23. ちらつく影
雪江にとってネヘミヤは、この世界に来て初めての友達だった。ルクレティアも親しくしてくれてはいるが、友達というよりは姉のように母のように優しく見守ってくれていて、先輩に近い感覚だ。雪江が檳榔館の仕事を辞めて観劇友達になったと弾む声で報告したら、ワイアットは食べていたパンを喉に詰まらせた。雪江は慌てて席を立ち水のおかわりを用意する。
「だ、大丈夫?」
一息に呷って落ち着いたワイアットが、空のコップを見詰めている。楽しい夕食の話題としてなんの支障もない筈だが、ワイアットの様子がおかしくて雪江は戸惑う。雪江が娼館に出入りせずに済むのはワイアットにとっても安心できることだし、彼も信用している人物だから問題はないと思っていた。
「友達か」
「う、うん。何かまずい?」
ワイアットははコップに向かって言っているのかと思う程コップを見詰めている。
「いや。初めての友達だな」
たっぷりと考える間を置いて雪江を見たワイアットが、笑もうとしたのは解った。形にはなっていなかったが。何やら複雑そうではあるものの、喜ぼうとしてくれているのは雪江に伝わった。その努力を無にしないように、雪江もぎこちないながらも笑んで頷く。突っ込んで心情を聞き出した方がいいことなのか暫く迷っていたが、数日経って一緒に観劇する報告をしても特におかしなところはなかったので、大丈夫なのだろうと判断した。
ワイアットが夜番の時は観劇後、必ず迎えに来ている。ケスクス劇場の隣にある花屋の前が待ち合わせ場所だ。その日もネヘミヤと観終わった劇の感想を言い合いながら到着したが、いつもは先に待っている筈の姿が見えない。珍しいことだった。
「旦那寝坊か。なってないな。よしじゃあもう帰っちゃおう。辻馬車拾うよ」
ネヘミヤの見切りの早さに雪江は吃驚する。
「入れ違いになるかもしれないし、ちょっと待つ」
「なに言ってんの。ユキエちゃんが無事帰ることが目的の迎えでしょ。自分から言い出したこと守れない奴なんてちょっとくらい慌てさせてやればいいんだよ」
「一分も待ってないよ…?」
「その一分が命取り。肝に銘じてもらわなきゃ」
「ええ厳しい…」
「何この呑気者は」
ネヘミヤに呆れた目で見下ろされた。これは反論したら説教される空気だ。護衛達も同じ意見かと視線を巡らせかけて、雪江は固まった。ワイアットは居た。女性と共に。その女性には見覚えがあった。胡桃色の髪の背の高い女性。後から護衛達が来て、頭を下げるのも以前見かけた時と同じだ。
ワイアットは女性と別れると、直ぐに雪江を見つけて人混みをすり抜けてやってくる。
「すまん。遅くなった」
遅れたといっても、一、二分に過ぎない。雪江が首を振ると、ネヘミヤが睨み上げた。
「何あの女」
「護衛と逸れて絡まれていたから助けただけだ」
ネヘミヤが胡乱げに問い、ワイアットが不機嫌に見下ろした。彼らは最近は手紙のやりとりがあるようだし、雪江は互いにそれなりに認め合っているのかと思っていたが、それにしては空気が悪い。
「お優しい旦那様で何よりですわ。でも妻を待たせるほどのことかしら」
ワイアットとネヘミヤが夫婦のような会話になっている。まごつく雪江の代わりに問い質してくれたのだろうが、雪江のことで彼らが仲違いをすることもない。雪江は申し訳なくなって、ネヘミヤの服の裾を引いた。
「人助けは待たせるほどのことだと思うの」
「出たよテラテオス脳」
雪江は自分は気にしていないと伝えたつもりが、ネヘミヤは少しばかり苛立ったように溜息をついた。
「あのねユキエちゃん。別の女助けてる間に」
「具合が悪いのか」
「え」
ネヘミヤの説教はワイアットの声に遮られた。顎に添えた手で上向けられ、雪江は動揺で瞳が揺れた。それを確認するや否や、ワイアットは雪江を左腕に抱き上げる。
「顔色が悪い」
「てめぇの所為だろが」
小さい声だったが、ネヘミヤの口から低く乱暴な言葉が出てきて雪江は驚いた。雪江が見下ろした時には、ネヘミヤは隙のない笑顔で小首を傾げている。
「次、遅れたら容赦無くお持ち帰りしますわね」
「……次はない」
ワイアットは不本意の滲む唸り声と共に踵を返す。雪江は慌ててネヘミヤに手を振った。ネヘミヤが手を振り返す姿が人波の向こうに消えると、雪江はワイアットの首に手を回して額を頭に寄せる。人目のある場所ではしたことのない行動に、ワイアットも思うところがあるのだろう、右手が雪江の背を撫でた。
「悪かった」
「……頑張ります」
せめて文句が言えるように。文句を言いたいというのもおかしな話だが、本来なら問い質すのは雪江であるべきなのだ。誰に気兼ねする必要もない立場なのに、やきもちも示せないこの状況では、ワイアットも良い気はしていないのではないかと思う。噛み合わない返事だったが、解っているとでも言うように、ぽんぽんと背中が優しく叩かれた。
