劣等同盟
お天道様がぎらぎらと熱い視線を投げかけるので、腕にそっと水をかけた。プールの時間ってのは、晴れたって曇ったって嫌なものだ。晴れれば日焼けするし、曇ったら肌寒い。うなりながら体育座りで我が美脚を抱えていると、高峰が水面から勢いよく上がるのが見えた。高峰の小さい体が、鉄砲玉かパチンコ玉かってくらいひょいと飛び出して、プールサイドに上がった。
塩素のにおいってのは、飛び込むと意外に感じないものだ。ひりひりしてるように思えたのは最初だけ。飲み込むと喉がその存在を思い出す程度。未だにプールの水でぐずついている鼻をすん、とすすりあげた。本当は鼻をかみたい気分だけれど、紙がない。手でかめ? 無理。私も乙女の端くれだもの。
続々とプールサイドにあがってくるクラスメイトを眺めていたら、進化の過程を思い出した。高峰ほど、きれいに素早く進化する奴はいない。大丈夫、そのうち君たちにも脚が出る、がんばれ魚。次々と魚が陸に上がるので、早送りしたくなった。
「高峰、不機嫌だねえ」
プールサイドに上がる様子はとても綺麗だったのに、高峰の表情は暗い。彼女の機嫌の良し悪しはどうでもいいことなのだけれど、私は肌がジリジリ焦げるのを忘れたかった。ちょっとした世間話にのめりこめば、この網の上でジリジリ焼かれる感覚を忘れられるのでは? 実質的な変化は何もないのが悲しいところだけれど。
「うるさいタコ」
高峰があからさまに不機嫌なものだから、ついからかいたくなる。サド根性の発露。これも愛情の一種だと、サド伯爵ならきっと認めてくださるに違いない。
できうる限りの上品な微笑みを浮かべ、高峰に手を伸ばした。
「あらあら、高峰君子さま、今タコと仰いました? 折角の君子というお名前が泣きますわ」
「クンシじゃなくってキミコ!」
シェイクハンドしようと伸ばした手をペチンと叩かれたので、わざとらしく驚いて見せる。
わぁ、たった今水面に波紋が広がったよ。どんだけ馬鹿力なの!
とりあえず彼女を落ち着かせるために、今度は53歳図書館長の気分になる。英字新聞を広げてインテリぶってる眼鏡親父はごましおヒゲ増量中で、今にも『アイム ハンプティダンプティー』と塀の上から言いそうなふとっちょ体型。その奇妙キテレツなファンシーさを持ち、大地のやさしさがしみこんだ丸っこいじゃがいもみたいな色のチョッキを着ているに違いない。チョッキが死語でも、ハンプティダンプティはやっぱりチョッキだろう。ジレではない。そこは譲れない。
「高峰君、落ち着きたまえ。そこに座って」
「黙れ、たまこの鼻ペタン」
鼻ペタンプティー!
めまいがした。卵であるハンプティダンプティーには鼻がないに違いない。いや、いや、それだけは、いやあ! 私はたまこであって、たまごじゃない!
目頭が熱い。指先が自然とがくがく震えた。濡れた髪が中途半端に乾いて枝毛のようにわかれている。パリッと音がしたのは気のせい? パリッパリで今にも粉末状になりそうな冷凍乾燥野菜のような髪じゃ、悲しいかな、天使の輪なんてできるわけもなく!
「うふふ、うふふふふ」
身体中が震えるのを「これは寒ささ、サヴァ」とか「武者震いってやつだよ、ボナペティ」とごまかしてアル中の親父を越える。今、目の前に半透明の白い扉が出現! 今行きます! 突入!
