32. 爪痕
雪江は帰宅するなり一日寝込んだ。大量の血臭を嗅いだのも、人が斬り殺されるのを見たのも初めてだった。自分が害される恐怖とどちらが大きいのか判らないくらい深く脳裏に、心に焼き付いている。夜は人が斬り殺される場面を繰り返し夢に見て魘され、ワイアットの安眠妨害になっていた。殺される人間が自分や護衛達であったり、ワイアットだったりもして、夢から覚めても少しの間混乱している。
その日も深夜に飛び起きた。もう三日目だ。雪江は流石に申し訳なくなった。
「暫く別々に寝」
「断る」
ある程度落ち着いたところで提案しようとしたら、最後まで言わせてもらえなかった。しょうがないので自分の枕を抱いてベッドから抜け出そうとすると、片手で軽々と引き摺り戻される。
「だってワットも起きちゃうじゃない」
「いいんだ」
「良くないよ」
「新兵の頃、寝入り端や明け方に叩き起こされる奇襲訓練があった。なんてことない」
「……これ訓練じゃないんですけど」
「いいから」
ワイアットは胡座をかいたそこに雪江を横向きに座らせ、頭を抱き寄せた。冷たくなっている雪江の指先を温めるように握り込み、宥めるように手の甲を指で撫でる。
「お前に何かあっても直ぐには駆けつけられない。こんな時ぐらい傍にいさせてくれ」
この先もきっと、現場に居合わせることはできない。それをワイアットが歯痒く思っていない筈がなかった。気遣いの仕方を間違えたと気付くと同時に、雪江の弱さをなんでもないことのように受け止めてくれるのだと思うと、凍える心地だった体が内側から温まっていくようだった。
「………ありがとう」
雪江が甘えるように頬を擦り寄せ呟くと、ワイアットはやるせなさと満足が混在した息を吐く。
「眠れそうか」
寝汗で湿ったネグリジェを着替えベッドに潜り込んだ後も、抱き込んで眠るワイアットにはなかなか寝付けていなかったことは見抜かれている。雪江が素直に首を振ると、着替えている間に安眠効果のあるハーブティーを用意してくれた。
それから幾日か経って、一連の事件はガベリア王国の間諜の仕業だったことが調べあげられた。モニク・フェレールや魔術師、街に潜んでいた数名の男が捕らえられ、一先ずの収束とみて測位釦を返却することになった。ワイアットから大まかな説明を受けて、雪江は唖然とする。
「はにーとらっぷ…」
知識がないわけではない。個人が金銭目当てに仕掛けたり、政治家に仕掛けられるものを時折ニュースや創作物で目にしていた。此方ではさぞかし有効な手段なのだろうと思う。だがそうまでして欲しいどんな情報が国営農場に隠されているというのか。作付面積でも知りたいのだろうか。それに関しては国営農場は関係がなく、本来の部隊の役割を聞いて一先ずは納得した。ただ、態々妻帯者を狙うのは解せない。
「中隊長は何度か仕掛けられたがその都度見破っている。その下の人間となると一人は同性愛者で経験豊富、一人は独身だが世慣れている。適当なのが俺だったんだろうということだ」
ワイアットは顰めっ面で教えてくれた。ある程度情報に触れられる立場の人間の中で、妻帯していようが世慣れていない無骨な男が一番引っ掛けやすく、見破られ難いと見做されたということだ。雪江は思わず納得顔をしてしまい、ワイアットの顔が更なる仏頂面になった。
「でも。引っかからなかったんだね」
様子がおかしくなる程ストレスを受けていたのかと思えば手放しでは喜べないが、その点だけは雪江にとっては嬉しいことだ。当たり前だと頷くワイアットは誇るでなく、疲れたような吐息の吐き出し方をした。長椅子に並んで座っていた雪江を横様に膝の上に引っ張り上げ、肩を抱き寄せる。癒しでも求めるように頭に頬を擦り寄せるので、雪江は大人しくされるがままになっていた。
「外に出るのはまだ怖いか」
ぴくりと雪江の肩が揺れた。魘される頻度は減ってきたが、もう三週間、一切外出していなかった。食事の買い出しはワイアットが行い、約束した観劇にも行っていない。
「正直、俺としては何も困ることはない。事件は終わったから買い出しには行けなくなるが、配達を頼めば今後も一切外出する必要はない」
街中で襲撃に遭っても外出をしていた人間が完全に引き籠もってしまったのだ。ワイアットは事象は歓迎しつつも、心配もしていたのだ。雪江はいつも通りにしているつもりだったが、空元気だから見抜かれてもいるのだろう。
「うん……まだちょっと…、その、あんな風に…私の所為で護衛が死ぬかもしれないと思ったら、出ていいのか判らなくなっちゃって」
このまま引き籠もっていても鬱々とするばかりだが、人様の死を背負える程強くもないのだ。
「お前の所為じゃない。今回のは俺の所為だし、特殊な事例だ。そうそう同じことは起こらない」
「でも」
「あいつらは仕事をしているだけだ。それで死んでも誰も恨んだりはしない。そういう仕事だと理解して職務を遂行している」
「そういうことじゃないの!」
雪江は声を荒げてしまって、はっとして声量を落とす。
「私。……コスタスさんが死んじゃうと思って、助けに戻ろうと思った。私じゃ何の助けにもならないのに、戻ろうとしてしまったの。護衛だからそういうものだって、そんな簡単に割り切れない」
コスタス諸共雪江も死ぬという最悪の事態を招きかけた。コスタスの矜恃すら殺してしまうところだったのだ。死も怖いが、自分の弱さも怖かった。
「……テラテオス人は護衛との距離が近くなりがちだと聞いた」
雪江の様子を観察するようにじっと見ていたワイアットが、ぽつりと言った。毎日長い時間を共にする彼らは雪江にとってはもう半分身内のようなものでもある。ワイアットの言うことは間違ってはいない。だが、全てを言い表してもいない。
「……そうじゃなくても、やっぱり私の為に人が死ぬのは怖いよ」
護衛に護られることを当然として育ってきた人間とは違うのだ。それをどう説明したら解ってもらえるのか、雪江は悩んで沈黙する。その様子に、雪江の髪を梳きながらワイアットも考え込んだ。
「…コスタスが気に病んでたぞ」
「え?」
「自分が護りきれなかったから、信用できなくなって外に出られないんだろうと」
雪江は驚きで声が出なくて、先に首を振った。
「信用とか、そういう問題じゃ…」
「そういう問題でもある。このままだと、あいつは責任を感じて辞めるかもしれん」
「だ、駄目! 違うから! そんな理由なら引き止めて!」
雪江は慌ててワイアットの腕を掴む。単純に多勢に無勢だったのだ。コスタスが特別力不足というわけではない。だからワイアットだって、解雇していないのではないか。絶対そうだと雪江は思う。ワイアットはぽんぽんとその手を優しく叩いて、良い子だとでも言うように額に口付ける。
「チャニングの劇、観に行くんだろう」
「…うん」
雪江とて折角してくれた約束を忘れていたわけではない。最終公演までまだ日があるから、もう少し、もう少し、とずるずる先延ばしにしてしまっていた。口を引き結んで頷く。
「俺も一緒だ。他にも用があるなら一日中付き合う」
「……うん」
ワイアットの声が優しい。このまま雪江を仕舞い込んでしまう方が彼も安心できるのだろうに、水を向けてくれる。その心遣いが胸にしみて、雪江は感謝するようにワイアットの首筋に額を押し付けた。




