目指せ定年退職
雪江がコスタスの誤解を解いた日の帰路。護衛の三人は無口だった。エアロンとコスタスはそれぞれの物思いに耽っていたが、ナレシュはにやにやしている。コスタスは暫くすると我慢できなくなった。
「ナレシュ。気味が悪い」
「え?」
「何にやついてんだ」
「いや、だって。俺達の命が重いって」
雪江の言葉を反芻していたようだ。
「お前は単純でいいなぁ」
コスタスの口から羨ましさ半分、呆れ半分で吐息が漏れた。
「何だよ、嬉しくねぇの?」
「嬉しいけどね」
「けど、何だよ。嬉しい以外に何かある? 俺達が死んだら悲しんでくれるってことだぞ」
寄宿学校の同期や此処にいる二人は悼んでくれるだろう。だがそれは、同病相憐むような不健全な連帯感が根底にあることは否めない。そこに含まれない外部の人間が悲しんでくれる、命を惜しんでくれるというのは、そんな筈はないのに自分が少しばかり上等な生き物になったような気分になる。
「奥様にとっての俺達に人質の価値があるということだ」
周囲に人気がないことを確認して、エアロンが声量を落として答えた。意味するところを理解してナレシュの顔が強張る。
「あ、ど、ま、不味いな。でもこれ、黙ってればばれないことだよな」
「まぁなぁ…ただ、現場で出ないとは限らないからね」
コスタスはラウシム山付近の森で雪江が自分の名を叫んだタイミングを思い出していた。助けを求める声だと思って慌てたが、あの時点で雪江を追っていた男は倒れていた。小さな疑問は雪江が無事だったことにより些細なこととなって、掘り下げて考えないまま忘れ去るところだった。雪江の話を聞いた今となれば、自分が倒れたことに対しての叫びだった可能性が浮上して見過ごせなくなり、その話をするとエアロンもナレシュもより深刻な顔になる。自分達の誰かが危険な状態に陥れば雪江の反応で気付かれる。そうでなくても死にでもしたらその場で身動きできなくなるかもしれない。雪江のことを考えるなら、ただ喜んでいいものではなかった。沈黙が少し重い。
「ローラン達に相談してみる?」
ティーグ家の護衛達のことだ。彼らの勤続年数は短い者でも三年と聞いているから、それなりに対策を編み出しているかもしれない。中でもローランはルクレティアが落ちてきた当初よりティーグ家に雇われているから、一通りの経験はありそうだ。エアロンとコスタスは数十歩の間たっぷり考えこみ、ナレシュの提案に乗ることにした。
彼らは退勤時刻も帰路も似通っているから、重なる道まで出て十数分も待てば合流できた。六人連れ立って向かったのはイヴの微笑み亭だ。
「奥、空いてる?」
足を踏み入れて直ぐに店員を捕まえて、コスタスが確認をとった。奥には個室がある。女性同伴用のものではなく、護衛達が他人に聞かれては不味い話をする為の部屋だ。寄宿学校出身者の経営する飲食店では必ずと言っていい程この部屋が用意されている。
注文の品を出し終えた店員が下がった個室では、街の情勢の話や不審者情報の交換が始まる。雪江とルクレティアが懇意にしている為二家の護衛達は一堂に会する機会も多いのだが、勤務中に無駄口を叩くことはない。警護に必要な情報交換はこうした勤務外の時間に行われていた。
「で? 何があったんだ」
それでも密談用の個室を態々使う程の内容ではない。粗方情報が出尽くして話が途切れた寸の間に、一足先に自分の皿を空にしたローランが促した。両脇のブリュノとイレネーは手は止めないものの、少し緊張した面持ちで向かいの三人を見る。
「まだ何も起きてはいないんだが…テラテオス人の距離感はお前達も体験しているだろう。もう三十年だ、事件件数の割りに護衛が人質に取られた話は聞かない。特別な対処法でもあって事前に防いでいるのかと思ってな。何か知ってたら今後の為に聞かせてもらえないか」
