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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
第二章
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7. 捕捉される戦友


「おはよう、見て! 手紙が来たの!」


 午後も半ば、夜番後の睡眠から目覚めたワイアットが階段を下りてくるのを見つけるなり、雪江は封書を手にしたまま喜色満面で飛びついた。ワイアットは体当たりに近いそれを揺らぎもせずに受け止め、左腕に抱き上げる。

 差出人はエルネスタ・ホールデン。念願の返事が来たのだ。返事を待たせたことへのお詫びと、同業者が増えて演劇業界全体の質が上がるのは大歓迎であることが書かれていた。


「楽屋に招待してくれるって!」


 ワイアットの瞳を複雑そうな色が一瞬掠めた。間近でそれを捉えてしまって、雪江ははしゃぎすぎたかと口を噤んだ。ワイアットは何事もなかったかのように目元を和らげる。


「良かったな。日時は決まっているのか」


 先程の気配は幻だったかのようにワイアットの瞳には揺らぎ一つないが、雪江は躊躇いがちに頷いた。


「…うん、明日。一部と二部の合間の時間だからお昼済ませてから行くことにする」

「わかった。俺も行く」

「えっ、駄目だよ、暫く夜番でしょう? ちゃんと眠って」


 今回は娼館ではないのだ。危険人物アピールは不要の筈である。


「短時間睡眠で疲れを取る方法は心得ている」

「………それ、体には良くないんじゃないかな」

「置いて行くなら暫く早起きは無しだ」

「!?」


 心配したら脅しが返ってきて、雪江は目を剥いた。早起きが無くなる、即ちワイアットも睡眠時間が削れるということだ。明日の同行を受け入れれば一度で済むが、断れば短時間睡眠が何日続くか判らない。


「ず、狡い! 心配してるのに!」


 ワイアットの肩を叩いて遺憾を表明するが、雪江の拳では何度叩いたところで大した打撃も与えられていない。可愛いものを見る目で受け止められて、悔しさがいや増すだけだった。





 訪れたのはタザナで一番大きく権威のあるケスクス劇場。関係者入り口でエルネスタからの一筆を見せると、直ぐに中に通してくれた。

 出迎えてくれたエルネスタはふくよかな中年女性だった。淡黄の髪は緩くお下げにして胸元に垂らしており、空色の目は大きくて愛らしい雰囲気がある。直ぐ様エルナでいいよと気さくな挨拶をしてくれたので、雪江の緊張は解れた。


「ほら皆引っ込んで! あんた衣装ほつれてんだからとっとと縫いな! あんたご飯は? ちゃんと食べて二部までに体力回復しときなさい!」


 舞台衣装を纏ったままの役者達が、楽屋から廊下に顔を出していた。エルネスタが柏手を大きく響かせて叱りつけながら雪江一行を先導する。どうやら彼女はアラベラとはまた違った例外であるようだ。夫以外の劇団員達とのやりとりも日常的なものだと直ぐに判った。


「ごめんね、若い娘が来るって知れ渡っちゃったんだよ。でも心配いらなかったね」


 エルネスタがちらりと雪江の背後を見て笑う。軍服に身を包み帯剣した、目つきの鋭い偉丈夫が役者達を睥睨していた。まともに目を合わせた者など震え上がって自主的に扉の向こうにさようならしている。ワイアットはこの為に態々軍服を着てついてきたのだと悟った。教えを乞う為に来たのに、エルネスタの仕事仲間を威圧して回るのは如何なものだろうかと雪江は思う。


「いえ、あの…なんか…すみません」

「そういえばあんたテラテオス人だっけね」


 申し訳なさそうに身を縮める雪江を不思議そうに見遣ったエルネスタは、思い出したように呟いた。雪江が手紙で伝えてあったことだ。


「旦那がおっかなくて良かったよ。あんたみたいに控え目でか弱そうなのはモテるからね、最初にがつんとやっておくのは正解だよ」


 どうやらワイアットの存在は好意的に受け入れてもらえたようだ。だが、か弱そう、即ち舐められるの図式が出来上がっている雪江は胸を抉られた。それはモテるのではなく、扱いやすそうだから標的になりやすい、の間違いではないだろうか。所謂ちょろそう、というやつだ。

 雪江は故郷ではか弱いなどと評されたこともない。きっと比較の問題だ。ユマラテアド女性はどれだけ強いというのか。アラベラを思い出して虚無の表情になった。めちゃくちゃ強かった。マダム・プルウィットはたおやかで強そうに見えないが、ひょっとして接客業故の擬態だったりするのだろうか。若い頃の彼女を知らない。エルネスタは見た目は可愛らしいのに肝っ玉な空気がある。此方ではきっと、平凡をか弱いと言うのだ。小柄だからそう見えるだけだ。精神衛生上そう思った方が良い。

