役作り1
放課後の教室から出ようとしたところで、クラスメイトに待ち伏せされた。スイセンの花のように、清楚で品のある立ち姿……。
とはいえ、それも校門を出るまでの話だった。門を出ると、まず当然のように、俺の胸に学生鞄を突きつけてくる。
「私の鞄が持てるなんて、末代までの自慢になるわね」
「俺の一族をなんだと思ってるんだ。というか最近、お前のせいで肩こりがひどい」
黒髪で、身長は百六十五センチ。その美貌から同級生の間で女神のように崇められているが、俺が知っているこいつの話をすれば、何人かは口から泡を吹いて倒れるだろう。
「それにお前のせいで腰も痛い」
「肩こりはまだしも、腰痛って……もしかして、平井君の妄想の中で私たちって”変な関係“になってたりする? 気持ち悪いんだけど」
「言いすぎだろ」
水瀬は笑顔だった。子供がてるてる坊主の顔に描くような張り付いたやつ。
「そうそう今度ね、サイコキラー映画のオーディションに挑戦しようと思ってるから、役作りのお手伝いよろしく」
「まさか、ナイフでお前に刺されろとか言うんじゃないだろうな」
「先端だけでいいから」
「いいわけない」
「え、器が小さい」
そういう問題じゃない。
「私は役作りに命を懸けてるの」
「命を懸けてるのは、むしろ俺の方だよ」
クラスメイトの水瀬瑞菜が女優の卵だと知ったのは、つい最近のことだ。数回付き合わされただけでも、彼女の役作りは常軌を逸していた。
「そういうわけで、この足で平井君のアパートに寄ってもいい?」
「勝手にしろ」
♢♢♢♢♢
俺のアパートに着くなり、水瀬は明朗な声で言った。
「ただいまー」
「なんでお前が言うんだよ。ここはお前の部屋じゃないだろ」
俺は一人暮らしをしていて、水瀬は何度も部屋を訪れている。玄関で靴を脱ぐと、慣れた足取りで冷蔵庫に直進。
そして一言。
「もうちょっと、まともな生活したら?」
「ほっとけ」
「しかたないから、夕飯は私が作ってあげよっか。あ、それはそうと……ケチャップ借りるね。じゃあ、平井君はそこに倒れて」
俺は訓練された犬みたいに、その場で仰向けになった。今日の役は、モブの遺体だ。
水瀬が鼻歌を歌いながら、俺の腹部にケチャップをかけていく。それから返り血のつもりなのか、自分の制服までケチャップまみれにした。
「バカ、制服のままだろ」
返事はない。水瀬は俺の腹部のケチャップを、手ですくって見つめた。
『人は心とか脳ばかり特別視するけど、人間の肉体は血を美しく保つための、神様がくれた保管庫なんだ。空気に触れると、すぐ黒くなって美しさが損なわれるから。儚いよね』
もう、水瀬は役の中にいる。普段とは別人だ。
『この瞬間をずっと夢見てた。どうしても君の血が見たかった。こんなに美しいものが、傷つけないと見えないなんて……難儀だよね」
しかたなく、俺も状態の維持につとめた。
顔が近い。鼻先が触れそうだった。
『綺麗だよ——この世に存在する何よりも』
彼女の動きがとまる。沈黙の訪れを演技の終わりと見て、俺はゆっくりと身体を起こした。
「もういいか? 汚れたから早く風呂に入りたい」
「似合ってたのに」
悪魔のような微笑みと意地悪な声は、いつもの水瀬だった。
「というか、殺人鬼の役なんかやって、精神に影響があったりしないのか」
「それは大丈夫。役者は演技をしたあとはね、役を離れて、自分に返ることが重要なの」
そう言って、なぜか俺を見つめながら、水瀬は続けた。
「——そのための帰る場所もね」