てにすることは相手を格下に扱うことと同意義だ。この場合はブルーノの恋人を、そしてその恋人を選んだブルーノを見下す行為にも等しいのである。
度重なる失言に気づいたのだろう。ミハエルの顔面がさぁ、と青褪めていく。
「君は、レティード公爵家のミハエル=レティードか」
「! は、はい……」
青白くなったミハエルを冷たく見下ろしていたブルーノは、ふとミハエルがレティード公爵家の者であることを思い出したらしい。問いかけられたミハエルが、びくびくと肩を震わせながら返答する。
爵位だけでいえば、マスグレイヴとレティードはどちらも『公爵位』である。だがブルーノは本人が爵位を有する『公爵家当主』であるのに対し、ミハエルはあくまで父が公爵位を持つだけ、本人には『公爵家の令息』という肩書以上は与えられていない。
もちろん『伯爵家の令嬢』であるイリスは、『公爵家の令息』であるミハエルの顔を立てるべきで、それを知っているからこそ彼も軽率にイリスを呼び捨てたのだろう。
ミハエルを冷めた視線で見下ろしていたブルーノだったが、すぐに興味を失ったらしい。
「君はハィルディン伯爵家のエリック=ハィルディンだな」
「は、はい……!」
ブルーノに名前を呼ばれたエリックの背筋が、ぴんと伸びる。
当然のようにエリックの顔と名前も把握しているが、彼に対してもやはり特別な興味はないらしい。ふう、とため息を零すと、不快を隠そうともせず低い声で釘を刺す。
「俺の大事な恋人に――イリスに不埒な感情を抱いて気安く触れるのは、止めてもらえないか」
イリスの肩を抱く力が強まる。密着感が増す。
なのに周りの温度は、すぅ、と急降下したように感じる。
「――次は見逃さない」
「ひ……」
「そんな滅相も……あは、はは……!」
ぎろりと睨まれて短い悲鳴を上げたエリックに対し、ミハエルはブルーノに敵意がないと示すことにとにかく必死な様子だった。愛想笑いを浮かべて手を振るミハエルを一瞥したブルーノが、フイッと視線を逸らしてイリスの腰を抱く。
「失礼する。……さあ行こうか、イリス」
「え、あ……はい……」
ブルーノが態度と表情を素早く切り替えたので、イリスも彼の演技に合わせることにする。心の中ではブルーノに訊ねたいことで溢れかえっていたが、それよりもまずはこの場を離れて、一刻も早くミハエルとエリックの視界に入らない場所へ行きたかった。
「……少し、人目を集め過ぎたか」
「!」
イリスの手を引くブルーノがぽつりと呟いたので、視線だけで周囲の様子を確認してみる。
こちらの様子を窺う人々が先ほどよりも多くなっている。開演時間もあるので全員が立ち止まっているわけではないし、大半は王都に住む市民のようであったが、中には見覚えのある貴族家の顔もある。これ以上の長居は、誰にとっても利がない。
「ここで急に離れると不自然だな。……仕方がない、ついてきてくれ」
「か、かしこまりました」
ブルーノが演技の続行を提案するので、イリスもその判断に従うと決める。彼のエスコートに導かれて人の少ない通路を進むと、ホワイエの階段を上っていく。
「すまない。イリスが一人で対処できるならと見守るつもりだったが、さすがに腹に据えかねた」
「い、いえ……! とても助かりました。ありがとうございます」
どうやらブルーノは、声をかけてくる少し前からイリスたちの様子を観察していたらしい。もちろん見つけてすぐに救援することも考えたが、人目のある場所だったことや顔見知り同士だったらしいことを考慮して、判断は慎重になった。だがミハエルとエリックがイリスにひどい言葉ばかり投げつけるので、これ以上は見ていられないと感じて助け舟を出してくれたらしい。
あのまま二人の圧に押されていたら、イリスにはさらなる不名誉な噂が立っていたかもしれなかった。ブルーノの救援に、ただただ感謝する。
「ブルーノさまは、観劇のためにこちらに?」
「俺は、母の付き添いなんだ」
周囲の耳と視線を気にしつつそろりと訊ねると、ブルーノが苦笑い気味に呟いた。
「本当は親しいご夫人と一緒の予定だったが、家族が熱を出したとかで、取り止めの連絡が来たらしい。そこで大人しく諦めればいいものの、チケットがもったいないからと言って、代わりに俺が呼び出された」
「えっ……?」
呆れたように肩を竦めるブルーノだが、イリスはまたも驚いてしまう。
(ですがブルーノさまは、今夜もとてもお忙しかったはず……)
週に数回ブルーノの仕事を手伝い、さらに招待状や手紙の返事といったスケジュールが関係する依頼を請け負っていることもあって、最近のイリスは彼の予定を把握できるほどになっていた。
そのイリスの記憶が定かであれば、ブルーノは今日も書類に会議に王女からの呼び出しにと、大忙しだったはず。一日に数時間筆記作業をするだけのイリスと違い、多忙なブルーノに観劇を楽しむ余裕などなかったはずなのに。
(ブルーノさまでも、お母さまのお願いは断れないのですね……)
堅物宰相と噂のブルーノでも、仮にどんなに忙しい状況にあっても、母の求めには応じなければならないらしい。
心の中でそっとブルーノを労っていると、歌劇場の三階へ上がり、長い通路を進んでいた彼が、ふと足を止めてこちらへくるりと振り返った。つられるように足を止めて顔をあげたイリスは――その場でぴしっと固まってしまう。
「こ、ここ……ここって! 特別個室じゃないでしょうか!?」
「ああ、そうらしいな」
目の前のダークブラウンの扉には、文字が書かれていない金色のプレートが埋め込まれている。今は控え人が手で押さえてくれているが、普段はテラコッタ色の暗幕が下げられ、入り口が完全に覆われているという。
それが最上級の特別個室の証だと、父がフロイド歌劇場のオーナーであるユリアに聞いたことがある。娘の彼女ですらこの特別な部屋にはほんの数回しか足を踏み入れたことがないらしく、当然、イリスは一度も立ち入ったことがない。
本日何度目になるのかわからない驚き声をあげると、ふ、と表情を緩めたブルーノがイリスに手を差し出してきた。黒いグローブを着けたブルーノが、イリスを優しく誘い出す。
「おいで、イリス」
最上級の特別個室へ招かれ、ほんの少しだけ躊躇する。自分なんかが足を踏み入れてはいけないと感じてしまう。
けれど視線を上げてブルーノと見つめ合うと、この誘いを拒否することはできないと直感する。どきどきと緊張しているのに、恐れ多いと思っているはずなのに、引き寄せられるように彼のグローブの上に指を乗せてしまう。
その指先をぎゅっと握りしめられるだけで安心する。くい、と手を引かれて腰を抱かれると、イリスの心臓が急に速さを増した気がした。




