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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
第二章
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9. 聖母の夢を見る


 飛び込み営業は危険だということで、雪江はヨセフの伝手でまともな劇団を紹介してもらうことになった。初顔合わせはエルネスタが楽屋を用意してくれた。当然のように軍服のワイアットが同席し、初見でがつんとやるスタイルが定着している。エルネスタが連れてきた青年が入室した瞬間に蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。夫が常に周囲を牽制するのは独占欲以前に妻を守る為の必然で、そういうものらしいのだが、仕事相手と良好な関係を築きたい雪江ははらはらする。おかげで緊張はしていないのだが、良いのか悪いのか判らない。


 エルネスタが雪江の前、青年がワイアットの前に座り、エルネスタが双方の紹介をする。

 青年はドワイト・チャニングと言って、劇団メテオルドゥスに所属する脚本家だそうだ。褐色の肌に無精髭、伸ばしっぱなしと思われる黒紅色の髪は後ろで一括りにしている。眼鏡の奥の枯茶の目は垂れ目がちなのに、吊り上がった眉と表情の作り方の所為か険のある印象だ。背はそれ程高くないが痩身の為ひょろ長く感じる。


「うちの旦那が言うには、構成力はあるんだけど、女が現実離れしてるって。ま、典型的なやつだよ。そこがなんとかなれば劇場貸してやってもいいくらいのものはできそうだって」


 チャニングはずっと雪江を見ている。決して見惚れているわけではなく、正面のワイアットが怖くて見れないだけなのは明らかだ。それが却ってワイアットの機嫌を損ねる悪循環に陥っている。


「読んでくれ」


 チャニングは挨拶もそこそこに紐で綴じただけの脚本を雪江の前に置いた。


「え、と…? 今、ここでですか?」


 雪江は報酬の話もしてないのに突然仕事を振られるとは思わず、戸惑いがちに問うと、チャニングは気難しげな顔で頷いた。


「あんたがどれほどのもんか知りたい。依頼するかどうかはそれから決める」

「ばかかい! 女描けないあんたが何をどう判断するってんだよ、身の程を知れ! あんたがお願いする立場だよ!」


 雪江の目が点になると同時、エルネスタの雷が落ちた。大音声に驚いてチャニングは首を竦め、雪江も傾ぐ。ワイアットのチャニングを見る目が恐ろしいことになっている。


「エッ、エルナさん! その通りなんですけど! どこの馬の骨とも判らない人間との初仕事なんですから、試したい気持ちは解ります!」


 判断の辺りは雪江も頷きしかないのだが、此方も素人なのだ。そのまま説教に突入しそうな気配に慌てて割って入る。ワイアットの方は放っておいていい。雪江を口説いていると判断されなければ、どんなに恐い顔をしていても斬りかかりはしない筈だ。


「ちょっとお時間いただきますね!」


 雪江は脚本を手に暫くして、首を傾げた。


「菩薩かな…?」


 そこに描かれている女性はまさにその一言で言い表せる女性だった。どんな失敗も、暴言も、浮気も、心無い扱いも許し、男性を包み込む、包容力の塊。


「…あの。これ……こういう女性も、探せばいないこともないかもしれないとは思うんですけど…宗教劇ですか?」


 どこぞの聖母が許しの精神で奉仕している話、と思えば成立しなくもないので、雪江は念のため訊いてみた。


「何言ってんだ、恋愛劇に決まってんだろ」


 不快感丸出しの睨みが返ってきた。成る程、現実を教える仕事だ。雪江はすべきことを理解した。エルネスタが、「ね?」と言いたげな目をしている。


「……ええと。ここまで寛容だと、相手の男性に全く興味ないとか、全く期待してないとかだと思うので、それで恋愛に発展してるのが非常に違和感があります。ちょっと特殊な愛の形を描きたいとかではないんですよね?」

「あ゛? 特殊なわけあるか。心優しい女が駄目な男を受け入れ、癒す話だ、成立してんだろ」


 チャニングの目が吊り上がり、テーブルに片肘をついて下から睨み上げるような身の乗り出し方をした。まるでチンピラの恫喝だ。


「この優しさはお母さんです」


 少し怯んで上体を引きながらも、雪江がゆっくりと首を振るとチャニングがぐっと詰まった。心当たりがありそうだ。

 考えてみれば、女性と縁がない男性が多いといっても、母親は存在しているのだ。彼の女性の基準は母親なのかもしれない。ユマラテアドは必然的にマザコンが多かったりしないだろうか。もしかしてワイアットもそうなのかと、雪江はちらりと隣を見た。ワイアットは殴り付けたいのを我慢しているような目でチャニングを見ていた。雪江の仕事の場だから黙っていてくれているのだろう。雪江は見なかったことにして、そっと視線をチャニングに戻す。


