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第六章:氷竜グランディネ②

 ロマサス鉱山へ向かうことを決めたその日、ルイネたちは装備や物資の準備をして過ごした。今も氷竜グランディネの脅威に晒されている鉱夫たちのことを思えば気が逸ったが、相手が相手であるだけに準備を怠るわけにはいかなかった。

 ミューラはそれぞれの得物を持って、武器屋へと出かけていった。シュレンは必要な薬品を充分に用意する必要があると言って、泊まっている宿屋で厨房を借り、様々な薬品の数々を拵えていた。

 ルイネとフェンネルは、シュレンの指示のもと、錬金術(アルケミー)に必要な材料と保存食料を買うべく、様々な商店が軒を連ねる商業地区へと繰り出していた。シュレンが薬品の準備のために一分一秒たりとも厨房を離れられなかったからだ。

 カエルの脳みそにネズミの尻尾。イモリの脾臓にトリカブトの葉。カエデの樹液に砕いた石灰岩。

 一体何に使うんだと言いたくなるようなものを商業地区の隅にある東の大陸由来の品々を取り扱う怪しげな雑貨屋で買い集めると二人は店を出た。

「ルイネ、それ重くない? オレ持とうか?」

「このくらい大丈夫です。あたし、こう見えて力あるので」

「そりゃいつもあの大立ち回り見てるから、それは知ってるけどさあ……でもそこは女の子なわけだし」

 ルイネは左手に食料品の入った袋を、右手にシュレンに頼まれた買い物の袋を抱え、なんてことはなさげに通りを歩き始める。対するフェンネルは手ぶらのまま、ルイネの細腕を見て溜息をつく。

「これじゃあ傍目にはオレが女の子に荷物持たせておいて平気でいるろくでなしにしか見えないんだけど」

「フェンネルさんがろくでなしなのは今に始まったことじゃないでしょう?」

 悪気のないどストレートなルイネの一言に、うっわとフェンネルは苦笑する。どう考えても、この自分に対する扱いのぞんざいさはシュレンとミューラの影響を受けているに違いない。純真で無知で世間知らずな子ほど、真綿が水を吸うがごとく影響を受けやすいものだ。

「辛辣だなあ。ルイネくらいはオレに優しくしてくれてもいいんだよ?」

「後ろ向きに検討しておきますね」

「それ微塵も考える気ないやつじゃん! せめて、前向きに考えてよ!」

 そんなことを言い合いながら、二人は目抜き通りのほうへと戻っていく。湿気と夏の気配を帯びた夕風が肩で切り揃えられたルイネの水色の髪をさらりと揺らした。髪の間から覗く長く尖った耳の先で、イアリングがちゃらりと音を奏でた。

「ルイネって、もうその耳隠さないの?」

 何気なさを装ったフェンネルの質問に、もういいんです、とルイネは笑った。

「見ればわかるだろうけど、あの帽子めっちゃ暑いんですよね。むちゃくちゃ耳蒸れるし。あんなの被り続けてたら、これから夏だし地獄ですよ」

 汗疹できちゃってシュレンに薬作ってもらったんだけどこれがよく効いて、とルイネは冗談めいたことを宣うと、自分より頭一個と半分高い位置にあるフェンネルの顔を見上げた。

「みんなが――シュレンが、ミューラさんが、フェンネルさんがあたしのことを受け入れてくれたから、もうそれでいいんじゃないかって思えたんです。

 今も他の人があたしをどう思ってるか考えると怖いし、森で受けてきた扱いもまだトラウマのままだけど、それでもみんなはあるがままのあたしを肯定してくれたから、みんなといるときくらいは素のあたしでいてみようって思えるようになって。だから、あたし……みんなといるときは、自分がエルフであることを隠すのをやめたんです」

 そっか、とフェンネルは藍色の目を細めた。おそらく、これは彼女にとって良い変化なのだろう。そして、彼女が等身大の彼女でいられるように守ってやるのが自分たちの役割なのだろう。

