第一章:目は口ほどに物を言う⑤
翌朝、身支度を済ませてルイネが宿屋の一階で朝食を取っていると、腰回りにつけた謎の試験管をじゃらじゃらと鳴らしながら、シュレンが二階から降りてきた。荷物をテーブルの下に置き、椅子へ腰掛けようとするシュレンの下瞼にはうっすらと青いクマができていた。ルイネはクロワッサンを口に運ぶ手を止めると、
「シュレン、おはよ。どしたの、その顔」
ああこれ、とシュレンはルイネの向かいに腰を下ろすと、
「ちょっと夜更かししちゃってさ」
「初めてモンスターまともに見たんだもんね。興奮して眠れないのもおかしくないか」
ええとそういうんじゃなくて、と言い返しかけたシュレンは横から会話に割り込まれ、行き場をなくした言葉を飲み込んだ。
「お嬢さんのお連れさん――茶髪の坊やは何食べる?」
水差しを手にちょうど通りかかった宿屋の女主人にそう聞かれ、シュレンはテーブルに置かれた朝食の品書きへと茶の視線を落とす。シュレンは一瞬逡巡し、何を食べるか考えると、注文を口にする。
「ハムトーストとポテトサラダで」
「はいよ。お嬢さんは食後はどうする? 紅茶かコーヒーか」
「じゃああたしは紅茶で」
はいはい、と軽い調子で返事をすると宿屋の女主人は二人の席から去って行った。
女主人がいなくなると、シュレンは腰のベルトから何本か液体の入った試験管をルイネの前に置いた。四本のうち三本は緑色を、残りの一本はルイネの髪と同じ色をしている。
「回復薬と万能薬?」
ルイネは訝しげに眉根を寄せ、テーブルの上の薬品とシュレンの顔を見比べる。うん、と少し照れくさそうにシュレンは頷くと、
「これ、昨晩あれから僕が作ったんだけど、よかったら受け取って欲しいんだ。ルイネは前衛だから、その分怪我することも多いだろうし……とはいえ、昨日のでこの辺りのモンスターなんてルイネの敵じゃないのはわかってるんだけど、お守り代わりに一応持っててよ。今の僕にはこのくらいのことしかできないけれど、それでもこれくらいはさせてほしいんだ」
後方からじゃ回復が間に合わないこともあるだろうし、とシュレンは試験管をルイネのほうへと押しやった。
「ありがとう、昨日から色々貰いっぱなしでごめんね。せめて、お礼に朝ごはんはあたしが奢るよ」
「えー、そんなの悪いよ。ところで、ヴォルテックスには今日中に戻れれば良かったんだよね?」
「うん、大丈夫。依頼の達成期限が昨日、報告期限が今日までになってるから」
「そしたら、帰るまでにある程度時間はあるよね? 朝ごはんの代わりに僕に戦い方を教えて欲しいんだ。僕、やっぱり今のままルイネにおんぶにだっこじゃ嫌だ。せめて、ルイネの足を引っ張らないようになりたい」
「いいよ。だけど、あたし、錬金術師の戦闘での立ち回り方って詳しくないんだよね。やっぱり前衛職と後衛職じゃ立ち回り方って違うでしょ?」
そんなことを言っていると、宿屋の女主人がハムトーストとポテトサラダの載ったプレートと湯気の経つ琥珀色の液体が入ったカップを運んできた。シュレンはグラスに水を注ぐと、いただきますと両手を合わせた。彼はフォークをポテトサラダに伸ばしながら、
「僕たち錬金術師は基本的には、調合した薬品での状態異常付きの遠距離攻撃や、仲間の回復を担当する後衛職だ。高位の術師になれば、手元の物質と空気中の物質を化合させて、その場で能力強化の機能がついた武器を生成したり、敵を阻害するための防壁を築いたりすることができるようになるんだ」
ふうん、とルイネはじゅんわりとしたバターの効いたクロワッサンに添えられたスクランブルエッグを食べ終えると、紅茶のカップへと手を伸ばした。カップを口元で傾けると、熱い液体とともに嗅覚を馥郁とした香りが満たした。
「シュレンは錬金術師としてはどのくらいのレベルなの?」
「非戦闘時に何種類か、援護のための攻撃力のある薬品と回復用の薬品が作れるくらい。あとは、気休め程度だけど昨夜みたいに何かしらの強化効果のついたアクセサリーを作れたりとか。
今の僕には戦闘中に何かを生成する度胸も力量もないよ」
そう言うと、シュレンは小動物のように両手でハムサンドを持つと齧り付く。うーん、とルイネは紅茶を啜りながら、今日の方針を頭の中で練っていく。
「シュレンの防御力を考えたら、ヒット・アンド・アウェイが基本だよね。じゃあ、あたしが合図を出したら、シュレンが遠くから攻撃するっていうのを繰り返して、ちょっとずつモンスターとの戦闘に慣れていこっか。最悪シュレンに攻撃が飛んできたとしても、あたしが防ぐから安心して。どうせヴォルテックスに戻る街道沿いのモンスターは雑魚ばっかりだしね」
シュレンは口の中のハムサンドを嚥下すると、茶色の双眸でルイネを見返した。ルイネを見つめるその眼差しは真摯で、怯えの色が昨日よりもほんの少し和らいでいた。
「うん、わかった。その方法でやってみよう。ルイネ、僕……今日こそ頑張ってみる。逃げないでちゃんとモンスターと向き合ってみるから、だから力を貸して」
