16. 母は画策する
雪江はチャニングのチンピラ面に隠された繊細さをなんとなく察し、仕事は手探りで進み始めている。噛んだら痛い子兎計画も順調だ。毎朝走って逃げきるための体力をつけ、隙あらば馬を奪ってでも逃げられるようにと乗馬を習う。いつの間にか脱兎化計画になっているが、目的は戦って勝つことではないので問題はない。
乗馬は貸し馬屋が運営している乗馬教室で教えてもらえる。通常は子供が対象なので断られるかと思ったが、驚かれはしたもののすんなりと受け入れてもらえた。コスタス曰く「下心です。利用しちゃいましょう」。指導にあたっている顔ぶれを見て雪江は察した。二十代から三十代の男性だからだ。初回の手続きは雪江だけで終わらせ、二回目に馬場に訪れる際にワイアット同伴で牽制してもらい、指導は護衛がするという対策をとったから今のところなんの問題も起きていない。要は場所と馬を借りに来ているのだ。馬から降りて帰り際が雪江に話しかける数少ない機会となるが、寄ってくる者がいてもするりと間に入ってくる小柄な影がある。
「ユキエ! お待たせ!」
赤毛を揺らし無邪気に雪江の手を握って隣を確保するのは、ティーグ家の長男、マーヴィス八歳である。元々マーヴィスが通っている教室で、どうやら両親から護衛役を拝命したようなのである。自分より頭一つ分背の高い大人でも、女性を護るという役目が幼いながらも男心をくすぐるらしく、嬉々として任務を遂行してくれていた。
「いつもありがとう。お仕事には対価を払わなきゃね。今日は焼き菓子屋さんに寄って帰ろうか」
雪江は可愛らしいナイトにご褒美をあげたい。金銭ではないし、偶になら良いだろうと繋いだ手を揺らしながら馬場から通りへと出る道を歩いていると、マーヴィスは首を振った。
「いらない。仕事じゃないし。妻をまもるのは夫のつとめでしょう?」
今日は夫役のつもりらしい。微笑ましさで雪江の口元が緩む。
「そうだね、じゃあ次の時にね」
「次もいらない」
「そう?」
「うん、だってぼくはユキエの次の夫だからね」
マーヴィスは誇らしげに胸を張った。
「………………次って?」
「次は次だよ。スカイラーさんの次はぼくなんだよ。あと八年したら結婚できる年になるでしょ?そのくらいになったらぼくもきっとスカイラーさんくらい大きくなってるし、そしたらスカイラーさんにユキエをくださいっておねがいしに行くんだ。待っててね!」
笑顔で怖いことを言い出した。命は大事にして欲しいと雪江は思う。子供の言うことだからと適当に話を合わせるべきか、否か。ごっこ遊びにしては具体的で、だからといって雪江を見上げる目に浮ついたところはない。恋情に類するものは見当たらないのでよしとするべきか。
「その頃私は三十二歳のおばさんだもの、マーヴィス君のお嫁さんにはちょっと歳をとりすぎかなぁ」
雪江は迷いつつも、違えようのない事実をやんわりと告げておく。今だって八歳児にとっては十分おばさんだろうと思う。雪江としては犯罪臭しかない。
「大丈夫だよ。今の母さんより若いし。四十才くらいまでなら大丈夫って父さんが言ってた。だからぼく間に合うんだよ!」
何が大丈夫なのか解らない。雪江は丁度ルクレティアに相談があって、マーヴィスを送り届けた後に時間をとってもらう予定でいる。ユマラテアドの結婚観がどうなっているのか、改めて聞かねばなるまい。マーヴィスに向ける雪江の微笑みが、アルカイックスマイルになってしまっていた。
「あらあの子言っちゃったの」
お宅のお子さんがこんなことを言い出して将来が不安なのですが、と案じたつもりが、ルクレティアはマーヴィスの言動を前もって知っていたようで、驚きもしなかった。
「機を見るってことを覚えなきゃ駄目ねぇ。教え方がまずかったかしら」
それどころか糸でも引いてそうなことを言い出して、雪江の口端が引きつる。
「何を教えたんですか?」
「女の子を見つけたらすかさず仲良くなって、妻にする隙を狙うのよって。ユキエもかって聞くから、そうね、って答えたのよ」
「………私女の子って歳じゃないんですが」
雪江はがっくりと項垂れた。既婚が抑止にならないのはもう今更だ。
「あら大丈夫よ、ユキエは若く見えるからマーヴィスが成人する頃でも全然いけそうな気がするわ」
「あ、それ! それです! 四十くらいまで大丈夫ってセオドアさんが言ってたようなんですけど、こっちの人の結婚観ってどうなってるんですか? 年若い息子の歳の差婚に抵抗感はないんでしょうか」
訊きたかったことを思い出して雪江は顔を上げた。同じテラテオス人同士、言いたい事は解る筈だ。もし男性側が良くても、雪江が倫理的に受け付けない。マーヴィスが成人したところで、未成年と結婚する認識にしかならないのだ。
「あのね、ユキエ」
「はい」
ルクレティアが急に真剣な表情になったので、雪江も手にしていたティーカップを置いて聞き入る態勢になった。