エアロンは婉曲に問うた。同業だからといって護衛対象の具体的な情報は渡せない。内容が内容だけに尚更だ。又、同じテラテオス人とはいえ個人差があるから彼らも同じ悩みを抱えているとも限らない。
ブリュノとイレネーの視線がローランに集まる。彼らも知らないということだ。
「聞かないからって無いわけじゃない」
ローランの苦々しげな一言で場にひんやりとした空気が漂った。
「どういうことだよ」
「醜聞になるようなことは旦那様が揉み消すとかですか? 護衛と恋仲だった場合とか」
ナレシュが眉を顰めて問うて、ブリュノが可能性の一つを挙げると一同微妙な顔になる。護衛全体の評価にも関わるのであまり歓迎できたことではない。
「そういうこともあるかもしれないが、生存者がいない事件で何があったかなんて誰にもわからんだろ。それに考えてもみろ、自分の所為で奥様を害されるんだぞ。最悪、目の前でこれ見よがしに暴行されたかもしれん。自分だけ生き残って、口にできる奴がどれだけいると思う」
皆育ちは良い為皿とカトラリーが触れ合う音は元々殆どしないのだが、全員の動きが止まれば衣擦れの音すらなくなる。壁を隔てた店内の賑わいが耳に付くほどの静寂だ。
「…駄目だろ、そんなん。手口伝えなきゃ備えられないじないか」
我が身に置き換えることを厭うたナレシュの声は、呟くように小さい。自分に言い聞かせるような声音は乾いていた。誰も何も返せない。この場にそれを体験した者はいないのだ。コスタスが宥めるようにナレシュの肩を軽く叩き、声はローランに投げる。
「生き残りに心当たりあるのか」
「正気を失った奴なら。そいつに奥様を会わせるか検討したことがある」
「えっ、なんで」
イレネーが驚きで反射的に声をあげた。
「俺達を潔く逝かせるか、そいつみたいにするか、覚悟決めてもらおうって話になった」
息を呑んだブリュノと青褪めたイレネーを余所に、ローランはスカイラー家の三人を見ていた。
「参考になったか?」
「…ああ」
エアロンが頷くと、物問いたげなブリュノとイレネーを連れてローランは退室した。彼らは彼らで、この件で話すことがあるのだろう。
コスタスがスープを飲み始めたのを機に食事は再開された。黙々と皿に残っているものを胃に送り込むだけの時間は、人口密度が減って空間に余裕ができた筈なのにそれを感じさせない重苦しさだった。
「奥様に覚悟してもらう話なんだな」
「まぁそうなるよね」
結局、護衛としてはそんな事態になる前に事を収めるしか方法はないということだ。ぽつりと呟くナレシュに頷くコスタスは、吐息したものの想定内といった様子で思い悩む気配はない。早々と吹っ切れでもしたようなそれにナレシュは恨めしげな横目をちらりとやって、エアロンに視線を巡らせる。
「…会ってもらうのか?」
「いや。奥様は説明すれば十分理解できる。ローランもあの口ぶりでは会わせていないんだろう」
「今の今まで他の二人に話してなかったところを見ると、ティーグ夫人の選択は想像つくな」
エアロンの判断に異論がないことを示すようにコスタスも頷く。
「……奥様は、どっち選ぶかな」
ナレシュの瞳が不安げに揺れる。
「分別のある人だ。誰も幸せにならない方は選ばないだろう」
「…どっち選んでも、奥様は耐えられない気もするけどね」
確信をもってエアロンが答え、コスタスの苦笑いに少し憂鬱なものが混じった。背負いきる自信は無いと本人がはっきり言っていたのだ。自分達の望む選択をしてくれたとしても、きっと彼女には辛い。
「……………旦那様が支えてくれるだろう」
「………………………だ、大丈夫かな、それ」
エアロンが至極順当なことを口にしたものの、ナレシュの率直な不安に全員黙った。雇用主や司令塔としては絶大な信頼があるが、力押しもできない繊細な事柄となると────誰も視線を合わせようとしない。
「俺達死んじゃ駄目だな」
「…ああ」
「…うん」
違う角度からの実感が混じったコスタスの言に、二人ともしみじみと頷いた。




