9. 保護者同伴
雪江はワイアットに、いらない布があるか尋ねてみた。用途を訊かれたのでエプロンを作りたいことを伝えると、即座にトコ・プルウィットに連行された。フリル付きの可愛らしいエプロンを購入されて遠い目をする雪江に、可笑しそうに笑いを堪えたマダムが「笑ってお礼を言うのが何よりのお返しですよ」と耳打ちする。三日目にして雪江は諦めた。護衛の人件費や家という大きな買い物に比べれば些細なことだと。
ワイアットは昼食作りの際に真新しいフリルエプロンを着用した雪江を眺めて満足そうにしていたのだが、食後、並んで食器を洗う頃には平素の顔で見下ろしている。
「職を探しているのか」
呟くように問うワイアットの声は少し硬かった。雪江はマダム・プルウィットとの茶会に護衛達も同行していたことを思い出して、背後を振り返る。家主達の食後に交代で昼食を摂り始めた彼らは、雪江の視線を受けても特に反応がない。報告も仕事のうちということだろう。
雪江が頷くとワイアットの眉間に皺が寄った。
「何故だ」
怖い顔だが空気は怖くない。じっと目を見ていると怒っているわけではないことは判る。理解し難くて困惑しているのだ。雪江が此方の常識に困惑しているのと同じだ。
「私の国では女性が外で働くのは普通なんです。私も学校に通っている時から働いていて、卒業後も働いて自分で自分を養ってました。専業主婦になる人もいるけど、結婚しても働く女性は沢山います。私も漠然とそういうものだと思って生きてきたので……何だろう、働いてないと落ち着かないんです。そうでないと…」
そうでないと、何だろう。その先の気持ちを表すのに適切な言葉が浮かばなくて、雪江の手が止まる。考えたことがなかったのだ。
「食えなくなることへの不安か?」
「そうじゃないんです。…ああいえ、それもあるんですけど」
いつの間にか食器を流す水音が止まっていた。雪江の手の中にある皿をワイアットが抜き取って拭き、食器棚に戻す。それをぼんやりと目で追って、雪江はぽつりと呟く。
「私の価値の一部だったから、かな…」
言葉にしたらしっくりきた。
「私、もう肉親はいないんですけど。生きてた時もそんなに可愛がられてたわけではないんです。だから多分、働いてると役に立ててる気がして、必要とされている気がして、対価にお金がもらえると認めてもらえてる気がして、落ち着けてたんだと思います」
話をしているうちに目から鱗が落ちた気分になった。人と話すと考えが纏まることをしみじみと再確認していたので、雪江は気付かなかった。ワイアットが頬に手を伸ばしたことに。水仕事で体温を失った大きな掌が左頬を包み、雪江は驚いて顔をあげる。
「な、なんですか?」
ワイアットの手は雪江の頬には大きすぎて、余った指が耳を挟むような形になっていて落ち着かない。硬い親指が感触を確かめるように頬骨の辺りを撫でて、背筋がざわざわした。
「俺がお前の価値を保証する」
真剣な眼差しに射抜かれて、雪江の心臓が跳ねた。突然すぎて頭が働かない。働かないまでも護衛の存在を思い出して目を向けると、彼らは見ていないふりをしている。空気になるのも護衛の技能のうちなのか、彼らの助けは望めそうにない。
「働かなくても俺はお前を必要としている」
「あ、あの」
「万一俺が働けない体になって退役することになっても軍人年金が入る。食いっぱぐれる心配もない」
「え、あ」
「安心して此処に居ればいい」
「ああああああの、ありがとうございます。ただあの、付き合ってるわけでもない人に何から何までお世話になるのは、やっぱり違うと思うんです。貢がれる文化は私のところにはなくて、いえ、一部にはあるんですけど愛人とか! でも私にはなくて! いたたまれないんです、だから働きたいんです!」
ワイアットの言葉は飾り気がない分より真摯で、ひどく魅力的な響きを持って雪江の耳を打った。このままでは、結婚相手として欲されているだけなのに、好意を持って口説かれていると勘違いして呑まれてしまう。それではいけないと思った。
雪江は手に残っていた布巾を握り締めて力説し、そっと一歩下がるとワイアットの手は追ってこなかった。その代わり目は離されない。負けるものかと雪江は目に力を込めた。
「あてはあるのか」
長い睨み合いのような見詰め合いの末、ワイアットが息を抜いて目を伏せる。頭ごなしに否定されなくて、意外な心地と共に雪江の肩から力が抜けた。
「娼館のお仕事なんですけど」
言い終わる前に鋭い眼光で睨まれて、雪江は慌てて首を振る。
「あ! 違います違います! 身体を売るとかじゃなくて!」
「当たり前だ!」
低くてもよく通る声で怒鳴られて、雪江の身が竦んだ。
「旦那様、ユキエ様は壊れものです」
空気に徹していたナレシュがそっと助け舟を出す程縮こまっている雪江に、ワイアットが我に返った。エアロンがナレシュを睨み、護衛達は素知らぬ顔で空気に戻る。
「すまん。怖がらせるつもりはなかった」
「…いえ。心配してくれたんですよね」
雪江が少し笑んでふるふると首を振ると、ワイアットは決まりが悪そうに眉間に力を入れて目を逸らす。不貞腐れているようにも見えて、雪江はちょっと可愛いなと思ってしまった。
「どういう仕事なんだ」
「昼間に公娼のお世話をする仕事らしいんですけど、詳しくは分からないので聞きに行こうと思ってます」
「俺も行く」
「え」
腕を組み、断固として譲らない空気を醸し出すワイアットに雪江は困ったように眉尻を下げた。子供ではないのだ。保護者同伴のようで恥ずかしい。それに。
「……威圧しないでくださいね?」
本人にそのつもりがなくても、身体が大きく厚みがあるというだけで威圧感がある。そのうえワイアットは目つきが鋭く、愛想がないのだ。軍人としては適しているのかもしれないが、職を得ようとしている人間の同伴者としては不安しかない。雪江の口からは不安がそのまま出ていた。
「善処する」
重々しく頷いたワイアットは隊の本部に出かけていった。
次の日は雪江を伴い役所へ。安全確保のために本人証明が必要だとのことで、戸籍の写しを取りに行った。女性の戸籍は滅多に必要にならないらしく、ハクスリーが理由を求めたので娼館で働きたい旨を伝えた。ハクスリーはぎょっとして上司に伺いを立てに行き、ワイアットまで呼ばれ、最終的に「違法行為に利用されないようにしっかり監督して下さい」と渋い顔でワイアットに念を押して戸籍の写しは渡された。雪江を帰宅させたワイアットは写しを持ってまた本部へ。
まだ話を聞きに行く段階なのにワイアットが忙しくしていて、雪江はとんでもないことを言い出した気分になる。実際に娼館に出向けたのは次の日の昼食後だった。