29. 忘れた頃が狙い目
雪江監修でありマロリーが出演するとあって、後援会の面々はこぞって劇団メテオルドゥスの公演を観に行ってくれた。彼女達によると、満席とはいかないまでも客足は上々のようだ。感想も絶賛とはいかず様々だが、好みがあるのだからそんなものだろう。女性の描かれ方を酷評する者はいなかったから、雪江の仕事としては上出来だと思う。マダム・プルウィットによると、雪江達の仕事中に来店した女性客も興味を持っていて、それを切っ掛けに観に行った者もいたようだ。ほらね、とチャニングに対して胸を張りたい気分だ。マダムもそれとなく話題にしてくれていたから、良い宣伝になっていた。
マダムとネヘミヤが待合席でささやかな茶会を開いて、公演祝いをしてくれる。そういうことならチャニングとマロリーもと誘おうとしたら、ネヘミヤに「駄目だっつの」と素敵笑顔で圧をかけられた。怖かった。
茶会自体は和やかだ。マダムご自慢の手作りプディングと、ネヘミヤが有名店に注文したというフルーツたっぷりのデコレーションケーキに舌鼓を打つ。
「そうだ。花嫁衣装のお直し、此方でお願いしてもいいですか?」
雪江はマダムにはお世話になっているので、衣装関係はなるべくトコ・プルウィットに持ち込みたい。ただ、礼服を取り扱っているようには見えないので、窺うような問い方になる。
「まぁ、うちに?」
「えっ、式挙げてなかったの?」
それぞれ別の理由で二人とも目を丸くした。
「うん。ワットのご両親が遠方だから手紙のやりとりで時間かかっちゃって。お義母さんが自分の衣装を送ってくれたから、それを着たいの。マダム、お願いできるでしょうか」
「いや待って突っ込みどころ満載なんだけど」
マダムが答えるより先にネヘミヤが額を押さえ、片手を上げて制止した。彼はマダムの前でもすっかり砕けた調子になっている。
「遠方にしても遅くない? どっか遠い国にいるの? 旦那何やってたの? ずっと腕輪も接合してない状態だったの? 今もだよね? 怖いんだけど!?」
メールでも電話でもなく手紙のやりとりなのだ。必要な日数なので雪江は首を傾げたが、はたと思い出した。ネヘミヤは出会った時既に雪江達は夫婦だったと思っている。そこから数えれば随分と経っていた。
「あ、えっと、婚姻届出したの、誘拐事件の後なの」
「……マジで?」
「うん…ごめんね」
雪江は積極的に偽ったわけではなかったが、今となっては罪悪感がある。決まり悪げに眉を下げると、ネヘミヤは緩く息をついた。
「いやいいんだけどさ。対策としては適切だし。でもそっかぁ、思い返せばユキエちゃんちょいちょい様子おかしかったしなぁ。うっわなんで気付かなかったんだろ。思い込み怖いわー自信なくす…」
ネヘミヤは騙されていたことより、見抜けなかったことがショックのようだ。
「それで腕輪の接合って?」
「ああ、今それ、普通に外せるでしょ? 挙式の時に魔術で繋ぎ目無くすんだよ。そうすると道具を使っても壊せなくなるから、誰かに無理やり外されることを防げるんだ」
「へぇ」
雪江は今はもう重さも馴染んだ左腕を持ち上げ、腕輪を見た。誘拐時に触れられなかった謎が解けた。外せないと思い込んでいたのだ。漸く抑止力の片鱗が見えた。攫われても役所で腕輪を外してもらって中の名前を見せれば本来の夫が誰か証明できるという。
「花嫁衣装かぁ。これからなら私も一緒に選びたかったなぁ。刺繍の色とかさ」
不服そうなネヘミヤに、ふふふ、と上品にマダムが笑う。
「それは旦那様のお仕事でしょう」
「あの旦那にそういうセンスあると思う? 絶対無いと思う」
問うたのに答えさせないネヘミヤに、またマダムが笑った。
「花嫁衣装なんて何年ぶりに触るかしら。お直し承りますよ」
「やった、明日持ってきますね」
マダムも嬉しそうで、雪江の声も弾む。
雪江は翌日早速トコ・プルウィットに衣装を持ち込んで、採寸をしピンを打ってもらう。着丈も肩幅も大幅に詰めなければならないようだが、美しく仕上げると張り切るマダムが頼もしかった。
帰りは辻馬車を拾った。四人乗りの二頭立て四輪箱型馬車。雪江と並んで扉側にエアロン、向かい合う席には他の二人が座り、扉側はナレシュという配置だ。
「皆さんは護衛対象の式に立ち会ったことってあるんですか?」
あると答えたのはエアロンだけだった。
「何か心配事でも?」
「ううーん。お義母さん達をお家に招いた方がいいのかなって。丁度部屋だって空いてるし、遠方から来るわけだから、宿ばかりで疲れないかなと思って」
「旦那様は何と?」
「気にするなって」
ワイアットは単純に、父親を雪江と一つ屋根の下に泊まらせることを忌避しているだけの可能性が否めない。マダムやエルネスタは地元なので参考にはならないし、元テラテオス人達も夫が地元の人間ばかりで、話題にならなかったから知らないとのことだった。