 すん、とフェンネルは空気中に漂う甘い香りを嗅ぎ取った。匂いのする方角に焼き菓子を売る屋台があるのが見てとれた。

「ちょっと待ってて」

 フェンネルはそう言い置くと、屋台の方へと大股で歩いていく。彼は屋台の女性と会話を交わし、財布から銅貨を二枚取り出して手渡した。銅貨と引き換えにフェンネルは小さな紙袋を受け取るとルイネの元へと戻ってきた。

「ルイネ、いちご味とりんご味どっちが好き?」

「え……いちご、かなあ?」

 ルイネがそう答えると赤いジャムらしきものが練り込まれた焼き菓子をフェンネルは取り出した。

「ルイネ、そっちの袋貸して。これと交換しよ。それ持ってたら食べれないでしょ」

「え、あ、うん……?」

 フェンネルに食糧が入った方の紙袋を強引に奪い取られ、ルイネは代わりに焼き菓子を押し付けられた。どうしたものかとルイネは焼き菓子とフェンネルの顔を見比べる。

「どしたの? 食べなよ」

 フェンネルに促されて、ルイネは自分の手の中の焼き菓子に歯を立てた。甘酸っぱいジャムの味わいとバターの香りが口の中でほろほろと崩れていく。

「おいしい……こんなのはじめて……」

 生まれてから百五十年間、シウィスーヤの森を出ることのなかったルイネにとって、街の屋台で買い食いをするというのは初めての経験だった。フェンネルはいたずらっぽく片目をつむってみせると、

「夕飯前だし、こんなふうに買い食いしたのはオレとルイネだけの秘密ってことで。バレたらどこぞのこわーいおねーさんに怒られそうだし、どこぞのおっかないガキンチョには鼻から爆竹ねじ込まれそうだから」

「二人とも別にそんなことしないと思うけど」

「いやいやいやいや! ルイネはあの二人の恐ろしさを知らないだけだよ!」

 焼き菓子を食べながら歩いているうちに、だんだんと止まっている宿屋が近づいてくる。真鍮の風見鶏を深緑色の屋根の上にいただいた宿屋の前に辿り着くと、ルイネは焼き菓子の最後のひとかけらを飲み込んだ。ごちそうさま、とルイネはフェンネルに笑みを向けると、止まり木亭と刻まれた扉を開いた。

「あら、二人とも。おかえりなさい」

 ちょうど帰ってきたところだったらしいミューラが壁際にそれぞれの得物を立てかけていた。よく手入れされたそれぞれの得物は、客席に置かれた燭台の灯りを受けて、うっすらと虹色の光沢を放っている。

「あら、ルイネ。何だか上機嫌ね。何かあったの?」

「な、なんでもないですよ」

 ルイネはミューラから目を逸らす。ミューラはルイネの両頬に手を添え、半眼で彼女の顔を覗き込んでくる。

「……それで、本当は?」

 ルイネが本当のことを隠しておくのは無理だと早々に判断したフェンネルは食糧の入った紙袋を手近な客席に下ろしながら、

「ああ、別にどうってことないよ。ちょっとオレがルイネの初めてをいただいちゃっただけ」

「どうってことあるじゃない!!」

 ミューラは激昂すると、壁に立てかけた自分の剣を手に取る。剣身から鞘を払い落とすと、彼女は正眼に構えた。男の割にはさらさらと長いフェンネルの焦茶のもみあげの毛が何本か宙に舞った。

「……何してるんですか?」

 シュレンは黄緑色の粘液がべったりと付着した匙を片手に厨房から顔を覗かせる。ミューラは剣の切先をフェンネルの喉元に突きつけたまま、

「シュレン。この男、ルイネにちょっかいかけたみたいなのよ」

「どうして、フェンネルさんはお使い一つまともにできないんですかね」

 シュレンは腰に下げた赤紫色の液体が入った試験管を抜く。中身がまだ泡立っているそれをゆらゆらと揺らしながら、シュレンはフェンネルへと近づいていく。シュレンの茶色の双眸には怒りと軽蔑が混ざり合って燃えている。

