第五章:『蒼天の一つ星』②
ふう、と小さく息を吸うと、シュレンはルイネが泊まっている客室の扉に拳を這わせた。
部屋の中に人の気配はあるが、何もかもを拒否するかのような重苦しい沈黙が室内から漏れてきている。そのせいで、シュレンは部屋の扉をノックしようとしてはやめるということをかれこれ一時間近く繰り返していた。
(ルイネだって、あんな形で僕たちに自分の正体を知られたくなかったよね。僕がルイネだったら、今は誰にも会いたくない)
だけど、ルイネを一人にしておきたくなかった。それはシュレンもミューラも同じだった。あのフェンネルでさえ彼女の様子を気にかけているのか、彼女の部屋に荷物を届けるようにシュレンに促してくれた。
いつまでもこうしていても仕方がない。体内から息を吐き出し、肚を決めるとシュレンは扉を軽くノックした。
「ルイネ? 僕、シュレンだけど。さっき、ギルドに荷物置いていっちゃったでしょ? 持ってきたから開けてくれないかな?」
がた、と中で人が動く気配がした。扉越しに掠れた声が返事をした。
「……そのまま、廊下に置いておいて。後で回収するから」
シュレンは向こう側にルイネの気配を感じながら、扉に背を凭せ掛ける。ぎっ、とシュレンの体重を受けて扉が軋む音がした。
きっと、安い慰めの言葉など、今の彼女には届かない。そんなものでは殻にこもってしまった彼女の心を開かせることはできない。
シュレンは少しでもルイネの心を鎧う殻を剥がすべく、なんでもないような世間話を試みることにした。
「ねえ、ルイネから見て、ミューラさんとフェンネルさんの関係ってどう思う?」
「……は?」
てっきり今日のことや自身の素性のことに追及されるのだと思っていたルイネは意表を突かれて間の抜けた声を漏らした。ここだけの話、と敢えて軽い調子でシュレンは話を続ける。今の重く沈んだルイネの心情を思えば、きっとこのくらいの軽さがちょうどいい。
「ミューラさんはバレてないつもりみたいなんだけどね。実はギフリムに泊まった夜、ミューラさんはフェンネルさんと逢引きしてたみたいなんだ。僕、ミューラさんと話したいことがあったから待ってたんだけど、証拠に一晩中、ミューラさんは部屋に帰ってこなかった」
「へ、へえ……」
呆気にとられたようにルイネは相槌を打つ。ねえ、とシュレンはいたずらっぽい空気を口調に含ませながら、
「あの後から、急にあの二人の距離が縮まったと思わない? 現に今も下でいちゃいちゃと乳繰りあっていて見てらんなくて、僕も上に逃げてきちゃったんだけど」
「でも……ミューラさん、今日の昼間、フェンネルさんに絡まれて嫌がってなかった?」
「それはどうだろう? 嫌よ嫌よも好きのうちなんて言葉もあるくらいだから」
「ふうん……恋愛って面倒くさいんだね。あたしにはよくわからないや」
だってあたしエルフだし。シュレンはそんな投げやりなニュアンスが言外に含まれているのを感じ取った。しかし、彼はそれに気づかなかったふりを装いながら、言葉を続けた。
「だけど、僕はこうも思うんだ。ミューラさんとフェンネルさんは何かお互いに秘密を握り合う仲なんじゃないかって。もしかしたら、あの二人はいちゃついてるんじゃなくて、互いの秘密を賭けて牽制し合っているんじゃないかって」
「え……?」
「だって、僕たち四人の中で秘密を抱えているのはルイネだけだなんて、一体誰が言ったの?」
それは、と扉の向こう側でルイネは口籠った。シュレンはぐっと丹田に力を込めると、聞いてほしいことがあるんだ、と真摯な声で話を切り出した。
「ルイネ。僕のことで聞いてほしい話があるんだ。ルイネだけじゃない、僕もずっとみんなに隠していたことがあるんだ」
「え……?」
「初めて会ったとき、どうして僕が冒険者になりたいのかルイネに話したよね。あれ……嘘なんだ」
「……どういう、こと?」
「土塊を金に変える方法を探すため、リンシュ大陸に渡るための費用を稼ぎたかったからっていうのは本当なんだ。嘘なのは……動機の方」
シュレンは自分の語尾が震えるのを感じた。自分の嘘を告白するのはこんなにも勇気がいることだったのかと思うと、胃が痛くなりそうだった。
「僕が土塊を金に変える方法を探していたのは、貧しい村を豊かにしたかったなんてご立派な理由じゃないんだ。
僕はね、盗賊団で生まれ育ったんだ。だけど、鈍臭くて体力のない僕は盗賊には向いていなくて、アジトで荷物番ばかりさせられてた。
ある日、父さんと母さんが仕事でヘマをして、王国兵に捕まったんだ。荷物番の傍ら、独学で錬金術を勉強していた僕は、団の役に立ってみせるから――少し時間をくれれば土塊を金に変えてみせるから、錬金術で金を生み出して必ず団に貢献してみせるから追い出さないでほしいと、盗賊団の頭領にお願いしたんだ。けれど、頭領は僕の言葉を鼻で笑って、僕のことを盗賊団から追い出したんだ。役立たずに食わせるメシはない、って言ってね。