りょーかい、とルイネはティーカップの中身をほんのわずかに残して飲み切った。そして、彼女はティーカップを三回時計回りに回すと、ソーサーへと伏せた。数秒の後、カップをひっくり返すと、ルイネは持ち手の近くへと血赤の視線を落とした。
「ルイネ、何それ、茶葉占い?」
朝食を食べきったシュレンがルイネの手元を気にして、テーブル越しに覗き込んできた。知ってるの、とルイネは驚いて問うた。この年齢の男の子という生き物はてっきり素人の占いになど興味はないと思っていた。
「知ってるも何も、あらゆる学問は錬金術に通じているんだから。僕だって、錬金術を学ぶ過程で、占い学以外にも、天文学とか植物学とか建築学とか古典文学とかぱっと見関係ありそうなものからなさそうなものまでいろいろなものに触れてきたから。――それで、占いの結果はどうだった?」
「うーんと、これは斧かなあ……『困難が待ち受けているけれど、それを乗り越えることができる』ってことなんだろうけど、困難ってなんなんだろう……?」
「僕がモンスターと対峙する以外にもヴォルテックスの帰り道に何か困難があるかもってこと?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえず面倒に巻き込まれないうちにこの街を離れよう」
ごちそうさまでした、とルイネは両手を合わせると、自分の背嚢をテーブルの下から引っ張り出す。そして、彼女は目まぐるしく給仕を続けている女主人に声をかけると、深紅のケープの下から財布を取り出して二人分の朝食代である銀貨一枚を支払った。今まさに席を立とうとしていたシュレンは出鼻を挫かれて、しゅんと肩を落とした。近くで食事をしていた男性客の憐れむような視線が痛い。
「今日、ヴォルテックスに帰るんですけど、何か向こうの方面で変わった話って聞いたりしてないですか?」
釣り銭を受け取りながら、ルイネが何気なさを装ってそう聞くと、女主人は顔を曇らせた。
「何でも、昨晩街道沿いの大木に雷が落ちたらしいのよ。ヴォルテックスとコバールを行き来しようと思ったら、しばらくどちらかの街で待つか、倒木で塞がっている区間を草原から無理やり突破するかのどちらかみたいね」
「街道はいつごろ復旧するんですか?」
「街長様が早朝に伝書鳩で領主様に連絡したらしいけれど、正直わからないわね」
領内の主要な街道はすべてその地方を治める領主のものである。そのため、たとえ善意からの行動であっても、倒木の撤去のためにコバールの人間が勝手に手を出すわけにはいかなかった。
いつ通れるようになるかわからない。ううむとルイネは両腕を組んだ。先ほどの占いの結果の半分はきっとこういうことだったのかと早々に得心した。
(しょうがない。シュレンにはちょっと強行軍になるかもしれないけど、草原に迂回するルートを採ろう)
今受けている依頼の完了報告の期日は今日いっぱいだ。今日中に絶対にヴォルテックスの冒険者ギルドに帰らないといけない。シュレンをつれてきちんとヴォルテックスに帰還できなければ、ルイネたちは依頼を失敗したとみなされ、ヴォルテックス所属の冒険者として本登録されるための機会を失ってしまう。そのようなことになれば、ジャレットにシュレンを冒険者として認めさせるなど夢のまた夢だ。
「シュレン、行くよ。ヴォルテックスに帰ろう」
「でも、今の話じゃ街道は通れないって……」
「だから、その部分だけ街道を外れて草原側に迂回するの」
「大丈夫? 危なくないの?」
「まあ、街道歩いているよりはモンスターとの遭遇率は上がるけど……でも、さっきの占いの結果覚えてるでしょ。前半が早速的中したんだから、後半もその通りになってくれなきゃ困る」
ほら行くよ、とルイネは宿屋の扉を開く。からんからんとドアベルの音が響き、シュレンはルイネを追って外へ出る。
「ルイネ、どうする? この街の冒険者ギルドに話を聞きに行ってみる? さっきの話以外に何かわかることがあるかもしれないよ」
シュレンの提案にルイネはううんと首を横に振る。
「今のあたしたちはまだ、冒険者ギルドを頼れない」
「何で?」
「冒険者ギルドの利用には、原則としてどこかの支部に正式に冒険者として登録されている必要があるの。けど、今ってあたしもシュレンもまだ仮登録状態で冒険者ライセンスが発行されてない状態でしょ? そんな一般人と変わりない状態でこの街の冒険者ギルドに言っても門前払いされるのが関の山」
なるほど、とシュレンは小さく肩をすくめた。
「そういうわけだから、今日の昼に食べるものを買ったら出発するよ」
ルイネは朝市が催されている広場へ向けて足を向ける。向かう先からは苦く豊かなコーヒーの香りや、焼きたてのパンのバターの香り、今が旬のベリーの香りが風に乗って漂ってくる。行こう、とルイネはシュレンを伴うと市場へと向かって歩き出した。