表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
条約の花嫁  作者: 十々木 とと
番外編
97/114

生涯学習(1)仕事は迷いない


 雪江は最近、商売まで始めた。商品は玉簪という髪飾りだ。女を飾るものとしては随分安いが、売れ行きは上々のようだ。ワイアットは関わる男達を牽制する為に付き添い、職人と対等に交渉を進める様も目の当たりにしていた。以前言っていた自活が彼女には実現可能なのではないかと思えてきて、焦燥がじわりと胸中に広がる。

 夫の役割は妻の生活環境を整え、外敵から護る事だ。その役割が今、揺らぎかねない事態になっている。ただ、雪江は故郷で自分を養うことができており、それが普通のことだったという。だから始めから彼女はそれを男の価値とは感じていないのかもしれない。しかも治安が良く、夜中でも一人で出歩けていたというのだから、テラテオスの男達は一体全体、何を以って自分の価値を妻に示しているのか。


 雪江にとって、自分の価値とは?


 男女比の差が埋まらなければ、急に治安が良くなることはない。だから少なくとも此方では、雪江にとっても強い男に価値はある筈だ。だがこれまで最も護りが必要だった時にワイアットが傍に居た試しはない。母の言葉が胸に刺さる。軍務に就いているからなのだ。実家の牧場で共に働けば四六時中目が行き届く。雪江は働きたいのだから良い環境にも思える。ただ、兄弟という危険があるからこれも十全とは言えない。そもそも軍人ではない自分にどんな価値があるというのか。


「俺の価値とは?」


 何度も同じ問いに突き当たるあまりに口から出ていた。


「なんだどうした。急にそういうの怖いからやめてくれ」


 雪江を得てからというもの、経験値は同じだった筈なのに、今では下回っている筈なのに、ワイアットをポンコツ呼ばわりしてくるカーステンが若干身構えていた。

 年に一度師団長の視察がある。それに向けて演習項目の確認や練度の報告、調整などで三人の小隊長が膝を突き合わせるのだが、それが終わったところだった。

 ワイアットはじっくりとカーステンの顔を観察する。彼は女受けする顔らしい。観劇の趣味も雪江と共に楽しむのに丁度良い。だが雪江がそれらを重要視している気配はない。ならば例えばカーステンが雪江を娶っていたとしても同じ状況になるだろう。つまり誰が夫でも同じことなのだ。寧ろ軍人として鍛えてきた強さがある分、他の職の男よりはましではないか。ワイアットは雪崩れる勢いで足を突っ込みかけていた迷宮への入り口から、多少遠のいた。


「…お前も偶には役に立つな」

「おいなんか知らんが失礼だろ」


 雪江が何を重要視しているのか、今までを思い返せば必ず手がかりはある筈だ。これまで彼女が明確に欲したのは愛だけだ。当初から物を与えると恐縮し、結婚後も宝石を持たせようとすると守護魔術にも拘らず渋ったことがある。矢張り財力では、いや、物ではないのだろう。愛を与え続けられればずっと自分の元にいてくれるということではないだろうか。

 ただ、結婚当初夜になれば必ずできる限りの愛情を注いでいたのだが、数日で雪江に怒られている。死なせるわけにはいかないのでそれ以来少し抑え気味だ。キスや抱擁が良いと言うのだからそれは遠慮しない。然しそれだけでは、自分が物足りない所為か不安が募る。本当にこれで合っているのか、正解を知っているのは雪江だけだ。できていないのは言葉だけだが、これが最も難しい。愛情のこもった言葉とはなんなのか。

 周囲に呆れられたりポンコツ呼ばわりされるまでもなく、ワイアットには色恋方面の自信は皆無だ。そもそも相手がいないのだから経験など積める筈もなく、結婚もほぼ諦めていたから、雪江に愛されたいと言われて初めてそれについて考えた程なのだ。

 当時は雪江の生活環境を整えながら、もう半分娶っている気分でいた。自分の為に落ちてきた女だ。これを娶らずにどうするというのか。雪江に選べと言われても既に選んでいて、何を言われているのかさっぱり解らなかった。考え直す必要など微塵もなかったからだ。考えれば考えるほど解らなくなり、もたもたしている間に奪われ、最終的には思考が飽和した結果、気だけが逸って思いの丈をぶつけるだけぶつけていた。冷静になって振り返ると、子供の我が儘のような求婚だったと思う。