「高峰こそ、チビの癖に」
扉の向こうから女神様が運んできた台詞をぶつけてみる。女神様は鬼太郎みたいな前髪をふりまわしてすぐ消えた。後ろ髪がないから追いかけるのは至難の業だ。もっと強いカードを置いていって欲しかったよ。
「たまこみたいな鼻ペタンに言われたくない」
次から次へと傍若無人な高峰さんは、どこかの為政者様ですか。こんなミサイル打ち込まれたらもう、のけぞるしかない。陽射しが眼に直撃して、くうっと身をよじらせた。眼の端に涙がたまるのは、きっと陽射しのせいだけじゃない。
高峰からの報復は激烈すぎる。当たり前だ、9・11後の戦争だかテロ撲滅作戦だかのおかげで、報復が激辛なんて、もはや一般ジョーシキなのだ。しかし私はそれを見事に忘れていた。
私と高峰は、沈黙の中、互いに牽制の視線を送りあった。この程度で冷戦突入など、我ながら子供染みている。いや、しかし大人の対応ができる人間というのは意外と少ないのだ。だから世界もドイツも真っ二つになった時期があるのに違いない。
***
憎らしい太陽は私の皮膚をかぴかぴに焼いていた。ひきつっちゃって痛いったら仕方ない。
窓際の自席で体力回復を狙ってぐったりしていると、いつの間にやら口が開いてよだれが垂れかけていた。唇の端をすべる唾液をキャッチ。やばい。乙女にあるまじき姿。肌色カメレオン。
コツコツコツ、シャーッ、コッ。先生が黒板に文字を書く音が教室に響く。深緑色のボードに付着する白い粉を見て、頬杖をつく。またもや自然と口が開く。手元のノートは前の授業の記録。よれたページが前の授業でも昼寝していたことを思い出させた。前回はカメレオンキャッチに失敗したんだっけ。カバンからあわててタオルを出したんだけど、間に合わなくってノートの紙がよれちゃった。そういえばあのとき、次からはほっぺたの下にタオル敷いて寝ようって思ったんだ。ああ、今日もタオル敷くの忘れてたなあ。ほっぺたに文字が写ってやしないだろうか。
半分寝ぼけたまま窓に目を向けると、さっと目の前を何かが横切った。じっと観察。おお、てんとう虫くんではないか。ビックリしてのけぞったよ。私も都会っ子ってことかな。
前の席の背もたれに着地したおてんとくんを、シャーペンの先でつつく。何事かと驚いた住人がこちらをふりむいた。
私はそっと唇に右人差し指をあてて、左人差し指でおてんとくんを指差した。前の席の住人はあからさまにうわぁ、という顔をした。
おてんとくん、ダメ? と首をかしげるとぶるぶる頭をふられた。こんなにかわいいのにな、残念。
授業にもどった前の住人は、妙に姿勢がよくなった。そこまで嫌わなくっても。
皆が同じ行動をとるのは、対ゴキブリ作戦くらいだろうか。でも暗殺方法は違う。殺虫剤班もいればスリッパ班もいる。個人的には暗殺スリッパなんて履きたくないから新聞紙がいいんだけど、一面のきらびやかな笑顔に虫がついているのを見ると、いたたまれない気分になる。
印象や行動は、人によって全く違うんだってことは知ってるつもりだったけど、こうやって目の前にすると不思議なものだ。
高峰だってそうだ。まさかあんなことで怒るなんて。いや、からかったんだから怒るのは予測できたか。私は暑さと焦げる肌のことを忘れて、高峰は不機嫌を吹っ飛ばして互いに笑えればよかったのに。私には不機嫌な高峰を笑わせるだけの能力がなかった。この歳にして引退間近の野球選手のように限界を感じてしまう。他人から見ればきっと限界でもなんでもないんだろうな。
しかし高峰は、何故あんなに不機嫌だったのだろう? 普段なら「ナイス私、素敵記録」とか言いそうなものなのに。あ、それは私が言うことか。それにしたって、「うっしゃ」くらいは言いそうなものだ。『二位以下を大きく引き離してゴールイン!』したんだから、嬉しくないわけがない。
私としても、このまま冷戦を続けるつもりはハナからない――ハンプティダンプティーに鼻がないのとは関係ない――わけで、やっぱりそれなら、高峰が不機嫌だった理由がわからない。
泳ぐ前から機嫌は悪かった? 思い出してみる。二人で黒柳徹子も真っ青な軽快なトークをしていたはずだ。「それじゃ芋もバロンじゃん!」なんて、箸が転がってもおかしいお年頃の私たちはきゃあきゃあ笑った。上沼恵美子や奈美悦子よりはテンポよくなかったはずだけど。
やっぱり機嫌が悪くなったの、泳いでからだな?
……もしかして、暑かったから機嫌悪かったんじゃないでしょうね? そんなのただの八つ当たりじゃん。プールに入れば涼しいのに?
……相手の気持ちをいくら考えても、わかりやしないのだ。直接聞いた方が早い。
おてんとくんをつつくと、赤い背中からはみ出した小さな薄い羽がぶるっと震えた。飛びたいんだ。でも教室の中は風がないから、きっとうまく飛べないよ。
人差し指におてんとくんをそっと移動させると、なぜかてのひらの方に進んできた。逆だよ、逆。方向転換させようと指でつまむと、彼は黄色い唾を吐いた。前の席の子の気持ちが、少しわかる気がした。
再び人差し指にのせて窓の外へ。ピッと背中が割れて、おてんとくんは消えた。
青い空と白い雲。ああどこまでも夏が染みてる。陽射しの匂いはあたたかだけれど、うたた寝を許さないような激しさだ。黒糖パンみたいな運動部員のそばを通るだけで、太陽の匂いが鼻先をかすめる気がするのも、夏が染みてるからだ。
