4. 見えない深度
手紙の件をワイアットに話すと、もう自活の必要はないし、貢がれる文化問題は解決しただろうと止められた。雪江は職探しに理解を示してくれているものと思っていたのだが、どうもそうではないようだった。よくよく聞き出してみると、檳榔館の時は夫ではなかったからあっさり引いたことが判明し、雪江は己の早とちりぶりに頭を抱えた。思い返してみれば合意を得た覚えはない。雪江の主張をワイアットに聞かせただけだった気がする。あの時は夫婦ではなかったからそれでも良かったが、これからはそうもいかない。女性を家に囲い込むのが当たり前の価値観の中で育ち、危険であふれる外部との接触を極力させたくないワイアットとは、どうしたってぶつかることになる。
雪江は護衛達の帰宅後、喉を潤す為のハーブティーを二人分用意して居間の長椅子に並んで座り、とことん話し合う時間を作ることにした。
「やっぱり、不安なの」
「お前の価値の話か? それなら俺が保証する」
ワイアットの即答は以前と同じ言葉で色気も何もないが、今度は子を産む機能のことではないことは解る。それが嬉しくて、雪江の表情が少し緩んだ。
「足りないか?」
雪江は首を振る。足りるか足りないかで言えば足りないと答えるのが適切なのだろう。が、それでは彼が至らないと受け止められかねない。そうではないのだ。
外で働かない自分というものに慣れず、自分の稼ぎが殆どないという不安。新婚早々離婚したいと思っているわけではないが、永遠の愛を信じる盲目さは雪江にはない。初期の情熱的な想いが落ち着いた後は互いの努力次第だと思っている。ただ、此方では離婚即再婚が常識なので、離婚の際に女性にも自由になる財産が必要だという理屈は通り難い。そして現実的な備えとは別に、社会との繋がりが殆ど感じられず、この世界に根ざしている感覚が掴めないでいる心許なさ。これは切り離されたことがない相手にどう伝えたらいいのかわからない。
複雑に絡まり合う不安のうち、どれをどう伝えればワイアットの理解を得られるのか迷い、齟齬が生じないように言葉を吟味している間に、雪江は対面する形でワイアットの膝の上に乗せられていた。いつかのように慌てふためくことはないが、思考が乱れないわけではない。雪江は咎めるように目線の高さが近くなった濃藍の目を睨むが、彼は雪江の体に緩く両腕を回して囲い、真っ直ぐに目を見て言葉を待っている。
「この格好は真面目な話をするのには向いてないと思うの」
「気にするな」
「いやいや気になるからね! 前から思ってたんだけど絶対距離感おかしいから! こっちの人って皆こうなの?」
「他の男のことは知らん」
比較対象がないから判らないのはワイアットも一緒だった。雪江は思わず瞑目して額を押さえた。出会った当初から関係性に見合わないスキンシップがあったのも、適切な女性の扱いが分からなかったからか。雪江に不快感がわかなかったから良かったようなものの、生理的嫌悪があったら大惨事になっていただろう。雪江は今更指摘するのもおかしい気がして、溜息を吐くに留めた。
「なんでもいいから下ろして」
「必要ない」
「…」
こうなるとワイアットが満足するまで離してもらえない。以前も似たようなことがあった。雪江は既視感を覚えて記憶を掘りおこしてみる。あれは確か自活計画がバレた時だ。他にもあった気がする。この世界に落ちてきた初日、役所を訪れた時にも膝に乗せられた。あの時は対面ではなかったが、ワイアットは雪江が逃げると思っていた。
「あっ…これ、捕獲?」
ワイアットは無言だ。雪江は彼が答えるまで待つことにしてじっと見詰め合う。
「俺の稼ぎだけでは不安か?」
暫くの後口を開いたのはワイアットだったが、彼の中では膝抱っこの話は終わっていた。雪江はがっくりと項垂れた。だがどちらが大事な話かは明白なので、渋々彼の促しに従う。ゆっくりと首を振って否定を示す。
「貴方に想われるに相応しい人間でいたいの」
吟味した結果出した雪江の言葉に、ワイアットは不可解げに首を捻った。
「俺がお前が良いと言っている。それで十分じゃないのか」
ご尤もだが、今は頷くところではなかった。
「私が私に自信を持てないの。このまま何もしないでいたら、どんどんつまらない人間になっていく気がするの」
「…矢張り、足りないということか」
「何が?」
雪江の言葉を噛み砕くように考え込んだワイアットが呟いた言葉に首を傾げると、左腕に抱き上げられる。向かった先は二階。雪江は寝室の扉を開ける段になって何をする気なのか気付いた。
「えっ、今そういう流れだった!?」
「俺の愛情の示し方が足りないからだろう。朝起きられないのは我慢してくれ」
「ちっ、違う違う! そっちじゃない! これはそういう話じゃなくて!」
雪江はベッドに下ろそうとするワイアットの首に慌ててしがみついて阻止を試みる。雪江は全力だが、彼がその気になれば解くのは容易い。ワイアットは少し考えて、雪江を横抱きにしてベッドに腰を下ろした。
「どういう話だ。教えてくれ。お前が時々寂しそうな顔をするのと関係しているか」
「…そんな顔してた?」
ワイアットの膝の上に落ち着いて首の拘束を解くと、彼は頷き雪江の髪を片手で梳く。
「故郷を離れて寂しいのだと思っていた。二度と帰れないお前の気持ちを解ってやることはできないが、俺では埋める事はできないのか」
