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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
第二章
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3. 止まるな危険


 それから午前中に護身術訓練の時間を取るようになった。三人の護衛が交代で指導にあたってくれている。雪江はユマラテアド女性が知っていて当たり前の護身のいろはだけでなく、人体の急所も殆ど知らなくて、「どうなってんのテラテオス」とナレシュを慄かせ、「なんでこの状態を放置してたんだ俺」とコスタスを青褪めさせた。それもこれも安穏と暮らしていた自分が悪いのだと平謝りしたくなる。エアロンなどは「もっとテラテオスのことを教えてください」と鬼気迫る顔になっていた。


「護身術の基本は?」

「危険な場所や人に近づかないこと」

「急所は?」

「目、鼻、顎、喉、耳、鳩尾、股間、膝、脛、大体正中線に集まってます」

「拘束を解いて先ずする事は?」

「逃げる」

「逃げるのに必要な間合いは?」

「二メートルです」

「してはいけない事は?」

「立ち向かう事」


 雪江の状態が余程衝撃的だったのか、毎度習った知識を刷り込むように繰り返すことから始まる。直ぐに実践に入るのだが、普段着で動けなければ意味がないとのことで、剣術を習うためにと揃えたトレーニングウェアの出番はない。裾捌きに慣れておかないと、いざというときに長い裾を踏んで転倒してしまう。


 本日の指導者、ナレシュが右手で雪江の左手首を掴む。雪江が左手を下から捻り上げるようにナレシュの腕の内側に入れると拘束が解ける。次は両手首を掴まれ、同じように両手を内側に回し入れ振り上げて逃れる。これを教えてもらった時、雪江はいたく感動したものだ。何せ難しい技術も運動神経も必要ないのだ。

 肩を掴まれた場合、首を締められた場合、髪を掴まれた場合、背後から抱き竦められた場合など、一通りの状況を体に覚え込ませるように反復練習する。


「拳だと傷めちゃいますから、顎や鼻を狙う時なんかは打つ面や手首を傷めにくい掌底がお勧めです」


 拘束を解き打撃を与えて逃げる隙を作る方法や、関節の利用法など、種類が多くて本当に皆これを覚えているのか雪江は疑問になるのだが、少しずつ身に付けつつあった。のだが。壁に背をつけ、首を締められた格好で雪江は固まっていた。


「もたもたしてたら殺られちゃいますよ」

「べ、別のが良いです、この間の、腕を内側から入れて捻って首から外すやつ」

「一応教えはしましたが、咄嗟の時ってあんまり複雑な動きできないですよ。簡単且つ初手で無力化できるやつが一番です」

「だって目はまずいです目は」

「だから狙うんじゃないですか。さぁ、真似だけですから」

「うう…絶対ぐにゅってなる…」


 雪江は涙目でナレシュの腕の内側から両手を通して顔を掴み、瞼の上から両眼に親指を押し込む仕草をする。目に突き込む感触を想像するとできる気がしない。実際に危機が迫ればできるのだろうか。掌底や蹴りなら兎も角、剣でやり合う方が心理的には楽なのじゃないかと思えてくる。それをナレシュに伝えると、頷きが返ってきた。道具を使った方が多少は負担が減るのだそうだ。


「鍵をこう挟んで握り込んで突けばいいです」


 鍵の握り方を実演しながら、ナレシュがこともなげに言う。雪江の感覚では過剰防衛だ。元はと言えば剣術指導を願ったのだから過剰も何もないのだが、護身術の域を逸脱している気がする。コスタスの言う、身近な道具で一撃必殺の段階になだらかに移行しているのかもしれない。


