生涯学習(2)お茶は度々冷める
「お帰りなさいませ」
自宅の門の前に立つなり、ナレシュの平素の声が聞こえて安堵する。今日は何事もなかったのだ。家から漏れ出る灯りと鼻を擽る夕食の匂いが雪江の存在を感じさせて、自然と表情が緩む。
「お帰りなさい」
愛馬の世話を終えて玄関を開ければ、自分を迎える雪江がいる。今だ。きっと今、胸の奥を温めるこの気持ちを言葉にすれば良いのだ。だが適切な言葉が浮かばない。むずむずすると言えば良いのか。何かが違う気がする。ざわざわではない、ぞわぞわはもっと違う。いや待て擬態語でいいのか。
「ワット?」
ワイアットが難しい顔で黙り込んでいたからだろう、雪江が心配そうに見上げている。ワイアットは何も出てこない代わりにと、とりあえず抱きしめた。ただいまを言うのを忘れていた。
夕食の間も二人きりになった後も、只管湧き上がる感情を言語化することに腐心する。雪江をいつも以上にじっくりと観察し、胸の奥が疼く度に言葉を探すが、結局何も見つけられずに抱きしめて終わる。そんなことを続けて何日目か。護衛が帰り夫婦水入らずの時間に入った時だった。お茶の準備を終えた雪江が長椅子に座っているワイアットを振り返った。執拗に彼女を見詰めていたから、直ぐに目が合う。雪江はその瞬間、怯んだように瞳を揺らし、僅かな躊躇いの後ワイアットの足の間に立った。
「ワット。何を悩んでいるの? 私に言えないようなこと?」
小さな両手がワイアットの頬に伸びて、そっと包み込む。雪江の瞳には心配と同時に不安げな色が揺らめいている。自分の様子がいつもと違うことで彼女の心を乱してしまったのだと気付くと、ちょっとしたことでも彼女に影響を及ぼしていることに喜びを覚えて、次の瞬間には喜んだことに後ろめたさを感じる。一体これをどう言語化すればいいのか。ワイアットは雪江の目を見上げたまま、その身体をこの場に縫いとめるように両手を太腿の裏に回し、膝で挟んだ。
「言いたいが言えない」
ワイアットが苦悶に似た眉の寄せ方で現状を正直に言葉にすると、雪江が動揺したように目を泳がせた。
「また、前みたいな仕事関係の事?」
「いや」
ワイアットは直ぐ様不安を解消してやりたくて即答したのに、雪江は小さく息を呑んだ。頬に感じていた温もりが離れて、左手を下に彼女の胸元で握り合わされる。顔が強張り、掌に膝に、彼女の身体が緊張したのが伝わってきた。
「こ、ころ、変わりをしたんなら。言って欲しい」
ワイアットは何を言われたのか解らなくて間ができる。それが不味かったのか、雪江が下がろうとしたのが触れ合っている部分に伝わった。逃げられると思った瞬間、条件反射のように手足に力が込もる。それだけで彼女の身体は一歩も離れられなくなる。
「なんの話だ」
雪江は言いあぐねるように何度か口を小さく開閉し、視線をあちこちに彷徨わせた後、意を決したようにワイアットの目を真っ直ぐに見た。何かを堪えるように少し下がった眉をぐっと眉間に寄せている。
「私を手放したくなったんじゃないの?」
ワイアットは唖然とした。ここ数日、多少は不審だったかもしれないが、いつも通りどこにも寄らずに帰宅し、夜も変わらず抱いているのだ。
「どうしてそうなる」
我ながら間抜けな顔をしていると思う。それ程意味が解らなかったのだ。だがそれが功を奏したらしい。雪江の強張りがすっと解けた。代わりに気まずげに視線が逸れて行く。
「様子がおかしかったから、そうなのかなって。貴方は嘘をつかないから心変わりをしてもちゃんと言ってくれると思ってるけど……生涯、って断言しちゃってるから、流石に言い難いのかと思って」
理解は嬉しい。だが信用が足りない。挙式で明確に伝えた筈なのに何故なのか。そう思ったところで自分も同じであることに気付いた。雪江も自分との長い年月を願ってくれた筈なのに、少し状況が変わっただけで不安を覚えている。ワイアットは常に奪われる可能性を抱えている所為でもあるが、彼女は内面的なことで、根深いものがあるのだ。
