8. 命大事に
勢いに押される形で稽古見学の予定まで立ってしまっていたが、雪江も悪い気はしなかった。積極的に教えてくれるのは願ってもいないことだし、何より、脚本をよくすることで社会の役に立つようなのだ。
稽古は夜間なのでワイアットは心配したが、夜番はまだ続くので、ワイアットも同行し、彼の出勤時間に合わせて共に帰ることで話はついた。
客の引けた舞台で実際どんなことをしているのか、エルネスタの仕事ぶりを見せてもらう。脚本を手直ししてそれで終わりではなく、女役の演技指導も行っていて、成る程これは一つの劇団で手一杯になるわけだと頷ける。エルネスタの熱の入りようは座長にも劣らず、二人三脚で劇団を運営していると言ってもいい現場だった。
「脚本も大事だけど、良い女役を育てるのも大事なんだよ。ジュリアン!」
休憩に入ると、エルネスタは客席で見学していた雪江の元に女役の一人を呼び寄せた。
「この子の演技どうだった?」
「仕草が自然で違和感がないから、話に入り込むのに全然邪魔にならないです」
雪江は演技技術のことは解らないので印象を述べると、ジュリアンは嬉しそうに微笑んで美しいカーテシーをした。
「だろ? うちの看板役者なんだけど、自宮はしてないんだよ。切り落とさなくても演技力があれば一流の女役になれるって証拠さ」
エルネスタは誇らしげにしている。
「声は魔術で変えてるけどね」
詰襟の中に隠れていた首飾りを外して、ジュリアンが喋った。稽古中とはがらりと変わった低い男性の声に雪江が目を丸くすると、愉快そうにジュリアンが笑う。
「エルナさんの弟子になるの? 君みたいな可愛い子に指導してもらえるなんて、誰だか知らないけどそいつが羨ましいよ」
ジュリアンは流れるような所作で雪江の手をとり、まるで淑女を相手にしているかのように指先に口付けるふりをした。美女が男性の声で流し目をくれる、なんとも倒錯的な状況にどう反応したものか雪江が戸惑っていると、急に雪江の隣から圧が増した。ジュリアンが凍りつき、雪江が素早く手を引っ込める。
「俺の目の前で妻を口説くとはいい度胸だな。その首、いらんなら俺がもらってやろう」
「ち、違っ、挨拶! 社交辞令! 社交辞令だから! ねっ?」
剣の柄に添えられたワイアットの手を、慌てて雪江が両手で押さえる。色気を伴うしなやかな所作をしていたジュリアンが、色をなくし一瞬で直立不動になった。
「そうです! 社交辞令です! ご不快にさせて申し訳ありませんでした!」
ジュリアンは風でも起きそうな勢いで頭を下げ、物凄い速さでいなくなる。
「…悪かったね。大事な看板だから命を投げ出すようなことはして欲しくないんだけど……旦那がいるの見えてなかったのかねぇ」
エルネスタがワイアットの対応を当然のように受け止めて謝り、威圧を引っ込めたワイアットもそれを当然のように受け入れている。戸惑っているのは雪江だけだ。
「社交辞令で首が飛ぶとか、おかしくないですか?」
「社……スカイラーさん、あんた、苦労するね…」
エルネスタが信じられないものを見る目で雪江を見た後、ワイアットに同情の目を向けた。
「ぇえ…」
雪江の方がおかしい空気になっているが、納得がいかない。命の話になるのは絶対におかしい。ルクレティアなら頷いてくれる筈だ。
この一件により、ワイアットの強い反対にあった。女役との接触に限ったとしても、ジュリアンのような例を目の当たりにしては雪江も強くは出れず、男の欲を甘く見るなの一言で撃沈した。
皆が皆自分を狙っているなんて自意識過剰だ、という感覚が此方ではそのまま危機意識の低さに直結してしまう。頭では理解しても、何もされていないのに疑うのは失礼だという意識も強く働いていて、雪江はその辺りの切り替えがなかなかできない。疑うことが苦痛なのだ。この苦痛を抱えながらではどのみち難しいだろう。結局脚本監修だけに絞ることで話はついた。




