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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
第二章
78/114

31. 惑乱


「…尾けてたのか」


 コスタスは低く唸るような声を発しながら目線だけを巡らせ、ざっと人数を計る。姿を現しているのは七名。血の匂いはしないから、置き去りにされた現場には居合わせていない者達かもしれない。はっきりとした表情が見えるわけではないが、それぞれ抜き身を手にした男達が下卑た笑みを浮かべる気配は何となく判る。その殆どの視線が雪江に向いていることも。雪江はまた身体が強張るのを感じて、歯噛みした。動けなくなっては駄目だ。せめて自力で逃げることができなければ、コスタスに負担がかかる。雪江は震える息で深い呼吸を繰り返す。


「そんなことしなくても、ここらは俺達の庭だからな」


 小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、蓬髪の男が一歩を踏みだした。同時にコスタスが一歩下がり、はっとして雪江も下がる。深呼吸が功を奏したのか、足が動いた。


「奥様。万一逸れた場合、身を隠す場所を確保して、これを地面に叩きつけてください。光印(こういん)が上がります。見える所にエアロン達がいれば見つけてくれますから」


 コスタスが声量を落として後ろ手に球状の物を差し出した。光印とは何か、問うている場合ではない。雪江は彼にだけ届く小ささで返事をして受け取った。球体は雪江の小さな手の中にすっぽり収まる。


「兄ちゃんに用はねぇんだよ。その女を置いてってくれりゃあ見逃してやる」

「煩ぇな!」


 コスタスが叫んだ。日頃の穏やかな態度からは想像もつかない急変に雪江は飛び上がらんばかりに驚いたが、夜の森に響く人の声は異質だ。騒がしさも居場所を伝える手段の一つだと気付けば、雪江も悲鳴をあげるべきだと思った。女の声の方が通る筈。そうは思えども叫ぶ行為に馴染みがないので、今のタイミングでいいのか、何を叫べばいいのか、助けてでは人を呼べないから火事だが良いのだったか、いやそれは住宅街でないと無意味ではと余計なことを考えてしまって、無意味に口を開閉するだけになった。


「お前ら程度が数揃えたところで、所詮は雑魚だろうが!」


 コスタスはらしくない大音声で吼え、挑発しながら雪江を後ろ手に押した。「行け」ということだと受け取った。雪江が傍にいたらきっと、コスタスは自由に動けない。じりじりと数歩下がった後、踵を返して駆け出した。


「煩せぇのはテメェだろうが!」

「ちょんぎった奴が偉そうにしてんじゃねぇぞ! 出来損ないが!」


 蓬髪の男の脇に控えていた男達が激昂し、前に出る。コスタスは地面を蹴り一人の顔面に石礫を食らわせ、雪江を追おうとした一人にマントを放って初動の阻害をした。痛みのうえ砂塵が目に入ったのだろう男が慌てているうちに剣で仕留め、別の男が雪江に足を向ければその足にナイフを投げ放ち足止めをする。


「奥様!」


 只管前だけを見て逃げることに集中していた雪江の耳に、コスタスの警告の声が届いた。振り返れば男が一人、追ってきている。いくら護衛といえども、一人で全員の足止めは難しい。河原は大小の石が転がり雪江は思うように走れず、己の庭のように歩き慣れている男に直ぐに距離を詰められた。


「逃げんなよ、余計そそっちまうからよ」

「ひぁっ!」


 雪江は肩を掴まれた。守護魔術は発動しない。害するまでもなく捕らえられると思っているのがそれだけで知れる。雪江は振り払おうとした拍子に足を石にとられて転んだ。


「おっと、悪いなぁ、痛ぇだろ。また逃げるともっと痛ぇよ?」


 起き上がろうと地面に付いていた雪江の手の直ぐ横に剣が突き立った。反射的に手を引っ込める。地面に転がった時はどうするのだったか、雪江は訓練を必死で思い出して仰向けになった。


「あっち行ってください!」


 足を相手に向けて、只管蹴りを繰り出す。男は煩わしそうに覆いかぶさろうとしていた身を起こし、少し距離を取る。


「可愛いこと言うなよ」


 揶揄混じりの笑み声と共に蹴り足を掴まれた。雪江の抵抗を楽しむ余裕が男にはある。


「離して!」


 雪江は掴んだ小石を男の顔目掛けて投げつけた。つもりだった。その小石は当たった瞬間弾けて、辺り一帯を照らす光を放ち、そこから一直線に天に上り中空に留まった。コスタスに渡された球体を投げつけてしまったのだ。それを顔面に食らった男は弾ける光を衝撃として直接叩き込まれて伸びていた。雪江は荒い息を吐きながら、尚も騒がしい逃げてきた方向を見る。光印で照らされて、その光景はよく見えた。


「コスタスさん!」


 コスタスが倒れる所だった。考えている時は出なかった悲鳴が出る。


「や、やだ、嘘。どうしよう、やだ」


 護衛の安全を図りたいなら、指示に従い、逃げに徹することだ。だが。今の状況でそれは有効なのか。その護衛が倒れてしまったら、そんなのは無効なのじゃないか。護衛を助けに行くのはおかしい。そんな力もない。でも。でも、でも。雪江は教えられた常識と染み付いた倫理観との間でパニックに陥りかけながら、震える手で地面に刺さったままの剣の柄を握ろうとした。コスタスが剣を横一閃して牽制しながら転がり起きるのが見えた。胸当てから覗くシャツが血で染まっている。誰の血かまでは判らないが、動きが鈍っている様子はない。なら、逃げるべきだと思い直して雪江は立ち上がった。あんな中に戻っても何もできない。コスタスを囲む輪から一人が抜け出して雪江の方へと足を踏み出した。コスタスがそれを阻もうとしてできた隙に、別の男に斬りかかられている。阻みきれなかった男が雪江を追って来た。せめてその男を引き連れて逃げるべきだ。雪江は転がるように走り出す。転んだ際の打撲やすり傷の痛みは興奮で感じない。速く、速く、なるべく遠くへ。石に足をとられ、縺れさせながら走る。追っ手の息遣いが直ぐ後ろに迫っていた。


「つーかまえぁああああああああ!」


 愉悦を含んだ声が野太い悲鳴に変わり、とさりと何か質量のあるものが落ちた。次いで短く呻く男の声と、更に大きな物が地に伏せる音。雪江が振り返るとそこには、流れ落ちる汗を顎から滴らせ、肩で息をしているワイアットがいた。地面には絶命している男と、その男から切り離された腕。ワイアットは剣の血を払い、左手を雪江に伸ばす。


「無事か」

「…ワ、………ワ、…っ」


 雪江はその手に掴まり、安堵なのか恐怖なのかわからないぐちゃぐちゃの感情が涙となって両目から溢れ出した。


「死んじゃう! コスタスさんが死んじゃう!」


 ワイアットは崩れ落ちそうになる雪江を抱きとめて抱え上げる。


「大丈夫だ。諜報部から人員を借りてきた」


 見ればコスタスに加勢する男が二人いる。数的劣勢が緩和すれば後は早かった。殆どを斬り伏せ、リーダー格と思しき蓬髪の男を捕縛している。仕事を終えてもコスタスは自力で立っていた。雪江は滲む視界でそれを確認して、ワイアットの首にしがみ付いて泣いた。

 光印のおかげでエアロンとナレシュも程なくして合流できた。護衛達には切創はあるものの、各自の応急処置で足りる軽傷だった。雪江は安心して尚涙が溢れてしまって、ワイアットの腕の中から出ることができなかった。






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