 『できる男の求婚術』なる本には、雰囲気や状況を作り上げることが大前提と書かれていた。例に挙げられていたのは、高級飲食店で舌を喜ばせ贈り物で財力を示したところで、劇場のボックス席で共に観劇し相手の気持ちが盛り上がったところで、或いはベッドに連れ込んで良い雰囲気になったところで。何一つ掠っていない。何が決め手だったのかは判らないが、あの乱暴な求婚でも愛を示せていたということなのではないか。教本が実戦には役に立たなかったいい例だ。本は即刻売り払った。雪江はユマラテアド女とは違うのだから、それを対象とした本はあてにならないということではないだろうか。ではどうしたら良いのか。いくらか建設的な思考になったと思ったらまた行き詰まった。ワイアットは腕を組み、机の上の演習計画書を睨みながら唸った。


「また奥さんのことで悩んでんじゃないだろうな。妙な行動に走る前に相談しろ」


 恙無く終わった議題に難しい顔をする要素はない。カーステンに気取られた。


「参考になった試しがないんだが」

「お前がそれで悩むと俺に迷惑がかかんだよ。せめて内容だけでも把握させろ」


 ワイアットはカーステンに迷惑をかけた覚えはないが、小隊長室を猫まみれにした件は悪かったと思っている。何も知らない隊員が扉を開けた瞬間に一匹が逃げ出し、厨房に入り込んで食材を荒らしてしまったのだ。衛生をなんと心得る、と糧食班長に叱られた。捕獲、片付け、清掃、全部やった。始末書も書いた。始末書との関連は不明ながら、それを読んだ後と思しきタイミングでセオドアが「奥さん、うちの子の嫁にもらおうか?」と割と本気の目で言っていた。断固拒否に決まっている。


「…愛情のこもった言葉とはなんだ」

「だから舞台観まくれって」


 ワイアットが期待せずに訊くと、いつかと同じ助言が返ってきた。


「あれは嘘くさい」


 恋愛劇は二度程居眠りしながら観たことはあるが、登場人物の愛を表現する言葉は装飾が多く大仰で、あんな言葉が響くのか甚だ疑問だ。数を観たところで自分のものにしたいとは思えないだろう。雪江の手掛けた脚本なら観る気はある。雪江の考えを登場人物が演じているわけではないのは解っているが、それでも彼女を理解する手掛かりにはなるかもしれないからだ。


「そりゃ作り物だからな。実話じゃない限り想像だけどな。けど作ってる奴の経験に基づく何やかんやは必ず入ってくんだから大きく外れてもねぇんだよ。先ずいろんなもんに触れて見聞を広めろ。お前ほどのポンコツなら得るものしかないぞ」


 一理ある。だが外れていない部分がどこか、という問題があるだろう。ワイアットには判断できないが、カーステンにも判断できているか怪しいと踏んでいる。


「タデウス、パス」


 ワイアットが胡乱な目で黙ると、カーステンはさも面倒だと言わんばかりに放り投げた。


「思ったことを口にすればいいんじゃないか。奥さんを愛してるならそのまま言葉に表れるだろう」


 雪江を前にした時に身の内に生まれる感情を言葉にすればいいということだろう。求婚時のことを思えば有効な可能性が濃厚だ。ただこれには大きな問題がある。言語化能力だ。例えば癒しを求めて雪江を懐に入れた時に抱きしめ返された時の感情を、雪江が恥ずかしがって自分の腕の中から出ようと全力でもがいている時の気持ちを、あの柔らかい身体を食らい尽くしたくなる時の気持ちを、どんな言葉にしたら言い表せるのかが解らないのだ。


「………難しいな」


 低く唸ったワイアットにタデウスは肩を竦め、カーステンは舌打ちした。 







「女性を落とせる言葉を一人一つ以上述べろ」


 カーステンは目前に整列している小隊員達に重々しく告げた。


「小隊長、女見つけたんですか!?」

「そんな魔法の言葉があったら自分が使います!」

「小隊長は顔があるんだから言葉くらい俺に譲ってくださいよ!」


 訓練場が一瞬で騒然となった。


「まあ待て、俺が口説き落とそうってんじゃない。これはコナー小隊の円滑な運用に関わる重大案件だ。ここ最近、スカイラー曹長がおかしな行動を取る度に俺が対処を頼まれる。お前達がそんな現場を目撃しても俺に報告するだろう」