ワイアットは嫁というだけで無条件で大歓迎だから気にすることもないと言うのだが、彼と両親は別の人間だ。雪江としては少しでも好印象を持ってもらいたい。式の間だけ顔を合わせて解散というのがどうにも薄情に思えた。遠方なのだから気軽に行き来できず、これきりになる可能性も高い。然し家に呼ぶのが常識か非常識かが判らないのだ。そういったことを話すと、三者三様に首を捻った。
「すみません、雇用主、護衛対象双方地元の方でしたので奥様のケースは判りかねます」
「一緒に暮らすのは旦那様だけですし、旦那様がいいならいいのでは?」
「そうですね。万一気に入られなくてもこれきりなら特に問題はないと思います」
エアロン、ナレシュ、コスタスの順に答えてくれたが、皆あっさりしたものだ。皆常識がわからないということは判った。もしかして彼らには初めから関係のないことだから触れてこなかった情報なのではと思い至って、雪江は口を噤んだ。三人とも特に気にはしていないのだが、雪江は深読みをして、何でも気軽に訊いてはいけないと己の無神経さを反省していた。
雪江が黙ると車内は静かになる。基本的に護衛達は仕事中に無駄口を叩かないのだ。今も小さな窓の外に目線を投げて警戒を怠らない。すれ違う馬車の数が減り、郊外に近付いた所で突然車内が暗くなった。今はまだ午後の早い時間で、日は高い。上から滑り落ちた板で窓を塞がれ、光が遮られたのだ。護衛達が止まったのは一瞬で、直ぐに動き出す。板の表面に手を当て上に持ち上げようとしても、窓枠にぴたりと嵌っていて僅かの動きもない。扉を開けようとしたが、中から鍵をかけていないのに開かない。掌サイズの魔道具の灯りを灯して、扉の隙間や窓の隙間にナイフを差し込もうとしても、切先すら入らなかった。
「…馬車、壊れました…?」
「いえ、閉じ込められました、ね!」
三人の雰囲気から、そうではないことを感じながらも雪江が恐る恐る問うと、エアロンが扉を蹴りながら答えた。軋む音はしたが、壊れる気配もない。コスタスが他の窓と同様にぴたりと閉じている御者台との連絡用の窓を強く叩く。
「おい、止まれ!」
御者台からの反応はない。それを確認すると、コスタスはあっさりと手を引いて息を吐く。
「俺達ごと…新しい手口だな」
「感、っ心、してる、場合かよ! これ、魔術、使われて、ねぇかっ?」
ナレシュもエアロンと共に扉を蹴っていたが、びくともしないのだ。隙間は確かにあるのに、ナイフが引っ掛かりもしないのもおかしい。
「魔術師を雇えるなら富裕層が関わってる可能性が濃厚だな」
蹴るのをやめて、エアロンが呟いた。コスタスがナイフの柄尻で窓板を叩いた。鈍く乾いた音が響くだけだ。
「うん、駄目だな。何にしろ、止まって直ぐが勝負なのは決まったね。まず俺達を無力化しにくる筈だ」
「そっか、じゃあ殺す気で来るな」
ナレシュがごくりと唾を飲んで発した言葉に、雪江がひゅ、と息を呑んだ。コスタスが笑顔でナレシュの襟の後ろを握って捻る。笑わない目と、喉への物理的な圧迫でナレシュを黙らせたがもう遅い。
「大丈夫です。ちゃんと護ってみせますから」
エアロンがなんてことないように微笑んでみせる。雪江が恐れるのは彼らが死ぬこともだ。雪江は首を振りかけて思い留まる。これは彼らの仕事だ。護衛対象として適切な振る舞いをせねば、彼らが危なくなる。決して彼らの邪魔だけはしないように心がけねばならない。雪江の手が緊張で汗ばんだ。
「あ、りがとうございます。わ、私はどうしたらいいですか」
「いつも通りに。俺達の指示に従ってください。それから訓練を思い出して。逃げることだけを考えてください」
「はい」
「釦は持っていますね? 大丈夫、旦那様が直ぐに駆けつけてくれます」
測位釦はチェーンに繋ぎ服の下にある。雪江は布の上から触れその存在を確認して、エアロンの落ち着いた声に頷いた。ついでに服の上のチョーカーも確かめる。新しく揃えたブルーサファイア。石の部分だけ取り替えたものだ。
「節約の為に灯りを消そうと思いますが、大丈夫ですか?」
コスタスの気遣う言葉にも頷く。長距離移動を想定しているのだ。ずっと気を張っていては持たないから楽にしていてくださいと言われたが、雪江には難しかった。灯りが消えて心許ないが、暫くすると目も慣れるし三人とも一緒だからと気を落ち着かせる努力をする。護衛達は体感で距離を測り道をどちらに何度曲がったか記憶するべく静かになった。
「…街を出たな」
体に伝わる振動と車輪が接地する音が変わり、ナレシュが呟く。そのうち揺れが激しくなり、悪路に入ったことが雪江にも判った。