ワイアットの気遣わしげな眼差しには、ごく少量、もどかしげなものが混じっているように見える。
「…故郷のことは、もう良いの。良い、というか。別段、帰りたいと思っているわけではないの。…最近は、友達に会いたいと思う事もあるんだけど、彼女達ももういい大人だし、私がいないくらいでどうにかなったりするような生活はしてないもの。死んだわけじゃないから、そんなに深く悲しまずに済んでると思うし」
ハクスリーに聞いたら、事後処理は各国の行政機関がちゃんとやってくれているから、行方不明者扱いになったりはしていないと言っていた。それはそうだ。正式な条約なのに、そこの処理が甘くては困る。だから友人達にもちゃんと事実が伝わっていて、必要以上の悲しみを与えたりはしていない筈だ。互いが居ないと生きられない程心を預けていたわけでもないから、我慢できない寂しさではない。
「私を捨てた世界だもの。頼まれたって、帰ってやらない」
雪江はワイアットの首筋に側頭部を預けるようにして寄りかかる。受け入れるように肩を抱かれて、雪江は目を閉じた。
「食糧との交換だろう」
確かにそういうことになっている。雪江は吐息で微かに笑った。
「必要な人間を交換に出すと思う?」
卑下ではない。自明の理だ。下手な慰めは通用しないとワイアットも理解したのだろう。彼は沈黙で応えた。話せば気分が落ち込むのが解っているから、雪江の口は重くなる。なかなか言葉を発せずにいると、ワイアットが口を開いた。
「無理に話さなくても良い」
「ううん。話させて。じゃなきゃきっと、貴方が見当違いな悩みを抱え続けることになるもの」
そしておそらく雪江の早起きがなくなる。
「不甲斐な」
「ほら、それ」
言ったそばから出て来た単語を、雪江は少し笑いながら遮った。
「貴方が不甲斐ないとかじゃない。私の中の問題なの。貴方が私を必要としてくれて、凄く嬉しいの。幸せなの。でも、その幸せがいつまで続くんだろうって不安になるの」
言葉にしてくれるわけではないが、愛しいと語る眼差しや態度が雪江を温め満たしてくれる。だが満たされると同時に不安になるのだ。そんなにまで愛してもらえるような人間だろうか、この先も愛想を尽かさずにいてもらえるだろうか。
条約がなければワイアットには出会えなかった。だが条約によって雪江の自尊心は砕かれたのだ。色恋によって失った女としての自信だったのなら、とうに取り戻せていたのかもしれない。想う人に受け入れてもらえれば自信がつくものだと思っていた。愛されるのにも自信が必要だとは、思いも寄らなかった。
「だって、何かあったら簡単に捨てられる程度の人間だって、知ってしまった。…ううん、知ってたのよ。別にね、国とか世界にとって重要だなんて、不可欠な人間だなんてこれっぽっちも思ってなかったし、そうなりたいと思っていたわけでもないの。大抵の人間は私のようにちっぽけな人間なんだってことも知ってる。それでも問題なく生きていけることも。でも。実際にこんなはっきりした形で要らないって示されたら、私が頑張ってたことも、生きてきたことも、本当、どうでも良いことなんだな、って…実感がこびりついてしまって。考えてもしょうがないから考えないようにしてるんだけど、唐突に思い出したりしちゃうの。そうしたら、貴方が必要としてくれるような…それに見合う人間なのかしらって、疑問になるの。このままじゃ…」
街でワイアットを見かけた際に、立ち竦んだことを思い出す。もしあれが浮気現場だったとしても、雪江はきっと、嫉妬心すら抱けず納得してしまう。いらない人間なのだから、飽きられるのも当然だろうと。傷付いたと訴えることも、怒ることもきっとできない。これが健全である筈がない。
「…例えばこの先、貴方を奪いに来る女性がいても、妻は私だから、って、この人には私がいるから手を出さないで、って、きっと声を上げられない」
何もないとは、そういうことだ。雪江の声が段々沈んでいった。
「わかった」
ワイアットが宥めるように何度も雪江の背を撫でる。
「わかった。もういい。お前がお前を認める為に必要なのが仕事なんだな?」
雪江はうまく言葉にできている自信はなかったが、大事なことは伝わったようなのに安堵して、ワイアットの温もりに擦り寄るように頷いた。頭を撫でる優しい手付きと、触れ合う部分から伝わる規則正しい鼓動が気分を落ち着かせた。こんなに解りにくくて情けない話をしても、この人はまだ傍に居てくれる。
暫くそうしているとワイアットが立ち上がり、雪江はベッドに横たえられた。
「もう寝る?」
「いや?」
両肘をベッドに付いて雪江を囲い込むと、ワイアットは唇を優しく食んだ。
「…こういうことじゃないって、解ってくれたんだよね?」
結局押し倒されている状況に疑問符が舞う。
「ああ。これは別の問題だ。お前が俺のものだという実感が欲しい。これは俺に必要なことだ」
雪江はワイアットも不安なのだと気付いた。もしかして毎晩の所業もその所為なのか。そうであるならば、雪江の心情の吐露は更なる不安を煽る行為だったのかもしれない。そこまで思い至ると、ワイアットの瞳に在る熱が切実なものに見えてくる。乞うように頬を滑る親指を握って止めて、雪江は少し頭を持ち上げた。彼の唇に唇で触れると濃藍の目が見開かれる。雪江からは初めてだった。急に恥ずかしくなって目を伏せ、顔を背けようとすると片手で阻止される。ワイアットがひどく嬉しそうに目元を緩めていた。