 雪江がじわじわと現実逃避をしているうちに、エルネスタが用意してくれた楽屋に着いた。室内を一通り調べ終わると、エルネスタの護衛と、ワイアット、エアロン、ナレシュが廊下に出て、コスタスだけが室内に残った。厳戒態勢に雪江の方が怯む。先程の様子ならワイアットだけで事足りるのではないかと思ったが黙っておいた。

 室内は壁際に鏡台が並び、反対側の壁際には舞台衣装がずらりと吊ってある。奥には小道具の箱が積んであった。


「もしかして、この為に空けてくれたんですか?」


 鏡台の上には化粧道具が出しっぱなしになっていて、先程まで使われていたような形跡がある。


「同じ部屋にあいつらがいたら落ち着いて話もできないからね」


 エルネスタは中央にあるテーブルセットに雪江を誘導し、紅茶を用意しながらなんでもないことのように言う。


「さて何から話そうか」

「……あの、すみません。私、不純な動機でこんなお願いをしてしまって」


 向かいに座り、目を輝かせて雪江を見るエルネスタに恐縮する。雪江は手紙に、正直に職が欲しい旨を書いていた。脚本監修に興味があるだとか、ゆくゆくは脚本家に、などという高い志からではないことは知っている筈なのに、エルネスタは嬉しそうなのだ。


「そんな細かいことはいいんだよ。私だって別に、この業界に関わりたいと思ってたわけじゃないんだ」

「そうなんですか?」

「うん。当時の脚本が酷くってさ。折角女も安全に観劇できるようにこんな立派な劇場があるってのに、肝心の女が楽しめないような内容ばっかりだったんだよ」


 なんでも、女性の実態を知らない男達で作り上げられているものだから、女性に対する幻想が酷かったのだそうだ。男性本位の内容に女性客は一度観ただけで駄作と判断し、ボックス席は直ぐに閑古鳥。それでも男の理想の詰まった話だから男性客は集まり、収益に問題はなかった。そして幻想の中で育った男性達は女性達にとって迷惑な存在になってゆくという実害が出ていたそうだ。


「それでも私は家族に守られてたからさ、他人事だったんだ。大体被害に遭うのはテラテオス人だったから…あ、ごめんね」

「いえ」


 雪江は首を振った。大抵の人間は自分の心と生活に余裕があって、何か繋がりでもなければ他のコミニティの為に直ぐ様行動を起こしたりはしない。エルネスタが特別薄情というわけではないのだ。


「でも結婚相手にって紹介されたのがこの業界の人間でさ」


 エルネスタは当時を思い出したのか、鼻筋に皺が寄るほどの渋面になった。

 当時の劇場の支配人だったのだが、幻想に毒された男の一人で、エルネスタの人格を否定し事あるごとに男に都合の良い女になるよう矯正しようとしたという。若き日のエルネスタは驚き怒り、離縁を申し出たが支配人が手放す筈もなく、周囲を巻き込んでの大騒動となった。最終的には離縁が成り、その時力になってくれた年若い役者と再婚したが、これも幻想に塗れた思考でエルネスタを扱った。


「もう、駄目だと思ったね。これは駄目。本っっっっっ当に駄目だと思ったわ。女が観ない演劇が男の情操教育になってたんだよ。これをこのままにしてたら私は幸せな結婚生活を送れないし、世の女が不幸になると悟ったわ」


 怒り心頭で奮起したエルネスタは再び夫と離縁し、幾らかましな思考を持った役者と再婚して教育を開始した。猛烈に教育した。その夫は役者から脚本家になり、演出を手掛けるようになって現在座長としてこの劇場と専属契約をするに至った、ヨセフ・ホールデンその人である。

 雪江は気圧されていた。自分も不純だったわ、という軽い話だと思っていたら、自分と女性の幸福の為に立ち上がった壮大な話だったのだ。


「初めは受けなかったんだよ。当時観劇が趣味って言ってる奴は幻想にどっぷり浸かってるのしかいなかったからね。だから夫婦を招待したりしてさ。女の評判を上げることから始めたよ。女心を学べる演劇だって触れ込みをして、サクラもやったよ。観劇後のホールで感動したとか、あんな男が現実にいたら女は皆惚れるとか、母親と二人で喋りまくって周囲の男に聞かせたりして。女が観に来てたら自然と男も釣れるからさ、そいつらをターゲットにして洗の…意識改革をしていったんだ」

「実際に女性と触れ合う機会が少ないから、教材として需要があったんですね」


 雪江は洗脳と言いかけたのは聞かなかったことにした。真面目くさって要約すると、エルネスタは微笑んだ。彼女としては、世の男性を教育している感覚のようだ。


「動機なんてどうでもいい。あほみたいな脚本が減るのは大歓迎だよ。私一人じゃこの劇団の面倒しか見れないからさ。あんたの手紙が嬉しかったんだ。一緒にくそみたいな脚本を撲滅するよ!」


 エルネスタは気後れしている雪江の手を両手でがっしりと掴んで、すっかり戦友を見る目になっていた。






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