「お前を傷つけたテラテオスと同じことはしない」
彼女をそんな風にしてしまったものと同じだと思われるのは心外で、酷く不快だ。我知らず語調が強くなる。雪江は目を見開き、息を詰めて、喉から迫り上がる何かを呑み下すように顎を引いた。泣き出す寸前の顔に見えて、擡げた右手で頬を包む。親指で目元を撫でると雪江はワイアットの右手を両手で支え、瞼を下ろして掌に擦り寄った。口角が引きつるように上がって、歪ながらも微笑みの形に見える。受け入れられ、頼られているように感じて、ワイアットの胸には充足と高揚が一度に去来した。
「お前が欲しい言葉を考えていた」
「欲しい言葉?」
「愛情のこもった言葉だ。前に言っていただろう」
「……十分だよ」
噛み締めるような声音だった。さっきの言葉を指しているのだろうか。だがそれは、不快感から出た言葉だ。愛情を込めたとは言えない。雪江は大事なもののように、縋るようにワイアットの右腕を抱きかかえている。嬉しくないわけではないが、抱きつくなら本体にして欲しい。残っている左手で膝裏を掬い上げて引き寄せれば、彼女の身体は容易に持ち上がる。足の間の座面に膝を乗せバランスを崩した小柄な身体を難なく受け止めると、細い両腕がワイアットの首に回った。頭頂部に頬擦りの感触を感じる。ワイアットは頭を胸元に抱き込まれる心地良さに意識を持っていかれそうになって、はっとした。自分が幸せにされている場合ではない。ワイアットが少し身動ぎしただけで、雪江は腕の力を緩めて動きやすいようにしてくれる。見上げると彼女は目を細めるようにして微笑んだ。そこにはもう憂いは見当たらないが、言葉に対しての謎は深まった状態だ。これでは応用ができない。
「他に何か、あるだろう」
何故思いつかなかったのか。答えを持っているのは雪江なのだ。彼女に聞けば間違いはない。
「今は十分」
雪江はゆっくりと首を振ったが、今だけでは駄目なのだ。
「知りたい」
「どうして」
「言いたいんだ」
「どうして」
「お前が欲しいものだからだ」
何せ自分はポンコツで、夫としての役割も揺らいでいるのだから、せめて欲しいものを与えられる男でいたいのだ。彼女は困ったように口籠った。
「ないのか?」
「ううん、あるけど」
雪江の目が再び泳ぎ出した。ただ、先程とは様子が違う。恥ずかしいのか目元をほんのりと赤らめて眉を寄せ、瞳の表情を睫毛で隠そうとでもするように斜めに目を伏せている。伏せても見上げる形のワイアットにはその表情は丸見えだ。そんな顔をされたら否応なく昂ってしまうわけだが、今か、今の気持ちを言葉にすればいいのか。隅々まで貪り尽くしたいと言えばいいのか。
「私からお願いしたら、言わせてる感じになるでしょう? ワットが心から思った言葉が欲しいの。…欲張りでごめんね?」
弱ったように窺う目をちらりと向けられれば、我慢できるものではなかった。否、我慢する必要がどこにあるのか。ワイアットは雪江の小さな頭を押さえてその柔らかい唇に食らいつく。思い返してみれば、ベッドの中でも言葉を探して気も漫ろになっていたかもしれない。それも悪かったのではないか。今夜はいつも以上に集中して彼女を悦ばせよう。彼女の口内を味わっていると肩を叩かれる。屋外だと必ずされる可愛らしい抵抗だ。ワイアットは反省の分、理性はいつもより残っていて、彼女が何を欲しているのかを思い出す。心から思った言葉だ。少しだけ唇を離した。
「今夜は寝かせてやれない」
離れた隙に何か言おうとしていた雪江は、ぎょっとした。
「どうしてそうなるの!?」
どうやら欲しい言葉ではなかったようだ。だがワイアットは盛り上がってしまって止まれない。言葉は明日からまた考える。差し当たって今夜は、不安に思うことは何もないのだと身体に教え込もう。今日だけだ、今日だけだからと慌てふためく雪江の顔中に口付けて宥めながら二階に連れ去った。