その女はモニク・フェレールと名乗った。
一度目は軍服を着ていたから一か八かで助けを求められたのだろうと、ワイアットは気にもしなかった。二度目は知った顔だから助けを求めたのだろう。三度目にして偶然にしてもおかしいと思い始めるも、護衛の無能ぶりの方が気になった。自分が通りかかっただけでも三度だ。ワイアットが見ていないところでもやらかしていないとおかしい頻度である。よく今まで無事でいたものだ。護衛を替えた方が良い。護衛が来るまでの間にワイアットがそう告げると、フェレールは表情を曇らせた。夫が何度も護衛を首にしていて、もう目ぼしい護衛がいないのだと。ワイアットはそんなことがあるものなのかと思えども、護衛も無限ではないのだから、あり得ない話ではない。
いくらもしないうちに詰所に礼状とミートパイが届いた。ワイアットの執務机に運んで来た隊員が話を聞きたそうにしているが、気付かないふりを決め込む。女からとなると本部中に知れ渡っているだろう。小隊長室から出るのが億劫だ。ただ、一日中籠ることにしてもカーステンが居る。タデウスも居るがそちらは気にしなくていい。彼には男の恋人がいて、女に興味がないからだ。
「夫からじゃないところがあれだな」
あれでは解らない。ワイアットは礼状から顔をあげて、目線でカーステンに発言の意味を問う。
「気があるってやつだろ。畜生なんでこんな強面がモテんだよ。ポンコツなのに」
「どうだろうな。護衛を紹介して欲しいとは書いてある。お前心当たりないか」
あるなら丸投げする心積もりでワイアットはカーステンを見据えた。これ以上接点を持っても雪江を不安にさせるだけだ。
「あるわけないだろ、ってそれ遠回しの求婚じゃねぇか」
「どうしてそうなる」
「お前が雇った護衛に護られたいってことだろ」
カーステンの飛躍した解釈に、ワイアットは胡乱げに目を細めた。何か変な演劇でも観たのだろうか。新しい護衛が必要な経緯を掻い摘んで話すと、タデウスも書類に目を落としたままぽつりと感想をこぼした。
「求婚だな」
「だろ?」
「どうしてそうなる」
カーステンは面白くもなさそうに頷き、ワイアットは同じ言葉を繰り返した。呆れを感じ取ってタデウスは顔をあげる。
「次々護衛を替えられて危険な目に遭ってるんだ、次の夫を探したくもなるだろう。そこへ持って来てお前だ。助けただけでその女性に手を出さなかったんだろう? 紳士的な対応をする肉体的にも強い頼りになる男は理想的に見えると思うぞ。だからお前がいるのを見計らって、助けを求める体で接触を図っているんじゃないのか」
「俺には妻がいるんだが」
「その女性には話したのか?」
ワイアットは記憶を手繰る為に沈黙した。そういった話の流れになった覚えがない。
「お前の好きなハンナ候補だ。以後の対応はお前に頼む」
ワイアットはミートパイが入ったバスケットをカーステンの机に置いた。ワイアットには荷が重い。独身が取り扱う案件だと判断した。
「お前酷ぇな。女心なんだと思ってんだ。貰うけど」
「もしお前達の言うことが正しくても俺は受けられない。状況が良くないなら尚更、早期解決を見込めるお前の方が適任だ」
「やり方のこと言ってんだよ。せめて返事くらいは書いてやれよ。ついでに俺を紹介してから譲ってくれ。警戒されんだろ。あと任務みたいな言い方やめろ」
「委任状を出せばいいんだな」
「事務処理みたいにすんのやめろ。まじやめろ。人でなしか」
「女への手紙の書き方など知らん」
「くっそポンコツ! 奥さんに添削してもらえ! そして嫌われろ!」
ポンコツが感想から怨嗟にランクアップしている。ワイアットは眉を顰めた。
「お前俺に何の恨みがある」
「羨ましいだけに決まってんだろ」
堂々としすぎていて何も言えない。ワイアットは羨まれるのは既婚者の仕事のようなものだと諦めた。
「ただの求婚でない場合のことも考えて念のため、中隊長に報告しといた方がいいんじゃないか」
タデウスが冷静に脱線を復旧した。
「…矢張りそっちの線か」
間諜を疑う方が自然だし気が楽だ。ワイアットは真面目くさった顔で頷く。セオドアの耳にも届いてはいるだろうが、正確なところを伝えた方が良い。だが書類を届けに行くついでに報告すると、より面倒なことになった。
「怪しいけど、それだけだね。会う約束取り付けてちょっと泳がせよう」
「自分は適任ではありません」
ワイアットが軍で学んだのは戦場での振る舞いだけだ。ただの騎兵にそんな器用な芸当を期待されても困る。あからさまな渋面に、セオドアは笑った。
「だから目を付けられるんだよ」
「まだ決まったわけではありませんが」
「そうだね。僕の知ってる護衛紹介するから、それで様子見てみて」
ワイアットのなけなしの抗議は軽い調子で無視される。カーステンに委任し終えてなかったことを、心の底から後悔した。




