34. 芽生え
結局護衛達と話をした翌日から、買い出しに出るのを第一歩として雪江は出歩き始めた。辻馬車はまだ怖いので徒歩である。事故でも起こらなければ道ゆく人も大それた行動には出ず、必要以上に警戒せずともいい日常が横たわっていた。
ネヘミヤには外出を自粛していることを手紙で伝えていて、また少しずつ外出し始めたことを知らせると案じてくれた。自粛の間、頻繁にやり取りされていた手紙は自粛に触れない軽い内容だったが、心配はしていたようだ。ワイアットにも手紙が来ていて、それを読んでいる彼の眉間の皺が深かったので、そちらは込み入った内容だったのかもしれない。
ワイアットの非番と公演日が重なる日、ケスクス劇場を訪れた。雪江の不安を慮って軍服着用のもと出かけようとしたので慌てて止めて、白い立襟シャツと濃紺のトラウザーズというシンプルな出で立ちになっている。
チャニングの脚本は、駄目男ができた女に只管甘やかされて自信を得た駄目男に進化する話だったが、駄目男がいい女に出会って自分磨きをし、恋も仕事も手にする話になっていた。
雪江は内容を知っていたが、登場人物が動き、全身で、時には目線一つ、間一つで感情を、息遣いを伝える演劇という形となったものを前にすると、新しいものを観ているように心躍った。自らの想像の中だけで小さく纏まっていた世界が、幾つもの人間の視点が混ざり合って広がりを見せ、別物のように生き生きとしている。ぞくぞくしながら観客席を見た。舞台に近いボックス席を選んでいたから、観客の表情も見える。ちらほら空席はあるものの、観客は舞台をちゃんと観ている。自分の携わったものが人を楽しませている。
熱くなる胸の内を知ってもらいたいと隣を見たら、ワイアットは腕を組んで居眠りをしていた。雪江はそこに温度差を見て多少冷静になり、そうだった、と我に返り笑ってしまった。ワイアットは眠っていたら起こすように言っていたが、そっとしておく。内容も一緒に楽しめるに越したことはないが、努力して楽しむものではない。幕が下りて観客の拍手で目を覚ましたワイアットの腕を、雪江は待ってましたとばかりに掴んだ。
「皆席を立たずに最後まで観てくれた!」
目を輝かせている雪江を見て、カーテンコールをしている舞台を見て、ワイアットは唸った。
「起こさなかったのか」
「大丈夫! つまんないのは知ってる!」
元気に言うことではない台詞を弾む声で言われたワイアットはたじろいだ。そんなことよりと雪江は客席を示す。
「ね?」
「本当だな」
「私でも役に立ってるみたいで嬉しい」
雪江の充足感のこもった吐息にワイアットは目元を緩め、雪江の頭を撫でた。雪江はワイアットにも認めてもらったようで尚嬉しい。
役者達が舞台袖にはけて、彼らが落ち着く時間を十分とってから手元の包みを抱えてボックス席を出る。楽屋見舞いに行くのだ。警備員にチャニングに貰った招待状を見せると、直ぐに通してもらえた。
「チャニングさん、いらっしゃいますか?」
楽屋の扉をノックして声をかけると、中でがたがたと何かが倒れる音がしてにわかに騒がしくなる。ワイアットが無言で雪江を抱き上げて壁際まで下がった。雪江も少し怖いので大人しく左腕に収まり、代わりにナレシュが前に出る。
「悪い、遅くな…あ?」
扉を開けたチャニングが、ナレシュと顔を見合わせてきょとんとした。視線を彷徨わせ雪江を見つけると、口端を引きつらせる。
「ぉ、おぅ。旦那も一緒かぉあ!」
「待ってました!」
「ようこそスカイラー夫人!」
「どうぞ中へ!」
チャニングの後ろから役者が一人、二人、三人と、無理やり顔を出し、雪崩れるようにチャニングが押し出された。雪江に突っ込まないようにナレシュが支えたので、前後から挟まれて潰れそうになっている。
「やめろ旦那いるから旦那! お前ら俺の命大事にしろ!」
「ひ!?」
「ざ、惨殺事け…」
必死に訴えるチャニングよりも、ワイアットの一睨みで青くなった役者達が引っ込んだ。閉め切った扉に背を預け、チャニングは大きく息を吐き出す。
「う、うちの奴らが…すんません」
ワイアットに向かって謝った。目は逸れている。
「チャニングさん、こんな格好ですみません。ワット、もう大丈夫だから下ろして?」
ワイアットは険しい顔のまま雪江を下ろした。雪江はワンピースの裾を直して、持参した包みを差し出す。皆で手軽につまめるよう、お祝いのメッセージカードを添えたクッキーの詰め合わせだ。
「遅くなりましたが、ケスクス劇場初公演おめでとうございます。さっきの公演、観ましたよ」
「お、おう! ど、どうだったよ」
チャニングは挙動不審のまま包みを受け取った。
「脚本が見る見るうちに変わっていくのも面白かったんですけど、舞台になっているのを観るのはまた格別の感動でした。舞台を作り上げるって凄いですね!」
雪江が伝えたいことは沢山あるが、あり過ぎて言葉にならず、簡潔に要点だけを述べる。細かい事は後援会でマロリーに心ゆくまで語ればいい。それでも高揚して両拳を握っていたので心からの賛辞だと伝わったのだろう、チャニングは肌の色が濃くて顔色が判りにくいが、上気している気配がある。口を目一杯引き結んで雪江を睨みつけたと思ったら、ワイアットの存在を思い出したかのようにはっと目線を上げて腰が引け、頭を掻き毟って蹲み込んだ。
「あ゛ぁくっそ!」
「チャ、チャニングさん? 大丈」
「もう挨拶は済んだな」
雪江がおろおろとチャニングの様子を窺うように屈んだら、後ろから引っ張り上げられてワイアットの左腕の上だった。
「ぅ、わ、そ、そうだね、あんまり長居するもんじゃないし。チャニングさん、最終公演まで頑張ってください。マロリーさんや皆さんによろしくお伝えくださいね」
もう踵を返して歩き出しているワイアットの肩越しに、雪江は慌てて声をかける。
「お、おい! 次の脚本も頼めるか!」
チャニングも慌てて立ち上がっていた。雪江は目を丸くして、直ぐに満面の笑みで請け合った。
「はい! 喜んで!」
ワイアットが大股で歩くので、雪江の上げた手がチャニングに見えたかは判らないが、角を曲がる前には振れた筈だ。
「聞いた? 次の仕事も頼まれちゃった!」
雪江が目を輝かせてワイアットを見ると、彼は笑もうとしたのか頬が引きつるように小さく動き、次の瞬間首をがぶりと噛まれた。




