28. 安定の愚直ぶり
「無理だ。俺には妻がいる」
フェレールが妻にしてくれと言うので、反射の速度で断った。ワイアットとしては随分耐えて漸く言えたという万感の思いだ。セオドアには普通に接していいと言われていたが、これだけは彼女に要求されるまで言うなと指示されていた。おかげで彼女の相談に乗るという名目で何度も会う羽目になっていて、こうして軽食屋の個室をとるのが常態化してしまっている。代金は経費として軍に請求しているが、彼女の与り知らぬことだし、昼休憩を抜け出してのことだから、いくらワイアットでも誤解を招く行為だと判る。
「君にこの手の嘘はつけないよね? 甘い言葉も吐けないだろうから行動で示すくらいで丁度良いんだよ」
そうセオドアに言われた時には目眩がしたものだ。要するに求婚されたら断ってもいいが、それまでは気を持たせろということだ。上官だから殴り倒したいのは我慢した。
「知っています。劇場の前で見ました。可愛らしい方ですね」
フェレールは微笑もうとしたが失敗して、眉を寄せ俯いた。
「でも、貴方がいいんです」
顔を上げた時には瞳が潤んでいた。一心に見詰める様は健気だが、夫候補はそれこそ掃いて捨てるほどいるのに、妻のいる男に言い寄るとはどういうことなのか。ワイアットにはこの現象が理解できなかった。逆なら理屈は解るのだ。伴侶を得ようと思ったら、殆どの男は略奪婚するしかない。
「男は大勢いる。妻帯者を選ぶこともないだろう」
「私もそう思って随分悩みました。でも他の人では嫌なんです。惹かれてしまったから、もうどうしようもないんです」
ワイアットは溜息をついた。はっきり断っているのに食い下がってくる。それだけで間諜と認定していいのではないかと思うのだが、セオドアには却下されるだろう。「女心が解らない君が判断していいことではないよ」という幻聴が聞こえてきそうだ。
「何度も言うが俺には妻がいる。軍人が良いと言うなら独り身の奴を紹介しよう」
純粋な好意だとしてもワイアットは応えられない。どちらにしてもカーステンに引き継ぐのが四方丸く収まる方法なのだ。命令とはいえ、不貞を働いているようで胃が痛くなるこの役目を早く降りたい。人には向き不向きというものがある。
「そんな…」
唇が戦慄いて、フェレールの目から一筋、涙が零れ落ちた。
「そんなに私、駄目ですか」
ワイアットは眉を顰めた。気を持たせていた負い目もあって、泣かれてしまっては胸も痛む。これ以上何を言えばいいのか解らない。口で言って駄目なら、矢張り目に見える手続きとして委任状が必要だったのか。保留にするという選択肢はワイアットには無い。考えを纏める為に一度目を閉じ一旦目の前の光景を遮断する。鳩尾の辺りに手をやって、胃の腑が重苦しくなるのをやり過ごそうとした。丈夫な軍服の生地の下には雪江から贈られた指輪がある。それに触れるのが癖のようになっていた。
フェレールはふらりと立ち上がりテーブルを回り込んで、ワイアットの隣で膝をつく。
「そんなに魅力がありませんか」
肘掛けの上に残っている手が取られて、ワイアットはぎょっとして目を開けた。フェレールは思い詰めた様子でその手を自分の胸に誘導する。
「まだ貴方に見せていないものがあります。どうか確かめてから」
ワイアットは触れる寸前で手を振り払った。
「護衛!」
フェレールが相談事を聞かれたくないと人払いをするので、個室にはいつも二人きりだった。ワイアットが大声で呼ぶと、扉のすぐ向こう側に控えている護衛達が入室してくる。
「夫人はお帰りだ」
まるでワイアットが雇用主のような台詞になっているが、咄嗟に思いつく限りで一番穏便に解散する方法だった。
それからフェレールからの接触がぴたりと止んだ。ワイアットはほっとしたが、フェレールの護衛として潜り込ませている諜報員から報告が上がっているらしく、「デリカシー身に付けないと奥さんに愛想尽かされるよ」とセオドアに哀れまれた。何を指してのことかは判らないが、そんな男をそのまま採用したセオドアも同罪だと思っている。