だから僕は、いつか僕を追い出した盗賊団の連中を見返してやるために土塊を金に変える方法を探してる。僕が今ここにいるのは、そんなご立派な理由じゃない――ただの僕の意地なんだ」
しばらく、ルイネとシュレンの間に沈黙が満ちた。そして、ふっとルイネが小さく笑った気配をシュレンは扉越しに感じ取った。
「シュレンは強いね。そうやって自分の嘘を誰かに話すのは、とても勇気がいることなのに」
とてもではないが、独力では戦えそうにないひ弱そうな少年。それがルイネにとってのシュレンの第一印象だった。しかし、ルイネはそれが思い違いであったことを悟った。シュレンは勇気ある強い少年だ。
「そんな大層なものじゃないよ。僕だって、今日のことがなければ、リンシュ大陸に渡ってルイネたちとの関係を解消する日まで黙っているつもりだったから。僕ひとりが自分の秘密を黙っていても、仲間として僕たち四人がやっていけるのなら、それでもいいんじゃないかと思っていたから」
「……そっか」
ルイネは小さく呟いた。再び、自分たちの間に降りてしまった重い空気を吹き飛ばすべく、シュレンはわざと明るくこう言った。
「ねえ、ルイネ。お腹、空かない? 今ならまだ、食事出してもらえると思うし、下に行かない?」
そう言われて、ルイネは自分が空腹であることに初めて気づいた。今朝、オムレツとスープを食べたきりで、昼間にあれだけ動き回ったのだから当然だ。けれども、食欲よりも後ろめたさが勝って、食堂に顔を出す気にはなれなかった。
「でも……あたし……、シュレンにも、ミューラさんにも、フェンネルさんにも合わせる顔がないよ……」
躊躇するルイネに、シュレンは大丈夫だよ、と優しく声をかける。
「あれからずっと部屋に篭っちゃってるから、ミューラさんが心配してる。たぶん、フェンネルさんも。
今日のことも、ルイネ自身のことも無理に話そうとしなくていい。ただ……フェンネルさんはともかく、ミューラさんを安心させてあげるために、せめて顔だけでも見せてあげて」
「……フェンネルさんは、いいんだ?」
フェンネルはどうでもいいとでも言わんばかりのシュレンの口ぶりにルイネは小さく吹き出した。
「いいよ、あんなチャラチャラした人のことは気にしなくても。
ねえ、ルイネ。僕はルイネの気持ちが完璧に理解できるわけじゃないけれど、きっとルイネは僕たちがルイネに対して幻滅してるんじゃないかとかって思ってるよね?」
うん、とルイネは沈んだ声でシュレンの言葉を肯定した。
「大丈夫、ルイネはルイネだよ。ルイネが本当はエルフだって知ったからって、その事実は変わらない。僕たちにとってルイネは大事な仲間で、大事な前衛だ。
生まれ育った森で、ルイネがどんな扱いを受けてきたか、僕たちは今日のエルフの女の人の言動からしか推し測ることはできないけれど……きっと、自分がエルフであることを知られたくないってルイネが思うようになるだけのことがあったんだと思う。
確かにルイネが心配している通り、ルイネが魔法の使えないエルフだって知って、心ない言葉をかけてくる人はいるかもしれないよ。だけど、僕たちのことだけは信じてほしいんだ――たったそれだけのことでルイネを軽蔑したり、見限ったりなんてしないって」
僕たちはルイネの味方だ。シュレンの真摯な声に、ルイネは自分の心が揺れ動くのを感じた。
出来損ないだと罵られて育ったこんな自分でも、シュレンたちは受け入れてくれる。あるがままの自分を肯定してくれる。こんな自分でも彼らは必要としてくれる。
その言葉がルイネの心を鎧っていた殻を剥がした。ベッドの上で膝を抱えていたルイネは立ち上がり、恐る恐る扉へと近づいて鍵へと手を掛ける。
ガチャリ、と鍵が内側から開く音がした。扉が内側に引き込まれ、背後に泳いだ体勢をシュレンは慌てて正した。
「――ルイネ」
肩で切り揃えた水色の髪の間から、長く尖ったエルフ特有の耳を覗かせた少女が立っていた。普段、耳を隠している白いウサギの毛皮の帽子の姿は頭の上にはなかった。
「……シュレン。お腹減った。シチュー食べたい」
シュレンを直視できないのか、ルイネは伏目がちにそう言った。彼女の双眸は虹彩だけでなく白目まで赤く染まり、睫毛に透明な雫が揺れていた。
「いいよ。行こう」
シュレンはルイネの荷物を部屋の中にぞんざいに放り込むと、涙でべたべたになったルイネの手を取った。そして、シュレンはルイネの手を引いて、階下へと階段を降りていった。