「怖いとは思いますが、危害を加えることを躊躇っちゃ駄目ですよ。その一瞬が命取りですからね」

「はい…」


 ナレシュの常にない厳しい表情と声音に、雪江は神妙に頷く。噛める子兎への道のりは心理面の方が厳しい。



 身体よりも精神が摩耗したので気分転換に出かけたい。とはいっても女性が気軽に居座れる喫茶店や一人でのんびり散歩できる公園もない。マダム・プルウィットは買い物がなくてもお茶を飲みにきていいと言ってくれているが、先日訪れたばかりだし、何も買わずに何度もとなると気が引けた。結局いつも通り食材の買い出しをするだけになる。

 道行く人々が男性ばかりなのには慣れたが、その視線が意思を持って向けられるのにはまだ慣れない。故郷では雪江が歩いていたところで誰も注意を向けたりはしなかった。それは其処にいて当たり前の存在として受け入れられていたからだ。此方でも珍獣として見られているわけではないが、雪江はまるで異物にでもなった気分になる。真実異邦人なのだから異物には違いないのだが、居心地が悪くて同行者を見ても、彼らは護衛で、仕事中だ。

 視線を漂わせていると、赤い色が目に飛び込んできて雪江は足を止めた。女性が出歩かないと人混みの色は地味だ。だから離れていても目を引いた。その広い背中は見慣れていて直ぐにその人だと判った。ワイアットだ。ワイアットが若い女性と話をしている。彼に姉妹がいるとは聞いていない。赤の他人だ。此方では滅多にないことだった。それでもただそれだけならば雪江は驚いただけで、足は動いたかもしれない。

 腰まで伸びた胡桃色の髪に青碧色の大きな目。顔立ちは派手ではないが、程よく整っていて仕草や眼差しに艶がある。すらりと背の高いその人はワイアットの肩に届くほどで、雪江は直感的に似合うな、と思ってしまった。それだけで雪江は自分がどうして此処に居るのか解らなくなってしまった。

 いくらもしないうちに女性の護衛達がやって来て、彼らが深々とお辞儀をすると、ワイアットは歩き出した。その横顔には何の表情も浮かんでいなかった。後ろ暗い様子や浮ついた様子もないから、浮気を疑うべくもない。それでも雪江は動けずにいた。


「奥様? 旦那様に声をかけてきましょうか?」


 コスタスの声で雪江は彼らの存在を思い出した。常に周囲に気を配っている彼らがワイアットに気付かないはずもない。


「いえ。勤務中でしょうから」


 何の用事で街まで来たのかは判らないが、まだ帰宅時間ではないからその筈だ。そうでなくとも、雪江は何と話しかけていいのか判らなかった。


 雪江は依存している。それを自覚して怖くなった。以前はそうではなかったのだ。恋人がいても学業や仕事が生活の中心にあって、振られたところで前後不覚になる程何もない人間ではなかった。

 ユマラテアドの女性の世界は狭い。日を追うごとにネヘミヤの言葉への理解が深まっていた。気軽に外に出られないし、交友関係も考えなしには広げられない。生まれた時から常識として刷り込まれていれば、日々を上手くやり過ごせるのかもしれない。おそらくユマラテアド女性として常識的な生活をしているマダム・プルウィットに陰に籠もったところは無いのだ。接客業として比較的風通しが良い時間を確保できているお陰かもしれなかったが。

 雪江も檳榔館通い以外は常識的な生活をしていると言っていい。ネヘミヤの仕事を続ける事は、意外にも反対されていなかった。ワイアットは誘拐事件の間に彼を信用に足る人間だと判断したようだ。ただ矢張り新規開拓は止められ、雪江もこれは当然と受け入れている。だがこのままの生活を続けるのは良くない。夫に寄生するだけの人間になってしまう。ただ専業主婦になったというのなら、そんな風には思わなかっただろう。雪江は今、ワイアットに見放されたら本当に何もない。家族も、打ち込める仕事も、逃げ帰っていい場所も。二本の足で立っていられる自信もなかった。


「よし、仕事する」


 不安定な足場を意識するのも怖い。雪江は不安に呑み込まれる前にペンをとる。劇場に通い、脚本監修を手掛けるエルネスタ・ホールデンに手紙を届ける行為を再開することにした。






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