雪江の方は何事もなく、表面上は平穏な日々だ。あまりにも疲れてしまって、外出の度に気を張るのは止めている。ワイアットは肩の荷が下りたような気配はあるが、まだ詳しくは話してもらえないので完全に終わったとは言えないようだ。危険なのか、そうでないのか。はっきりしない状態で落ち着かない。
気分の晴れない日の多くなっていたところに朗報が入った。雪江は少しでも早くワイアットに聞いてもらいたくて、玄関前でうろうろしていた。雪江が出ているので護衛も全員外にいる。蹄の音が近付いてきた。雪江が門へと駆け出そうとすると、エアロンの腕で遮られ窘められる。
「旦那様と決まったわけではありませんから」
「あの蹄の音はワットですよ」
丁度帰宅時間でもある。雪江はある程度の確信を持って断言するが、エアロンはある程度では頷かない。
「乗っているのが旦那様とは限りません」
雪江はぐうの音も出ない。だがワイアットの馬にワイアットが乗っていない状況とは、馬を奪われるということではないだろうか。彼がそこらのならず者に負けるだろうか。雪江は小隊を率いているところは見たことがあるが、実戦は見ていないことに気付いた。護衛達が稽古を願う程強いということは知っているが、それがどれ程のものかが判らないのだ。数で押されればあり得ると言えばあり得るのだろうかと、雪江は不安になった。
「奥様は馬の足音聞き分けられるんですね」
ナレシュに感心されて思考の海から戻り、雪江はそっと目を逸らした。そこは突っ込まないで欲しいところだ。エアロンの方は見ない。ちょっと浮かれすぎたと反省した。
果たして、蹄の音は門前で止まる。門を開いて入ってきたのはワイアットだ。彼は目敏く雪江を見つけて軽く眉を上げた。
「何をしている」
外灯や家から漏れ出る灯りがあるとはいえ、もう暗い。敷地内でも今の時期は外に出て欲しくないのだと、雪江はその咎める声で理解した。
「ごめんなさい。早くワットに伝えたいことがあって」
「なんだ」
雪江が萎れると、ワイアットは手綱をコスタスに預けて大股で歩み寄った。直ぐに雪江を抱き上げて玄関の扉を開ける。その目を見たところ、心配しただけで怒っているわけではないようだ。
「劇団メテオルドゥスのケスクス劇場公演が決まったの」
「メテオルドゥス?」
「チャニングさんの劇団」
「お前の手掛けた脚本か」
「うん」
「初仕事が認められたんだな。良かったな」
「…うん!」
ワイアットが監修の件をあまり良く思っていないのは知っているが、雪江はできれば一緒に喜んでもらいたかった。だからあっさりとその言葉が貰えて雪江は一瞬言葉に詰まり、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「それでね、観に行こうと思ってるんだけど」
雪江はワイアットと共に行きたいが、居眠りする程退屈なことに誘ったものか躊躇する。
「…次の非番の日はまだ演ってるか」
「一緒に行ってくれるの!?」
まさかワイアット自ら申し出てくれるとは思わなくて、雪江は仰け反った。バランスを崩した雪江の背をワイアットの右手が支えて、左腕の上に収まりなおす。
「ああ」
「恋愛劇だよ? つまらなくない?」
「……起きていられるようにする」
つまらないが行くと言っているのだ。気遣いでも嘘を言わない徹底ぶりに、雪江は笑ってしまった。これはきっと、ワイアットなりの歩み寄りだ。
「ありがとう。大好き」
少し渋い顔になっているワイアットの首に抱きつくと、居間に向かっていた足が止まった。何も言わずに階段へ向けて方向転換されて、雪江は慌てる。
「ワット!? ご飯! ご飯冷めちゃうから!」
うっかりワイアットの寝室スイッチを押してしまった。好きだと言葉にしたのは、夫婦になってからは初めてだったのだ。