「私は私を愛してくれる夫に恵まれて、四人の子供に恵まれてとても幸せなのよ。この幸せを子供達にも味わって欲しいし、いずれは孫だって抱きたい」
じっと目を見詰めて言い募ることは、人として求めておかしくない幸せの話。雪江は頷いた。
「でもね。それには、それには………この世界には女が少なすぎるのよ!」
ばん! とテーブルが平手打ちされて、雪江の肩が跳ねた。
「ユキエが女の子を産んだら猛烈にアタックして、もしかしたら貰い受けることができるかもしれないわよ? でもね、全員女の子とは限らないでしょう」
雪江に女児出産のプレッシャーがかかった。遠回しに息子の数だけ嫁を産んでくれと言われている。
「意に沿わない結婚ではないから、離婚を積極的に望んでるわけじゃないのよ? でも、もしも八年後、万一チャンスがあるなら、私は喜んで貴女を嫁として迎えるわ!」
前のめり気味の力強い宣言だった。雪江は理解した。ユマラテアド男性がマザコンなのか、熟女好きなのかということ以前に、全ては嫁不足から生じている価値観だと。テラテオス出身のルクレティアでさえこうなのだ、あとは推して知るべし。
「子供を産むのが怖くなりますね」
雪江の口からぽつりと呟きがこぼれた。男児が産まれたら、家庭を持てないかもしれない。女児が産まれたら、争奪戦で危険な目に遭うかもしれない。ルクレティアが慌てた。
「ああごめんなさい、そんなつもりじゃなかったのよ。大丈夫、男の子ばかりだったとしても、こっちじゃ同性愛なんてざらにあるし、パートナーが見つからないとは限らないわ!」
「すっかりユマラテアド人ですね」
慰め方がユマラテアド風で、雪江が思わず小さく笑うと、ルクレティアは眉尻を下げるような笑みをした。
「ユキエの言いたいことも解るのよ。テディにはやりすぎないようにちょっと釘を刺しておくわ」
「…セオドアさんがまた何か?」
「いえね、あの人、マーヴィスに他にも何か吹き込んでいるかもしれないから。部下とはいえ人様の結婚に口出しなんてしそうにない人なのに、スカイラーさんの件が不思議だったのよね。八年後までユキエを一時預ける庇護者として丁度良かったのかもしれないわ」
「怖いですね!?」
「でしょ? やり手なのよ」
誇らしげに微笑むルクレティアに、雪江は瞑目した。褒めてはいない筈だ。
「ところで、相談ってそのことじゃないわよね?」
「あ、そうでした」
真偽不明のセオドア策略説に慄いている場合ではない。雪江はマロリーの話をした。
「一人二人じゃ、足りないと思うんですよね。もっと多くの人を観察しないと演技の引き出し増えないんじゃないかと思って。それで女性と女役の皆さんを集めて、お茶会みたいなことをしたらどうかなって思ったんです。参加してくれそうな女性に心当たりありませんか?」
マロリーのように演技の勉強に苦労している女役は沢山いるという。エルネスタも女役の質も大事だと言っていたし、折角だから纏めて底上げできないかと思ったのだ。
「面白そうね! それ、役者を育てるってことね?」
「そういうことになるでしょうか」
「うん、いいわ。それでいきましょう。育成会はちょっと言い過ぎだから、若手役者後援会ってことにしましょう! 任せて! 皆家で退屈してるもの、直ぐに集まるわ」
「えっ、そうなんですか?」
「テラテオス人は特にね。まだ雇ってもらえる年齢じゃないから、鬱屈としちゃう人もいるのよ」
社会との繋がりを絶たれた生活に耐えられないテラテオス人が、一定数いるそうだ。
「旦那さんの反対が気がかりだったんですが、それなら奥様を元気にする為って説得ができますね。……ただ、売れてない劇団の役者さんはお金の問題で自宮してない人もいるみたいなんです」
心は女で性愛対象は男なのだと主張しても、本当のところは判らないし、夫にとって物理的なものは大きいそうなのだ。だが未自宮を理由に弾くことはしたくないので、悩ましい。
「身体接触できない適切な距離で設定して、会場の出入り口も別々にしたらどうかしら。ああ、その前に会場がないわね」
「会場って…待ってください、そんな大人数集まりますか?」
「いけると思うわ。息子達の為に奥様ネットワークを築き上げてきたからね!」
雪江はルクレティアの行動力に脱帽した。嫁取りの執念を感じる。
「ううん…でも、目が行き届くかわからないので初めは小規模の方がいいと思うんです」
「そうねぇ、私もこういうのを手掛けたことはないし、私とユキエを含めて五人程度にしておきましょうか」
「じゃあ、会場はハクスリーさんに相談してみます。個人経営のお店より公共の施設の方が安心感ありますし」
「それがいいわね。男共の説得方法も考えましょうか」
ルクレティアが積極的に協力する約束をしてくれて頼もしい。ただで、というわけではなかったが。