 階級事情により自動的にそうなる。話の流れには首を傾げながらも、小隊員一同頷いた。


「一つ一つは大したことじゃない。ちょっと気味悪ぃな、って程度だ」


 カーステンはふと遠くを見た。


「だがな、そういう時は決まって奥さんが原因なんだよ」


 柔らかく頬を撫でる風に目を細め、哀愁を帯びた微笑みが浮かぶ。そうするとそこはかとなく美青年度が上がるのだが、ときめいて欲しい対象はこの場にはいない。


「呼ばれる度に俺は精神を削られる。いやいいんだよ、解るよ。あいつが使いもんになんなかったら普通に困るよ。俺適任だよ。でも適任じゃねぇよ。なんっで俺が! 他人の夫婦が仲良くなる手助けしなきゃなんねぇんだよ! 俺だって結婚したいわ! かわいいかわいい妻が欲しいわ! あいつより深刻な悩み抱えてるわ!」


 言葉半ばでかっと目を見開き、掌が上向いた両手をわなわなと震わせながら最終的には地面に向かって吠えていた。小隊員達は引いた。だが気持ちは解る。相当ストレス溜まるやつだと同情もする。ただ八つ当たりはされたくない。小隊員達は理解した。これは小隊の円滑な運用に関わる重大案件である。


「小隊長! 今回は奥さん口説く言葉が見つからなくてスカイラー曹長がおかしくなってるってことですか」


 さっと挙手した伍長が要約した。


「それだ。だが今回はまだ行動には表れてない。事前に察知できたのは幸運だった。とっとと片付けたい。めんどくせぇ。知恵を出し合うぞ」


 途中で何か本音が混じっていたが、突っ込んではいけないところだと賢い小隊員達は解っている。

 小隊員達は葛藤した。もう諦めている者はそもそもそんなことを考えたことがない。スカイラー曹長と五十歩百歩であることが晒されてしまう。諦めていない者も、未だ女性との出会いはない。気配すらない。だが来る時の為に繰り返し妄想し、ない頭を捻って絞り出した珠玉の言葉を他人に供与しなければならないのだ。しかも妻帯者に。これがどれ程の苦痛であることか。それでも上官命令は絶対だ。


「貴女の肌に溺れたい、はどうでしょう」


 意を決して一人が発した言葉に、どよめきが起こる。


「じょ、情熱的だな」

「ちょっと直接的すぎじゃないか? あんまり露骨だと女は引くって聞いたことあるぞ」

「え、俺もっと際どいの言おうとしてました」


 それからどれだけ際どい台詞を言えるか頂上決戦が始まり、カーステンが目的を思い出させ、またいつの間にか脱線しては復旧を繰り返し、コナー小隊は歴戦の猛者のような風格を手にした。その風格が実際に通用するのか試される予定は誰にもないが、自信に満ちた男達の訓練はいつも以上に士気が高かった。

 なんだかんだですっきりしたカーステンは、廊下をすれ違う際にワイアットに一片の紙切れを握らせる。


「小隊総出で頭を絞った。大事に使え」


 ワイアットは何かを成し遂げた顔で遠のいて行くカーステンの背を、怪訝な面持ちで見送った。小さく折られている紙を開くと、猥談に使う単語が混じった台詞が羅列されている。意味不明である。


「待て訓練中に一体何して」


 再び顔を上げたそこには既にカーステンの姿はなかった。

 ワイアットは考え込む。カーステンは使えと言った。まさかとは思うが、今日の流れからすると思い当たるのは愛情のこもった言葉しかない。ただ、盛ると言っただけで包めと言う相手に猥談用語は適切ではないだろう。問題なさそうなのは『貴女を想うと夜も眠れない』『君の為なら死ねる』『骨の髄までしゃぶり尽くしてくれ』くらいのものだが、夜は眠れている。雪江は死を喜ぶような女ではない。最後のはただの要求ではないだろうか。

 タデウスの助言に従おう。ワイアットは改めて頷いた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