10. メンタルはティッシュペーパー
歓楽街の裏手の薄汚れた路地を幾つか折れて通り、低所得者の集まる界隈にチャニングの家はある。煉瓦造りのその集合住宅はモルタル目地の部分が所々盛り上がっていて、修繕は住人の手によって行われていると判る。3LDKと部屋数はあるが、部屋数以上の複数の人間が住んでいた。劇団員が金を出し合って借りている家だ。
「おかえり! どうだった? 直してもらってきた?」
チャニングの姿を認めると、居間の長椅子で衣装を縫っていた女役のマロリーが期待に満ちた顔をあげた。チャニングは脚本の入った鞄を足元に置くと、長椅子に広げられている衣装を脇に避け、上着も脱がずに座り込む。
「いや…」
両肘を膝について、項垂れる顔を両手で支えたチャニングの声が暗い。
「えっ? なんで? 何しに行ってきたの? 挨拶だけ? 次の約束は?」
「………った」
「なんて?」
チャニングの声が小さくて、マロリーは長椅子から身を乗り出す。
「してこなかった」
「は? 何言ってんの、あんた」
マロリーの声が低くなったのは無理からぬことだ。
ホールデン夫妻から脚本監修の話が回ってきて、劇団員一同興奮したのはつい最近。かの劇団は夫人の力を得てケスクス劇場の専属契約を手に入れたのだ。同じようになれる機会が巡ってきたら諸手を挙げて食いつくし、その日一日はその貴重な監修者を如何にしてチャニングの妻にするかで盛り上がった。最終的にはチャニングの妻である必要はない、俺が妻にする、いや俺が、と乱闘になりかけてマロリーがバケツで水をぶちまけ、全員直立不動で反省会を行った。それほどの騒ぎになる幸運を前にして、この男は何を言っているのか。マロリーでなくても耳を疑う。
「すんげぇ駄目出しされたんだ………」
「は? え? うん、直す箇所教えてもらったんだね? 良かった」
明らかに落ち込んでいるチャニングの言っていることが当たり前すぎて、マロリーの声音が素に戻る。
「女がいたんだよ」
「そりゃね? 女じゃなきゃ監修してもらう意味ないよね」
「どう接していいかわからんかった…」
「あ、うん。おかしなこと言ってないだろうね?」
女に縁の無い男にありがちなことだが、やらかしてさえいなければこの際心情などどうでもいい。マロリーが聞きたいのは成果で、弱音ではないのだ。
「わかんねぇ……優しそうな顔してんのにさくさく駄目出ししてきた…辛い…」
「弱すぎだからあんた! その人はあんたの脚本良くしようとして言ってくれてんだからね!?」
「女に駄目出しされんのこんな辛いと思わんかった…」
そもそも年頃の女と話した経験がないのに、初の機会が駄目出し必至というのがチャニングには荷が重かったのだ。
「ちょっと、本当しっかりして! 劇団が飛躍する好機なんだよ!?」
「ホールデン夫人怖かったんだよ……旦那はもっと恐かった…なんだよあれ、殺し屋かよ。なんであんなずっと睨んでんの? 俺なんかした? 二つ折りにでもされんの?」
頭を抱えるチャニングは、もうマロリーの言葉を聞いていない。眠ってもいないのに魘されるが如しの有様である。
「ねぇちょっと皆ー! 助けてー! ドワイトばっきばきに折れて帰ってきたんだけどー!」
マロリーが緊急事態を叫んだ。各部屋で内職をしていた者達がわらわらと集まり、チャニングを慰め、奮起させるべく一発芸大会が始まった。