「母親だって女だ。恋をして何が悪い」


 チャニングが年甲斐もなく恋をして、と子供に責められる母親みたいなことを言い出した。雪江はうっかり突っ込んでしまいそうになったものを呑み込む。彼は母親の代弁をしているのではない、脚本の話をしているのだ。


「悪いとは言ってません。ただ、本来母親は子供と恋愛しないでしょう、ということです。でも、そうですね。好きな人に対して母性を感じることもありますし、駄目男が好きな女性もいるものです。基本的な性格はこのままで、少し手直ししませんか。例えばここの、浮気のところ。直ぐに許してますけど、傷付く描写を入れると恋愛感情があるんだなって、判ります」

「……そう、か…?」


 チャニングは半信半疑といった風情で首を捻り、雪江を見て、エルネスタを見る。エルネスタはうんうんと雪江の言葉に頷いている。


「傷つく心があるんだって観ている人に伝われば、このソレンヌさんも血の通った人間に見えてきますし、感情移入もしやすくなります」

「だがそれじゃあソレンヌではなくなる」

「…宗教劇じゃないんですよね? 偉大なる母の愛とかを描きたいんじゃないんですよね?」


 チャニングは眉間に皺を作りながら唸った。ワイアットの眉間といい勝負になっている。彼はこの慈愛深きソレンヌに並々ならぬ拘りがあるようだ。拘っていたいものを、無理矢理壊すほどの理由は今の段階ではない。彼がそのままでいいというなら、雪江にできる事はないのだ。

 黙り込んだチャニングとは膠着状態になりそうだった。雪江はどうしたものかと眺めながら、ふとネヘミヤとの会話を思い出した。『理想だけの完全な夢を見たい客にはそうする』。


「チャニングさんはこれを観てお客様に何を感じて欲しいんですか?」

「あ?」


 チャニングの藪睨みが返ってきた。


「楽しんで、金を落としていきゃあそれでいい。こういう話は受けるんだよ」


 雪江は何度か瞬いてエルネスタを見た。エルネスタは眉を顰めている。


「お金儲け、ですか?」

「ああ。俺達が貸してもらえんのは小さな劇場だからな、連日満員でも劇団員全員が食ってくにゃぎりぎりなんだよ。ここで一度でもやらせてもらえりゃ、箔が付く。今よりもっと大きな劇場でやれる足がかりになんだよ」

「それで私に…?」


 ここで公演する為に、雪江の監修を条件に出されたのか。チャニングの頷きを見て彼の今までの態度に少なからず得心がいった。脚本家に対して、雪江は偏見を持っていたようだ。書くのが好きで、何か人に伝えたいことがあって、情熱を持って脚本を書いている人達ばかりだと思っていた。生活がかかっているのだからおかしなことではないのだが、少なくとも、もっと良いものを、面白いものを求める貪欲さがあると思っていたのだ。


「ちょっと才能ありそうなのは、大体こんな感じのしか見つかんなかったらしくてね」


 エルネスタが肩を竦めて付け加えた。


「どういう意味だよ」

「そのまんまの意味だよ。金儲けしたいならそれはそれでいいけどさ、此処でやりたいなら監修依頼しな。ちゃんと監修されて、女も観に来るようなもんにならなきゃ、ヨセフが許しても私が許さないからね」


 腰に手を当てふんぞりかえるエルネスタは、その愛らしい風貌に反して貫禄がある。負けじと睨み返していたチャニングは、やがては目を逸らして立ち上がった。


「持ち帰って考える」


 差し出されたチャニングの手に脚本を返して、雪江は彼を見送った。始終好感触がなく次の約束の話もなかったから、断られる気配が濃厚だ。エルネスタはその後ろ姿に呆れたように溜息をついた。

 エルネスタの言っていたことが雪江にも理解できた。

 女性が関わらなくても、業界の経済は回る。金儲けをしたいなら人口が多い方を相手にするのは道理だ。その結果、男性受けに特化した作品が主流になり、それによって生じる様々なしわ寄せが女性に行くのだ。


「エルナさん、凄く怖いです」


 雪江の眉尻はすっかり下がっていて、エルネスタもつられたように眉尻を下げた。


「だから言ったろ、あほみたいな脚本は撲滅しなきゃなんないんだよ」


 あほみたいな脚本は、あっても良いのだ。荒唐無稽と知りつつ楽しむことができる素地が観客にあれば娯楽として成立する。それを現実と認識してしまうと問題が生じるという話だ。ただ、現実を知る機会があまりにも少ない現状の方を変えることができなければ、素地ができあがらない。エルネスタの結論になってしまわざるを得ないのも理解できて、雪江は弱ったような笑みになった。






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