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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
番外編
85/114

愛し方が違うだけ


 魔法医が定期検診に来る日は個人で呼んだ時とは違い、トップと言えど一階の片隅に作られている診察室に出向かなければならない。自分の為に必要なことだと解ってはいるが、隣接する待合室で待機するこの時間はあまり好きではない。稼ぎの少なかった時代は大部屋男娼の一人として、壁際に備え付けられた長椅子が二つだけの、そう広くもないこの部屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて順番を待っていたものだが、一人で待っているよりは気が紛れて良かったように思う。

 ネヘミヤは長椅子の上で胡座をかき癖の強い金髪を手櫛で梳いていたが、毛先の縺れは粗方解消してしまった。肘掛に足を乗せて座面に寝そべり、今度は枝毛のチェックをする。

 ノックもなく扉が開いて漸く準備が整ったのかと頭だけ持ち上げたら、メルバだった。


「あれ、まだ?」


 褐色の肌に絹糸のようにさらさらの黒髪、細い切れ長の目から覗く神秘的な金色の虹彩が印象深い彼は、硬質で冷たい美貌の持ち主だ。レーニアがいなくなってからは彼と双璧となっている。庇護欲担当は幾人か育っていて客の流出を抑えてはいるが、三大美姫を名乗るにはまだ人気が足りない。

 ネヘミヤは見慣れた顔を確認するだけして頭を座面に落とし、毛先に視線を戻した。体面を取り繕うような仲ではない。


「うん、今日若いの連れてきたみたいでさ」


 おそらく準備に手間取っているのはその所為だ。


「もう爺だもんな。俺が来る前からウチ担当してんだっけ。そろそろ世代交代か」


 メルバはネヘミヤと対面の長椅子に腰を下ろし、ワンピースの隠しから煙草入れを取り出す。それを目端に捉えてネヘミヤが片手を擡げた。


「あ、俺の前で葉っぱ禁止ね」

「は? 急になんだよ」

「俺長生きすることにしたから」

「はぁ?」


 メルバは迷惑そうに顔を歪めた。


「今更もう遅いだろ」


 体に悪いと解っていても、魔法医に注意を受けても、多くの男娼は煙草を止めることができない。違法薬物は檳榔館では徹底的に排除されているから、逃げ場が酒か煙草しかないのだ。それさえも取り上げてしまったら、より弱い立場の者への暴力が倍増する為、ある程度は容認されている。ネヘミヤは客受けを気にして煙草には手を出していなかったが、受動喫煙はずっとしていたのだから同じことだ。


「俺は格好良いからね。できる努力は怠らないんだよ」

「意味わかんねぇわ」


 軽く笑ったネヘミヤに、メルバは面倒臭そうに煙草入れを隠しに戻した。少しの時間のことで揉めるのも馬鹿馬鹿しいと思ったのだろう。気怠げに足を組み、メルバが口寂しさを紛らわせるように口を開く。


「そういやお前の客俺んとこ流れてきたぞ」

「あ? あー。飽きられちゃったかぁ」


 馴染みの男娼がいる場合、同じ娼館内での乗り換えはあまり行儀の良いこととはされないが、規定があるわけではないのでままあることだ。ネヘミヤは常連のうち最近見ない顔を思い浮かべて小さく溜息をつく。メルバが態々報告するのは、能動的に客を奪ったわけではないことの主張だ。安定して客を確保できている今ならネヘミヤも平常心で流せるが、昔は客をとったとらないで喧嘩になっていた。あの頃は余裕がなかったな、と妙な感慨が過ぎる。


「いや傷心してた」

「なんだそれ」

「お前はちゃんと男が好きだよな、ってしつこく確認してきた。お前がどっかでヘタ打ったんだろ」

「……もしかして国営農場の奴か」


 ネヘミヤがちらりと視線を流すと、メルバは軽く頷いた。


「心当たりあるんだな」

「んー……まぁ仕方ないかな」


 あの日詰所に居た誰かから漏れたのだろうが、ネヘミヤは後悔はしていない。あれは対面でなければ引き出せないことだった。既に流れてしまった客はどうしようもないが、追求しに来てくれれば口八丁手八丁、色気八丁でどうにかできる自信もある。


「あの女にマジ惚れしたのか?」


 ネヘミヤは核心を突かれて一つ瞬いた。最近出入りしていた女は雪江しかいないから、誰を指しているのかは訊くまでもない。


「仕方ないんだよねぇ」


 ネヘミヤは気のない声で肯定する。雪江はもうこの場所には現れないし、手を出したらどうなるのかはレーニアの悲鳴として娼館中に知らしめてあるから、隠す必要はなかった。見なくてもメルバが呆れた目をしているのが解る。


「お前一物とってあんの?」

「いや? 使われたに決まってんだろ」


 去勢しても、保存状態が良ければ再び機能を取り戻せる可能性がある。そうでなくても何かしらが身体の方に残っていて再生する例もあるようだが、きちんとした娼館はその辺りの仕組みも知っていて、下手な医者には任せない。檳榔館のような売りを掲げている娼館は、更に膣の形成にそれを使う。だからもう、望みは完全にないのだ。


「ばっかだなぁ」


 女と直接睦み合える手段もないのにと、心底呆れてのメルバの言葉だった。


「やるだけが愛じゃないだろ」


 これが欠けたところが一つもない男の言うことなら、痩せ我慢や綺麗事の類だったかもしれない。軽く笑っての言葉には、その軽さに見合わない幾つもの思念が宿っている。散々経験した倦みを伴った実感、或いは、傷付き歪み、擦り切れた心の奥底に澱んだ防衛本能。それらは境界が判らないほど溶け合い、ネヘミヤのものになっている。

 ワイアットに語ったことは真実だ。夫婦という、ちょっとしたことで壊れる脆い結びつきを羨ましいとは思わない。婚姻なんて、あんなものは紙面上の契約に過ぎないのだ。血を残す権利を主張する為のものだと理解している。ならばネヘミヤにははじめから関係がない。大体にして、自分が男なのか女なのかだって、もうとっくの昔に判らなくなっている。女であることしか求められてこなかった。そうなることが生きる為の手段だった。だからもう、どっちでもいいと思っていた。必要な時に必要な方になればいいのだから。

 同じ舞台には立たない。立てないから立たないのか、立つ必要がないから立たないのかは、ネヘミヤにも判らなかった。少なくとも今は、友人という関係が嬉しい。友人なら、持続性の怪しい恋情の期限切れに怯えることもなく、夫が替わったところで捨てられることもない。お金が絡まないのは不安だが、ネヘミヤという人間と関係を結んでくれたということだ。職を辞しても関係を続けられる立場を手に入れたのだ。

 彼女が困っているならその助けとなり、傷付くことがあれば彼女の欲する役割で寄り添おう。そうやって彼女の人生になくてはならない人間になっていくのだ。一時の激情で奪い合って彼女を傷付けるような、そんな愚かなことはしない。雄になれない身体で良かった。あの、暴力的な欲望を叩きつけることができない身体で良かった。忌々しいこの身体に、感謝する日が来るとは思わなかった。このまま最期まで彼女の人生に寄り添えたなら、それはなんて、幸せなことだろう。






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