外は夏で暑っ苦しいけど、おてんとくん、元気でね。
満足して微笑んでいると、背後に大きな影があらわれて、次の瞬間、頭にガスッと教科書の角がめりこんだ。痛っ。
***
「本日満月!」
加速と同時に風が頬をなでるのが気持ちいい。短い髪の毛がおどって首筋にさわさわあたる。床を蹴るたびにスカートの裾が楽しそうに踊った。
ただの卵蒸しパンみたいになった月蒸しパンをながめてにやにやする。月蒸しパンってのはちょいと凝ったパンで、その日の月と同じ形に作られる。といっても全体の形は丸い。影の部分は黒糖蒸しパン。だから新月の日は普通の黒糖蒸しパン。うん、月の形に切ったたまご蒸しパンを黒糖蒸しパンにくっつけただけとも言う。
階段を上る前に我慢できなくなってビニールの包装を開くと、蒸しパンの、吸った瞬間頭がくらっとするようないい匂いがしてほくそえんだ。
購買部で買った月蒸しパンをふりまわして屋上へ。階段をのぼって鼻歌まじりににっくき太陽にアッパーカット。おてんとさまの匂いあふれる屋上でランチ。屋上への立ち入りが禁止されてても聞かない。大人しく規則を守るような私じゃない。足元の小さな段差を乗り越えてタラッタラッタラッタと足よろめかせ。あわー、まぶしい。先住民がシルエットになって見える。
「たまこ、これあげる」
先住民が何かを投げてよこす。なに? 瓶? オロナミンC? あぶなっ。
キャッチしてから先住民の顔をよくみる。逆光で真っ黒に見えた顔がじわっと姿を整える。
「高峰」
「ごめん」
短くてストレート。でもそんなパンチ食らったら、ガード下げるしかないじゃない。
「私もごめん」
自然と笑顔がわいてでて、高峰の隣にスライディングするように座る。ああ、喜びを全身で表現する犬みたい。膝がちょっとすれて痛かったのには気づかないふりだ。今すぐ勝利の雄たけびをあげるボクサーに抱きつく会長のような気持ちなのが本音。
月蒸しパンを半分、高峰に手渡して、自分も一口食べた。
ふんわりした匂いが口の中に広がって鼻にぬける。美味。
オロナミンCのキャップを外すと、投げたときにシェイクされた中身がじわじわと騒いだ。黙殺してぐびっと一杯。お約束どおり、「元気ハツラツぅ?」って高峰が聞くから「オフコース!」ってヒップホップギャング風に両手を前に出してくねくねしながら答えた。ポケットの中のMBPとか入ってる四角いブリックパックのヨーグルトジュースは内緒だ。
「なんでさっき機嫌悪かったの?」
「身体が小さいと損だなあと思って」
「は?」
「背が低いと大変なんだよ。映画館でも授業でも、前に座った奴の頭が邪魔で見れない。前の奴がアフロだった日には最悪だよ」
想像してみる。確かにアフロごしに見る恋愛映画なんて、ロマンチックのかけらもない。アフロのせいでタイタニック指数ゼロ。ホラーやサスペンスだってアフロごしに犯人の顔が見えたり見えなかったりするかもしれないから、フレディ指数もゼロ。ああ、それは確かに困るなあ。楽しめるのはコメディくらい? アフロネタがあれば爆笑ものだ。
「でも鼻が低いのも大変だよ? 顔を洗うだけで息を吸わなくても自然にガボガボ入ってくるんだから」
オロナミンをもつ手もそのままに、今度は高峰が考え込む。
「お互い大変ってことか」
苦労を理解したように高峰が微笑むので、私は安心する。冷戦終結。
「なんでプールでそんなこと思ったの?」
「背が低いと、向こうの壁に手が届くのが遅いじゃん? 身体が大きいと重さはあるけど、その分浮力も発生する。背の高い奴の方が得なんじゃないかと思って。なのに、なんでタイムのとり方は同じなんだろうって」
それだけ言い終えると、高峰はもう一本のオロナミンCのふたを開けた。ポン、と小気味いい音がした。
「鼻低いのも息継ぎ大変だよ。鼻呼吸してなくてもガボガボ入るもん」
購買部の紙袋の上にできた、小さなのみの市に乾杯のオロナミンが二本立っている。月蒸しパンに手を伸ばした。
「鼻ペタンは、呼吸について考慮してやる必要があるか。それぞれの身体的差異において、計測方法を変更することを主張したい。かけっこで一位をなくすとか言う前に、こういうのを考えるべきだ。これもバリアフリーの一種なんじゃないの? オリンピック委員会は何をしているんだ」
「どうやって計算するのよ、それ」
「ボイルシャルルで計算する。せっかく勉強したんだから使わなきゃ損」
それって体積とか密度とか使わなかったっけ? 出てくるのは浮力だった? 授業中寝ている私には、とてもじゃないけどわからない。オリンピック委員会に頼まれても、絶対手伝わない。だってわからないから。
「そんな面倒臭いこと、誰がやるの?」
月蒸しパンをほおばると、高峰は途端に身体から力を抜いて、目を細くした。そうして「誰だろうね」と他人事のように答えた。
「……どうでもよくなったんでしょ?」
鼻ペタンだろうが、背が低かろうが、昼食の味は変わらないもんね。
美味しいものを食べるときはそれに浸っていたいから、仕方ない。高峰ったら食いしん坊万歳。
「たまこと同盟できたからいいんだよ」
「冷戦終結とか休戦協定とかじゃないんだ。じゃ、劣等同盟だね」
「嫌な同盟」
そういって笑うと、高峰は脚を投げ出して、日向ぼっこする猫のように伸びをして、寝転んだ。
<おわり>