「これ、新作の爆薬なんですけど、フェンネルさん飲んでみます?」

「待て待て待て待て! シュレン、誤解だから! あとたぶん爆薬って飲むものじゃないよね!?」

「しのごの言ってないでさっさと飲んでください。男でしょう?」

「死ぬから! それ確実に死ぬから! それ男とか女とか関係ないから! オレが悪かったってことでいいから、ミューラも剣を下ろしてとりあえず話を聞いてくれって!」

「……無様な命乞いね」

 ミューラは小さく息を吐くと剣を下ろした。フェンネルはさりげなく入り口の扉の方に移動して万が一のときのための退路を確保すると、シュレンとミューラに向かって弁解を口にする。

「あの、初めてっていうのは、ルイネが屋台で買い食いするのが初めてだったってだけの話で……! ほら、夕飯前だったとはいえ、ルイネ本人は喜んでるし、ここは多めに見てくれても……ね?」

 二人の顔色を窺いながらフェンネルが口にした言葉に、くっだらない、とミューラは蔑むように吐き捨てた。

「そうならそうと早く言いなさいよ。あなた、いちいち言い回しに含みがありすぎるのよ」

「えー……でも、速攻で抜剣して話聞いてくれなかったのはミューラじゃないか……」

「……何か文句でも?」

「もういいです……」

 蛇に睨まれた蛙か何かのようにフェンネルはしおしおと項垂れた。一体何がシュレンとミューラの気に障ったのか、当事者であるはずのルイネはよくわからないもののいつものことだしまあいいかと結論づける。

「もう何この人たちちょっと冗談言っただけなのにマジでおっかねえ……死ぬかと思った……」

 床に向かって拗ねたようにぶつぶつと呟いているフェンネルを横目にルイネは錬金術(アルケミー)の素材が入った紙袋を抱えたまま、シュレンに近づく。彼女はシュレンに紙袋を渡しながら、

「これ、シュレンに頼まれてたやつ。全部あるか確認してくれる?」

 ありがとう、とシュレンは紙袋を受け取ると、珍妙だったりグロテスクだったりするそれらを空いていた客席のテーブルの上に広げていった。

「さて、ルイネのメイスもフェンネルのリュートもちゃんと調整してもらってきたから、具合確認してくれる? それが済んだら夕飯にしましょ」

 はーい、とルイネは壁際に立てかけられた自分のメイスを手に取ると、ひゅっと軽く素振りをしてみせる。霊樹ユグドラシルの枝で作られた、長年使い込まれたそれは相も変わらずルイネの手によく馴染んだ。

 いつまでもいじけていても誰にも相手にしてもらえないことを悟ったらしいフェンネルも自分のリュートを壁際から取ると、じゃららんと軽く爪弾いた。ネックの両サイドのツマミをいじって、音の具合を彼は調整していく。彼は音色に納得すると、リュートを持って二階へと上がっていった。

「あたしも部屋にメイス置いてきちゃいますね」

 そう言い置くと、ルイネはメイスを手に階段を上がっていく。深紅のケープの裾がひらひらと靡く彼女の背に、ミューラは待ってと声をかけた。

「ルイネ、もう夕飯だから、降りてくるときについでにフェンネルを部屋から引き摺り出してきてくれる? シュレンも素材の確認が済んだら、テーブルの上片付けちゃって。他のお客様の迷惑になるから」

「「はーい」」

 ルイネは階段の踊り場から、シュレンは錬金術(アルケミー)の素材を広げたままのテーブルのそばで異口同音に返事をする。

 厨房の奥からは、肉の焼ける良い匂いが漂ってきている。燭台の置かれた窓辺の外では、空がオレンジ色から藍色へと移り変わりつつあった。

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